十国春秋十國春秋卷九十二 閩三 景宗曦(延羲)・天德帝延政
閩の末期を担った兄弟、景宗曦(延羲)と天德帝延政の巻。景宗は太祖王審知の子で、康宗が弑されると擁立されて閩国王を称し、のち皇帝に即位した。弟の延政と骨肉の争いを続け、猜疑から宗族・旧臣を誅し、朱文進・連重遇に弑された。延政は建州で自立して国号を殷と称し、のち閩に戻したが、南唐の侵攻に敗れて降り、閩は滅んだ。
年表(25件)
- 通文四年939年康宗が殺されると威武節度使・閩国王を自称し、名を曦と改めて永隆と改元
- 永隆二年940年弟の建州刺史延政と不和になり、四万の兵で建州を攻めて大敗する
- 永隆二年940年延政が呉越の救援軍を城下で大破し、唐の仲裁で兄弟が宣陵に盟約する
- 永隆二年940年十一月、晋から威武軍節度使・兼中書令とされ閩国王に封じられる
- 永隆三年941年延政を鎮安軍節度使とし、富沙王に封じる
- 永隆三年941年甥の継業・継厳や旧臣を相次いで誅し、人々は身の安全を保てなくなる
- 永隆三年941年十月、皇帝に即位し、延政は兵馬元帥を自称する
- 永隆四年942年延政が汀州を四十二戦攻めて落とせず、閩軍は尤口で大敗する
- 永隆四年942年永隆通宝の大鉄銭を鋳造し、一枚を鉛銭百枚に当てる
- 永隆五年943年延政が皇帝を称して改元し、国号を殷とする
- 永隆五年943年直諫した校書郎の陳光逸を鞭打ち、首を樹に吊るして死なせる
- 永隆六年944年三月、朱文進と連重遇に弑され、のち景宗と諡される
- 天徳元年943年延政が建州で帝位に立ち、国号を大殷として天徳と改元する
- 天徳元年943年潘承祐を吏部尚書、楊思恭を兵部尚書として国政を任せる
- 天德二年944年朱文進が閩王を自称したので、統軍使の呉成義に討たせる
- 天德二年944年十一月、泉州の留従効らが黄紹頗を斬って帰順し、漳州・汀州も従う
- 天德二年944年十二月、唐の査文徽が侵攻するが、臧循を捕らえて建州で斬る
- 天德二年944年福州で連重遇と朱文進が殺され、その首が建州に送られる
- 天德三年945年臣民に迎えられて福州を南都とし、国号を閩に戻す
- 天德三年945年三月、李仁達らが南都で継昌・呉成義を殺し、僧の卓巌明を立てる
- 天德三年945年七月、叛意ありとされた福州の援軍八千余人を隘路で皆殺しにする
- 天德三年945年八月、唐軍に建州を落とされて城を出て降る
- 天德三年945年十月、王氏一族が金陵に移され、唐から羽林大将軍とされる
- 保大五年947年安化軍節度使に改められ、鄱陽王に降封されて饒州に鎮する
- 保大九年951年光山王に改封され、まもなく薨じて福王を贈られ恭懿と諡される
景宗本紀・出自と即位
- 景宗は名を曦、初めの名を延羲といい、太祖(王審知)の第二十八子である。
- これより先、私邸に幽閉されていたとき、庭石の上から白い煙が一筋、突然に立ちのぼり、しばらくして散った。延羲は恐れてひそかに天師の陳守元を召して禳わせたが、守元は「かならずしも悪い兆ではありますまい」と言った。
- まもなく連重遇が兵を率いて延羲を迎えに来た。延羲は康宗が自分を捕らえに来たと思い、急いで厠に逃げ込み、しばらくしてから出てきた。
- 康宗が殺されると、延羲は威武節度使・閩国王を自称し、名を曦と改めた。通文四年(939年)閏七月壬午のことである。この月、通文四年を永隆元年と改めた。
- 囚人を赦し、内外に賜与を行い、宸衛都が先主を弑したのだとして隣国に報告し、改元を告げる書状には「六軍は門前に踊躍し、群臣は日下に歓呼した」と述べた。また商人に間道を通らせて晋に上表し藩を称したが、国内では百官を置いてすべて天子の制のとおりにした。太子太傅で致仕していた李真を司空兼中書侍郎・同平章事とした。使者を送って林興を泉州で誅した。
- 十月、使者の鄭元弼が大梁に至り、康宗の書を届けて対等国の礼を用いるよう求めた。晋主は大いに怒り、詔して貢物と福建からの諸綱運を返し、元弼と進奏官の林恩に護送させて速やかに帰らせようとした。ところが兵部員外郎の李知損の進言を容れ、元弼と恩を投獄した。
- 十二月、王は新しい宮を造ってそこへ移った。
永隆二年(940年)
- 正月、晋主が詔して鄭元弼らを釈放した。もと通文年間に海を越えて契丹に使者を通じていたが、ここに至って契丹主が晋が閩の使臣を囚えたと聞き、「閩国の礼物はすべて喬栄に渡し、その使人は放って本国へ帰らせよ」と詔を下したので、晋がこの命を出したのである。
- この月、王は弟の建州刺史・延政と不和になった。親吏の鄴翹を建州軍教練使の監軍に、杜漢崇を商鎮軍の監軍に送った。ある日、鄴翹が延政と議論して合わず、「公は謀反する気か」と延政を面罵した。延政が翹を斬ろうとしたので翹は南鎮へ逃げ、延政は兵を出して攻めた。翹と漢崇は福州へ逃げ、西の辺境の守備兵はみな潰えた。
- 二月、統軍使の潘師逵と呉行真に四万の兵を与えて延政を攻めさせた。師逵は建州城の西、行真は城の南に陣を敷き、いずれも川を隔てて営を構え、城外の家屋を焼いた。延政は呉越に救援を求めた。壬戌、呉越は寧国節度使の仰仁詮と内都監の薛万忠に四万の兵を与えて建州を救援させた。
- 三月戊辰、師逵が三千の兵を分けて都軍使の蔡弘裔に率いさせて出戦させたが、延政は将の林漢徹を送って茶山で閩軍を破り、千余の首を斬った。丁丑、延政は決死の士千余人を募って夜に川を渡らせ、ひそかに師逵の塁に入って風に乗じて火を放ち、城上でも鬨の声を上げて呼応した。戦棹都頭の陳誨が師逵を殺し、軍は大いに潰えた。戊寅、さらに兵を進めて行真の寨を攻めたが、建州兵がまだ川を渡らぬうちに行真と将士が先に逃げ出し、死者は一万に及んだ。延政は勝ちに乗じて永平・順昌の二城を取り、これより建州の兵は盛んになった。丙戌、使者を唐に送って聘した。
- 四月、呉越の兵が建州に到着した。延政は閩軍がすでに退いたので、牛と酒を奉って撤兵を請うたが、仰仁詮らは従わず城の西北に営を構えた。延政は恐れて再び王に救援を求めた。王は甥の泉州刺史・継業を行営都統として二万の兵で救わせ、あわせて呉越に出兵の理由を問う書を送り、別に軽装の兵で糧道を絶たせた。折しも長雨が続いて呉越軍は食糧が尽きた。
- 五月、延政は城下で呉越軍を大破し、捕虜と斬首は一万を数えた。癸未、仁詮らは夜陰に紛れて逃げた。この月、唐主が客省使の尚全恭を遣わし、王と延政に和解を諭した。
- 六月、延政は牙将と女奴に誓書と香炉を持たせて福州に送り、王と宣陵で盟約した。しかしまもなく以前どおり互いに猜疑と怨みを抱いた。
- 七月、建州の兵に備えて福州の西の外郭に城を築いた。乙丑、晋は鄭元弼らに帛を賜って帰らせた。この月、僧一万一千人を得度させたが、重い賦税を逃れようとする民が多く含まれていた。
- 十月、王は商人に託して晋に上表し、自ら弁明した。
- 十一月甲申、晋は王を威武軍節度使・兼中書令とし、閩国王に封じた。
- 十二月、客省使の葛裕を唐に遣わして仁寿節を賀させた。文徳殿を建てた。
永隆三年(941年)
- 正月、延政は建州に周囲二十里の城を築き、建州を威武軍として自ら節度使を領したいと請うた。王は威武はもともと福州の軍名だとして許さず、建州を鎮安軍として延政を節度使とし、富沙王に封じた。延政は鎮安をさらに鎮武と改めて称した。
- 四月、王は子の亜澄を同平章事・判六軍諸衛とし、瑯琊王に封じた。庚辰、将軍の許仁欽に三千の兵を与えて汀州へ行かせ、弟の延喜を捕らえて連れ帰らせた。延喜は当時汀州刺史で、延政と通謀していると疑われたのである。
- 六月、甥の泉州刺史・継業を召し戻して福州の郊外で死を賜り、あわせてその子を泉州で殺した。王は延政が書を送って継業を誘っていたと聞いたからである。その翌日、司徒兼門下侍郎・同平章事の楊沂豊の一族を誅した。宗族と勲功ある旧臣が相次いで殺され、これより人々は身の安全を保てなくなった。諫議大夫の黄峻が棺を担いで極諫し、漳州司戸に左遷された。
- 国計使の陳匡範に礼部侍郎を加えた。匡範が商税の徴収法を強化して日に万金を献上すると請うたのでこの任命があった。ところがまもなく歳入が予定に届かず、匡範は省務の銭を流用して穴を埋めた。まもなく匡範が死に、事が露見したので、棺を割いて屍を切断し水中に棄てさせた。黄紹頗を代わりに国計使とし、紹頗は銭を納めた者に官を与えるよう請い、許された。
- 七月、王は大閩皇を自称し威武軍節度使を領した。富沙王延政と兵を交え、福建一帯は白骨が草むらのように散乱した。鎮武節度判官の潘承祐が延政に停戦と修好を請うたが、延政は聞かなかった。
- この月、甥の泉州刺史・継厳が人心を得ているとして罷免して帰し、毒殺した。
- 九月、瑯琊王亜澄を威武軍節度使とし、長楽王と改封した。
- 十月壬子、使者が汴に至り、晋に白金四千両・象牙二十株・葛五十疋・乾姜・蕉・乳香・沈香・玳瑁などを貢いで加官の謝恩とし、あわせて端午節の進物として白金千両・細葛二十疋・海葛・靴・扇などを進めた。癸丑、晋の度支に商税分の葛八千八百八十疋を献じた。
- この月、王は皇帝に即位した。同平章事の李敏が卒した。延政は兵馬元帥を自称した。
永隆四年(942年)
- 正月、司空李真の娘の李氏を皇后に立てた。閏月、尚食使の林宏嗣を唐に遣わして聘した。
- 三月、長楽王亜澄を閩王に進封した。
- 六月乙丑、晋主が没した。丁卯、富沙王延政が汀州を攻めた。帝は漳州・泉州の兵五千を出して救い、さらに将の林守亮を尤溪に入らせ、太乙宮使の黄敬忠を尤口に駐屯させて隙に乗じて建州を襲わせ、国計使の黄紹頗に歩兵八千を二軍に分けて後詰めさせた。延政は汀州を攻めること四十二戦に及んだが落とせなかった。
- 七月、延政は囲みを解いて去り、その将の包洪実・陳望が水軍を率いて閩軍を防いだ。丁酉、両軍が尤口で遭遇したが、黄敬忠が戦おうとしたとき占者が時刻がよくないと言ったので兵を動かさずにいた。洪実らが兵を率いて上陸し水陸から挟撃したので、敬忠は建州兵に殺され、捕虜と斬首は二千級に上った。林守亮と黄紹頗はいずれも逃げ帰った。
- 八月、使者を送って手詔と金器九百具、銭一万緡、将吏の任命の敕告六百四十通を富沙王延政に贈って和を求めたが、延政は受けなかった。
- 丙寅、九龍殿で群臣に宴を賜り、酒を減らしたという理由で甥の継柔と、酒を勧めた者一人を殺した。
- 永隆通宝の大鉄銭を鋳造し、一枚を鉛銭百枚に当てた。
- この月、同平章事の余廷英を泉州刺史とした。廷英はかつて詔を偽って良家の子女を掠め取り、帝は御史に弾劾させた。廷英は帝のもとに出向いて自首し、宴の費用として銭一万緡を献じ、翌日にはさらに皇后に巨額の銭を献じて弾劾を免れた。まもなく再び召されて宰相となった。
- 十二月、塩鉄使・右僕射の李仁遇を左僕射兼中書侍郎、翰林学士・吏部侍郎の李光準を中書侍郎兼戸部尚書とし、ともに同平章事とした。仁遇は帝の甥で、容姿によって寵を得た者である。光準はかつて夜宴に侍って酔い、帝の意に逆らったので市中に引き出して斬れと命じられたが、吏はむやみに殺すこともできず獄中に繋いでおいた。翌朝、帝は朝に出るとその官位を元に戻した。
- その晩、また侍臣と宴を張り、翰林学士の周維岳を捕らえて獄に下した。獄吏は寝台を掃いて待ち、「相公が昨夜ここにお泊まりです。尚書もご心配なさいますな」と言った。まもなく酔いが醒めて釈放された。
- 別の日、帝がまた宴を張ると群臣はみな酔って退出し、周維岳だけが座に残った。帝が「維岳は体が甚だ小さいのに、どうしてこれほど飲めるのか」と言うと、側近が「酒には別の腸があるので、大きくある必要はありません」と答えた。帝は喜んで、維岳を殿から引きずり下ろして腹を割いて酒の腸を見よと命じた。そばの者が「維岳を殺せば陛下と存分に飲む相手がなくなります」ととりなしたのでやめた。
- 帝は牛飲を好み荒淫に度がなかった。銀の板を鍛えて杯を作り群臣に飲ませたが、銀板は柔らかいので「冬瓜片」と呼び、また「醉如泥」とも名づけた。酒を満たすともはやどこにも置けず、飲み干して初めて手を離せた。群臣は酔いに耐えられず、酒の過失で殺された者は数知れない。
- 十二月、徐績を唐に遣わして仁寿節を賀させた。
- この年、晋に鋌銀二千両・花鼓六面・象牙十株・紅蕉二百疋・蟬紗二百疋・餅香と沈香と煎香あわせて六百斤・胡椒六百斤・肉豆蔻三百斤を貢ぎ、さらに端午節と天和節の分として白金四千両・海蛤十斤・貢蕉二十疋を進めた。
永隆五年(943年)
- 正月、富沙王延政が皇帝を称して改元し、国号を殷とした。
- 三月、帝は尚氏を賢妃に立てた。己卯、唐主が没したので、使者を金陵に送って弔祭した。
- 四月戊申朔、日食。殷の将・陳望らが福州を攻めて西の外郭に入ったが、まもなく敗れて去った。
- 六月、故宰相の王倓の墓を暴いてその屍を斬った。校書郎の陳光逸が直諫したので数百回鞭打ち、首を樹に吊るして死なせた。
- この月、帝が娘のある公主を嫁がせたとき、朝士で祝賀に来なかった者十二人を笞刑にした。御史中丞の劉賛が糾弾しなかったとして笞刑に処されようとしたが、諫議大夫の鄭元弼が切諫して免れた。賛は結局それを憂えて死んだ。
- この年、侯官県の薛老峰で、ある夜、風雨とともに数千人が騒ぐような音がし、朝になって見ると三文字が逆さまに立っていた。
永隆六年(944年)
- 正月、唐が書を送って兄弟が争っていることを責めたので、帝は周公が管叔・蔡叔を誅し、唐の太宗が建成・元吉を誅した故事を引いて返答した。
- 三月、拱宸都指揮使の朱文進と閤門使の連重遇は、康宗の時に罪を得ていたので国人に討たれるのを恐れ、互いに婚姻を結んで身を固めていた。帝は誅殺を思い切ってやる質で、あるとき西園に遊んで酔い、控鶴指揮使の魏従朗を殺した。従朗は朱・連の一党であった。また酒に酔って白居易の詩を吟じて文進と重遇を当てこすった。そして二人に酒を勧めると、二人は立って涙を流し、再拝して「臣子は君父に仕えるもの、どうして他意がありましょう」と言った。帝が答えないので、二人は大いに恐れた。
- 折しも皇后は尚賢妃の寵を妬み、帝を除いて自分の子の亜澄を立てようとし、人をやって文進と重遇に「主上はお二人をたいそう快く思っておられません。どうなさいます」と告げさせた。
- 乙酉、皇后の父の李真が病んだので、帝が真の邸に見舞いに行くと、文進と重遇は拱宸馬歩使の銭達に馬上で引き倒させて弑した。
- さらに王氏の一族五十余人を殺した。鄭元弼は言葉を曲げず屈せず、建州へ奔ろうとして殺された。
- のち帝を福州の城北に葬り、睿文広武明聖元徳隆道大孝皇帝と諡し、廟号を景宗とした。
- これより先、太祖が福州を取った日、桃林村で一夜、地が震えて数百面の太鼓が鳴るような音がし、翌朝見ると稲がみな逆さに土に挿さっていた。その後、太祖は閩全土を領有した。ここに至って桃林でまた鼓の音がし、稲もやはり逆さに土にぶら下がり、数か月を経ずして禍が起こり王氏も滅んだ。興亡の兆しが同じ轍を踏んだので、識者はこれを異とした。
天德帝本紀・出自と建国
- 天徳帝は名を延政、景宗の弟である。景宗が立つと延政を建州節度使に任じ、富沙王に封じた。景宗が暴虐をほしいままにしたので延政はたびたび書を送って切諫し、景宗は怒って兵を挙げて攻め、兄弟はついに仇敵となった。
- 久しくして、延政は建州で国を開き自ら帝位に立ち、国号を大殷とし、永隆五年を天徳元年(943年)と改めた。
- 将楽県を鏞州に昇格させ、永平鎮を龍津県とし、まもなく鐔州を置いた。張氏を皇后に立てた。
- 節度判官の潘承祐を吏部尚書、節度巡官の楊思恭を兵部尚書とし、まもなく承祐を同平章事、思恭を僕射に遷して軍国の事を録させた。ただし牙参や隣国との交際はなお藩鎮の礼のままであった。
- 五月、潘承祐が上書して十か条を陳べたので、官爵を削って私邸に帰らせた。
- この年、故靈昭王の延禀に武平威肅王の号を加封した。
天德二年(944年)
- 正月、天徳通宝の大鉄銭を鋳造し、一枚を百に当てた。
- この月、唐が使者を送って、兄弟がなぜ争うのかと書で問うてきた。延政は返書で、唐が楊氏の国を奪ったことを非難したので、唐主は怒って和好を絶った。
- 三月、朱文進と連重遇がその君(景宗)を弑し、文進が自ら閩王に立った。帝は統軍使の呉成義に討たせたが落とせなかった。
- 八月癸丑、晋は朱文進を威武軍節度使・知閩国事とした。
- 十月、帝は陳敬佺に三千の兵を与えて尤溪と古田に、盧進に二千の兵を与えて長溪に駐屯させた。
- 十一月、泉州指揮使の留従効が王忠順・董思安とともに泉州刺史の黄紹頗を捕らえて斬り、帝の甥の継勲に軍府の事を主宰させ、副兵馬使の陳洪進を送って勝報を献じ、あわせて紹頗の首を箱に納めて届けた。洪進が尤溪を通ったとき、福州の守備兵数千人が道を塞いだ。洪進は「義軍がすでに朱某を福州で誅した。私は道を急いで建州で新君をお迎えするところだ。お前たちはまだここを守って何になる」と偽ったので、衆は潰散し、大将数人が洪進に従って建州に赴いた。帝は継勲を侍中として泉州刺史を領させ、従効・忠順・思安・洪進をいずれも都指揮使に任じた。
- 漳州の将・程謨が刺史の程文緯を殺し、帝の甥の継成を奉じて州の事を代行させた。汀州刺史の許文稹は表を持って降ってきた。
- 十二月癸丑、晋は朱文進に同平章事を加え閩国王に封じた。文進は黄紹頗が死んだと聞いて大いに恐れ、統軍使の林守諒と内客省使の李廷鍔に泉州を攻めさせた。鉦や鼓の音が数百里に響いた。帝は大将軍の杜進に兵を与えて泉州を救わせ、留従効が門を開いて福州の兵と戦い大いに破り、守諒を斬り廷鍔を捕らえた。帝はさらに統軍使の呉成義に戦艦千艘を率いさせて福州を攻めさせた。文進は呉越に援を乞い、子弟を人質に送った。
- この月、唐は洪州営屯都虞侯の辺鎬を行営招討諸軍都虞侯とし、枢密副使の査文徽・翰林待詔の臧循とともに侵攻させた。文徽は建陽から進んで蓋竹に駐屯したが、漳州・泉州・汀州の三州がすでに殷に降ったと聞き、また鏞州の将・張漢卿が八千の兵を率いて近づいたので、文徽は建陽まで退いて守った。臧循は邵武に駐屯したが、邵武の民が殷軍を導いて循の軍を襲い破り、循を捕らえて建州に連れ帰って斬った。
- 呉成義は唐兵が来たと聞き、偽って福州の吏民に「唐がわれらの賊臣討伐を助け、大軍がもう来るぞ」と告げさせた。福州の人は大いに恐れた。乙未、朱文進が同平章事の李光準を送って国の宝を献じてきた。丁酉、南廊承旨の林仁翰が連重遇を邸で刺殺し、福州の人はさらに文進を殺して成義を城に迎え入れ、二人の首を箱に納めて建州に送った。
天德三年(945年)
- 正月、臣民がこぞって帝を長楽府に迎え帰した。帝は唐の兵が来ているため遷都する暇がなく、詔して福州を南都とした。甥の門下侍郎・同平章事の継昌に南都内外諸軍事を督させて福州に鎮せしめ、飛捷指揮使の黄仁諷を鎮遏使として兵で守らせた。国号を閩に戻した。南都の侍衛および両軍の甲士一万五千人を建州へ出して唐に当たらせた。
- 二月、唐の査文徽が増兵を請い、唐主は天威都虞侯の何敬洙を建州行営招討馬歩都指揮使、将軍の祖全恩を応援使、姚鳳を都監とし、数千の兵を合わせて侵攻させ、崇安から進んで赤嶺に駐屯した。帝は僕射の楊思恭と統軍使の陳望に一万の兵を与えて防がせ、川の南に柵を並べて十日余り戦わなかった。唐軍も戦おうとしなかった。思恭が帝の命として望に出戦を再三促したので、望はやむなく川を渡って唐と戦った。全恩らは大軍を正面に当て、別に奇兵を出して背後に回らせたので閩軍は敗れ、望は戦死し、思恭はかろうじて身一つで逃れた。帝は大いに恐れて城に籠もり、董思安と王忠順に五千の兵を与えて建州に来させ、要害を分け守らせた。
- 三月、著作郎の陳継珣と指揮使の李仁達が謀を合わせてひそかに南都に入り、鎮遏使の黄仁諷を説いて府に入らせ、帝の甥の継昌と呉成義を捕らえて殺した。己亥、仁達は僧の卓巌明を天子に立て、晋に藩を称した。帝はこれを聞いて仁諷の一族を誅し、統軍使の張漢真に水軍五千を与え、漳州・泉州の兵と合わせて巌明を討たせた。
- 四月、漢真が南都に至って東関を攻めたが、仁諷は一族が皆殺しにされたと聞いて門を開いて力戦し、閩軍を大破した。漢真は捕らえられて殺された。
- 仁達は巌明を立ててから自ら判六軍諸衛事となり、仁諷は西門に、継珣は北門に駐屯した。あるとき仁諷はしみじみと継珣に言った、「人が人であるのは忠信仁義があるからだ。自分はかつて富沙王に功があったのに途中で背いた。忠ではない。人が甥を自分に託したのにその人とともに殺した。信ではない。先ごろ建州の兵と戦って殺したのはみな郷里の旧知だ。仁ではない。妻子を棄てて人に魚肉のごとく扱わせた。義ではない。この身は十度沈んで九度浮かんだようなもので、死んでも恥が余る」。そう言って胸を打って慟哭した。継珣は「大丈夫が功名を求めるのに、どうして妻子を顧みよう。この話はやめておけ。禍を招くぞ」と言った。仁達はこれを聞き、人をやって仁諷と継珣が謀反したと告げさせ、二人とも殺した。これによって兵権はすべて仁達に帰した。
- 五月丁巳、仁達は巌明に戦士の大閲を請い、ひそかに人をやって刺殺させ、うわべは狼狽して驚き逃げるふりをした。そのうえで威武留後を自称し、保大の年号を用いて唐に上表して藩を称し、あわせて晋にも使者を送って入貢した。
- この月、唐兵が建州を包囲し、たびたび泉州の兵を破った。許文稹は汀州で唐兵を破り、その将の時厚卿を捕らえた。
- 七月、福州の援軍に叛意ありと告げる者があった。帝はその鎧と武器を取り上げて帰らせ、隘路に兵を伏せて皆殺しにした。死者は八千余人。その肉を干して持ち帰り食料とした。
- 唐の将・辺鎬が鐔州を抜いた。帝は使者を送って呉越に臣を称し、附庸となる代わりに救援を乞うた。
- 八月、唐兵の建州包囲が長引き、建州の人心は離れた。董思安に去就を考えるべきだと言う者もあったが、思安は王氏に背かぬと誓い、衆はその言葉に感じて背く者がなかった。丁亥、唐の先鋒橋道使・王建封が真っ先に城壁に上り、建州は陥落した。帝は城を出て降り、王忠順は戦死し、思安は衆を整えて泉州へ奔った。
- もと唐兵が来たとき、建州の人は王氏の内乱と楊思恭の重税に苦しんでいたので、争って木を伐って道を開き迎え入れた。ところが城が破れると唐兵は略奪をほしいままにし、宮室も民家もほとんど焼き尽くした。その夜は寒い雨が降り、凍死者が道に折り重なった。建州の人は失望した。
- 九月、許文稹が汀州を、帝の甥の継勲が泉州を、継成が漳州を、いずれも唐に降した。唐は建州に永安軍を置いた。
- 十月、王氏の一族をことごとく金陵に移した。唐は帝を羽林大将軍とし、楊思恭を斬って建州の人に謝った。
- 保大五年(947年)、帝を安化軍節度使に改め、鄱陽王に降封して饒州に鎮せしめた。九年(951年)、光山王に改封した。まもなく薨じ、福王を贈られ、恭懿と諡された。
- 閩は七主を伝え、通算五十三年であった。
史論
- 論に曰く。太祖が建国したころ、「僧が陳(陣)となり、馬に騎って来たり馬に騎って去る」という讖が伝えられ、説く者は司空(王潮)が泉州刺史となったのが丙午の年に当たるとした。『五代史』などの諸書が唐兵の建州攻略を保大四年とするのは、この讖の語とかなり合う。しかし司馬光が司空の福建観察使就任を景福二年に記し、天徳帝が金陵に移されたのを開運二年とするのからすると、他書のいう伝国六十一年や五十五年とはどうしてこうも食い違うのか。ここではおおむね涑水(司馬光)の編年に依ってその大略を順序づけた。