十国春秋十國春秋卷九十 閩一 王潮(字信臣)・王審知(字信通)

閩の基を開いた王潮(字は信臣、?–897年)と、その末弟で閩の太祖となる王審知(字は信通、862–925年)。ともに光州固始の人で、弟の審邽とあわせて郷里に「三龍」と呼ばれた。唐末、王緒の軍に加わって南下し、暴虐な緒を捕らえて潮が主に推された。泉州・福州を取って五州を領し、唐から福建観察使、のち威武軍節度使とされた。潮の死後は審知が継ぎ、瑯邪王・閩王に封じられた。倹約を旨とし賦税を軽くして士人を厚遇し、羅城と夾城を築き、甘棠港を開いて海外との交易を盛んにした。称帝を勧められても「門を開いた節度使でありたい」と退けた。諡は忠懿、のち昭武孝皇帝と追諡され廟号は太祖。

年表(25件)
  • 光啓元年885年王緒を捕らえて主に推され、泉州を囲んで翌年に廖彦若を殺し領有する
  • 大順二年891年観察使の陳巌が没し、その妻の弟の范暉が留後を自称する
  • 景福二年893年福州を落として留後を自称し、九月に唐から福建観察使とされる
  • 乾寧初894年汀州を囲んだ黄連洞の蛮族二万を李承勲に破らせ、閩をほぼ平定する
  • 乾寧三年896年福建が威武軍に昇格し、潮が節度使・検校尚書左僕射となる
  • 乾寧四年897年潮が薨じ、司空を贈られる。大事は子でなく弟の審知に託された
  • 光化元年898年審知が唐から威武軍留後・検校刑部尚書に充てられる
  • 光化三年900年同中書門下平章事・検校右僕射を加えられる
  • 天復二年902年唐から武庫の戟十二枝を賜り、福州の外羅城四十里を築く
  • 天祐元年904年検校太保を加えられ、瑯邪王に封じられる
  • 天祐二年905年南北の夾城を築いて三城とし、周囲二十六里四千八百丈とする
  • 天祐三年906年一丈六尺の金銅仏像と一丈三尺の菩薩像二体を鋳造する
  • 開平元年907年開元寺で二十万人規模の無遮の斎会を設け、梁から兼侍中を加えられる
  • 開平三年909年梁から中書令・福州大都督長史を加えられ、閩王に進封される
  • 開平三年909年傲慢な淮南の使者張知遠を斬り、淮南と断交する
  • 開平四年910年侯官県の西湖を浚渫して四十里に広げ、無数の民田を灌漑する
  • 乾化元年911年梅溪場に閩清県を置いて福州に隷属させる
  • 貞明二年916年呉越と婚姻を結び、鉛銭を鋳造して銅銭と併用する
  • 貞明四年918年虔州を救うため兵を鄠都に駐屯させたが、楚の敗報を聞いて引き返す
  • 貞明六年920年僧の浩源らを誅し、泉州節度使を求めた甥の延彬を私邸に退ける
  • 龍徳二年922年大鉄銭を鋳造し、開元通宝を銭文として五百文を一貫とする
  • 同光元年923年鋳造炉十三か所で仏像を鋳、唐主から金身報恩之寺の額を賜る
  • 同光三年925年汀州・漳州に侵入した漢主を撃退し、唐から検校太師・守中書令を加えられる
  • 同光三年925年十二月辛未に薨じる。在位二十九年、享年六十四、諡は忠懿
  • 龍啓初933年昭武孝皇帝と追諡され、廟号を太祖、陵を宣陵とする

司空世家・出自

  • 王潮、字は信臣、光州固始の人。五代前の祖の曄が固始令となり、民がその仁を慕って引き留めたため、そのまま土着した。父の恁は農業を営み、かなりの資産で知られた。

司空世家・王緒の軍中で

  • 唐末、僖宗が蜀へ避難し群盗が各地に起こった。江淮の寿春の屠殺業者・王緒が妹婿の劉行全と五百人を集めて寿州に拠り、まもなく一万余に膨れて将軍を自称、さらに光州を取って豪傑を軍に組み入れた。潮はこのとき県の史であった。潮は弟の審邽・審知とともに才気で知られ、郷里の人は三人を「三龍」と呼んだ。
  • 緒は潮を軍正として倉庫を管理させ、兵士たちはその誠実さを認めた。当時、蔡州の秦宗権が兵を募っていたので、緒は光州・寿州の二州を宗権に付属させ、宗権は緒を光州刺史として黄巣討伐の兵を召集した。緒がぐずついて動かないので宗権が兵を出して攻め、緒は衆を率いて南へ逃げた。潯陽・贛水を掠め、汀州を取り漳浦を陥れたが、いずれも保つことはできなかった。
  • 糧食が乏しいため強行軍を続け、「老人や子供を連れる者は斬る」と軍中に触れた。潮ら三兄弟は母を奉じていたので、緒は潮を責めてその母を斬ろうとした。潮らが母より先に死にたいと願い、諸将士も揃って助命を請うたので許された。
  • 術士が軍の気を望んで「軍中に急に興る者が出る」と言ったため、緒はますます猜疑を強め、部下のうち体格のすぐれた豪傑を事にかこつけて次々に誅殺し、劉行全までも殺された。将士たちは「行全は緒の身内で軍の先鋒随一だったのにこの有様だ。まして我らはどうなるか」と恐れた。

司空世家・王緒を廃して主となる

  • 軍が南安に至ったとき、潮は前鋒将に説いた。墳墓も妻子も棄てて盗賊となったのは緒に脅されただけで本心ではない、緒は猜疑深く残忍で才能ある将吏は必ず殺される、朝夕の身も保てぬありさまで大事を成せるはずがない、あなたほどの人物こそ危ういと。前鋒将は悟り、潮と抱き合って泣いた。そこで壮士数十人を竹藪に伏せ、緒が通りかかったところを躍り出て捕らえ、全軍が万歳を叫んだ。
  • 潮は前鋒将を主に推したが、前鋒将は「自分を生かしてくれたのは潮だ」として辞退した。潮も固辞して決まらないので、地をならして剣を刺し、「拝礼して剣が三度動いた者を主とする」と祝した。審知の番になると剣が地から躍り上がったので、衆は神意として審知を拝したが、審知は潮に譲って自分は副となった。緒は「あの男を殺せなかったのは天意か」と嘆いた。
  • 潮は「天子が難に遭っている。これから交州・広州へ出、巴蜀に入って王室を助けよう」と全軍に令し、出発しようとした。ところが泉州の人・張延魯らが、刺史の廖彦若が貪欲残虐であること、潮の軍が規律正しいことを聞き、長老を率いて牛と酒を奉じて潮を迎え、州の将として留まるよう願った。潮は兵を率いて泉州を包囲した。光啓元年(885年)八月のことである。翌年八月に泉州を抜いて彦若を殺し、その地を領有した。

司空世家・福州を得る

  • これより先、黄巣の部将が福州を奪っていた。建寧の人・陳巌が千余人を集めて「九龍軍」と号して福州を奪回し、福建観察使の鄭鎰は巌を団練副使に推した。左廂都虞候の李連が驕慢で無法、その配下が郡人の害となったので巌が誅そうとすると、連は渓洞へ逃げ込み衆を集めて福州を攻めたが、巌が撃ち破った。鎰は巌を自分の後任に表し、巌は観察使となった。ここに至って潮は使者を送って降り、巌は潮を泉州刺史に推薦した。
  • 潮は泉州を得ると離散した民を招き寄せ、賦税を均等にし兵備を整えたので、官吏も民も喜んだ。大順二年(891年)、巌の病が篤くなり、書を持たせた使者で潮を召して軍政を授けようとしたが、潮の到着前に巌は没した。巌の妻の弟である都将・范暉が将士を誘導して自ら留後となった。
  • 巌の旧将の多くは潮に帰し、暉は討てると告げた。潮は従弟の彦復を都統、弟の審知を都監として福州を攻めたが、一年たっても落ちなかった。
  • 暉は威勝節度使の董昌に援軍を求めた。昌は巌と姻戚だったので温州・台州・婺州の兵五千を送った。彦復らは援軍が来る前の撤退を請うたが許されず、潮の親征と増兵を請うと、潮は「兵が尽きれば兵を足し、将が尽きれば将を足す。兵も将も尽きたときに私が行く」と令した。そこで彦復らが急攻し、景福二年(893年)五月、暉は印を監軍に渡して城を棄てて逃げた。庚子の日に彦復らが入城し、辛丑に暉は将士に殺された。
  • 潮は福州に入って留後を自称した。素服で陳巌を葬り、自分の娘を巌の子の延晦に嫁がせ、巌の一族を厚遇した。
  • 建州の人・徐帰範が州を挙げて潮に応じ、刺史の熊博が死んだ。汀州刺史の鍾全慕は戸籍を差し出して命に従い、嶺海一帯の群盗二十余の集団もみな降伏または潰散した。こうして潮は五州の地をすべて領有した。九月戊戌、唐帝は潮を福建観察使とした。

司空世家・閩の統治と薨去

  • 乾寧初(894年)、黄連洞の蛮族二万が汀州を囲んだ。潮は将の李承勲に一万を率いさせて撃たせ、蛮族は囲みを解いて去った。承勲は漿水口まで追撃して破り、閩の地はほぼ平定した。
  • 潮は四門義学を創設し、流亡した民を帰らせ、租税を定め、官吏を州県に巡らせて農業と養蚕を勧め、隣接する道と友好を結んで境域を守り民を休ませたので、人々は安んじた。
  • 乾寧三年(896年)九月庚辰、唐は福建を威武軍に昇格させ、潮を節度使・検校尚書左僕射とした。四年冬、潮は病んだ。審知が軍府の事を代行した。十二月丁未、潮薨去(897年)。朝廷に上奏され、司空を贈られた。開平年間には潮のために廟が建てられ「水西大王」と称された。
  • 潮は沈着勇敢で智略があった。審知が観察副使であったとき、過ちがあれば容赦なく杖で打ったが、それを憚らず、審知も恨む様子を見せなかった。病床では自分の子の延興・延虹・延豊・延休らを措いて審知に大事を託し、世人はその人を見る目に感服した。

太祖世家・出自と継承

  • 王審知、名は審知、字は信通。潮の末弟である。身長七尺六寸、紫色の顔に方形の口、高い鼻梁。常に白馬に乗ったので軍中では「白馬三郎」と呼ばれ、居所には常に紫の気が覆っていたという。あるとき潮が人相見に兄弟を見させると「一人が一人にまさる」と言い、審知は側に控えていて汗を流して退いた。乾寧年間に福建観察副使となったが、涅槃という僧が人前で驚いて審知を指し「金輪王の第三子が人間界に降り、生殺の権を専らにする」と言った。
  • 潮の病により権知軍府事となり、潮の死後は次兄で泉州刺史の審邽に譲ったが、審邽は審知に功があるとして受けなかった。そこで審知は福建留後を自称して朝廷に上表した。
  • 光化元年(898年)三月己丑、唐は審知を威武軍留後・検校刑部尚書に充てた。十月癸卯、金紫光禄大夫・右僕射・本軍節度使を授けた。三年(900年)二月壬申、同中書門下平章事・検校右僕射を加えた。まもなく光禄大夫・検校司空・特進・検校司徒に改めた。
  • 天復年間、唐帝が鳳翔にあったとき、審知に朱書の詔を賜り、三品以下はすべて承制して任命できるようにした。二年(902年)、唐は武庫の戟十二枝を賜って私門に列ねさせた。これは通例にないことである。この年、福州の外羅城四十里を築いた。

天祐元年(904年)

  • 四月、唐は右拾遺の翁承贊を遣わし、審知に検校太保を加えて瑯邪王に封じ、食邑四千戸・食実封百戸を与えた。
  • これより先、蕭梁の時代に王氏の遠祖である王霸という者が福州の怡山で道士をしており、「わが子孫はこの地の王となる」と言って讖を作り壇の下に埋めた。光啓年間、爛柯の道士・徐玄景が地を掘ってその文を得た。「樹は枯れても伐るに及ばず、壇は壊れても結び直すに及ばぬ。千年に満たずして自ずと子孫の列が現れる」「後に来たるは三王、潮水が禍いを洗い流す。巌は二乍の間に逢って滅びを免れぬ。子孫がわが道に依れば代々閩の地に封ぜられる」とあった。解する者は、「潮水が禍いを洗う」は潮が禍患を除いて基業を開くこと、「巌は二乍の間に逢う」は陳巌が潮に逢ってまもなく亡ぶこと、「代々閩疆に封ず」は潮と審知の二代を指すとした。
  • また閩の人の謡に「潮水来たれば巌の頭が没し、潮水去れば矢口が出る」とあった。「矢口」は「知」の字である。巌が死んで潮が立ち、潮が死んで審知が継いだので、この言葉は的中したとされた。
  • この年、福州に報恩定光多宝塔を建て、亡父の司空、母の秦国太夫人、兄の司空(潮)を追薦した。
  • 海上の黄崎は波が高くて航行を阻んだが、審知が海神に祈ると一夜の暴風雨と落雷で岩が砕けて港が開いた。閩の人はこれを徳政の致すところとし、唐帝は「甘棠港」の名を賜い、その神を霊顕侯に封じた。
  • このとき管内の軍・州に散逸した書物を捜させ、書き写して献上させた。

天祐二年(905年)

  • 四月、寿山に仏典五百四十一函、計五千四十八巻を納めた。唐の学士・韓偓が一族を挙げて亡命してきた。佛齊など諸国が来朝した。
  • この年、南北の夾城を築いて南北の月城と称し、大城と合わせて三城とした。周囲は二十六里四千八百丈。大城の門は八つ、福安門・清平門・清遠門・安善門・通遠門・通津門・済川門・善化門。南月城の門は二つ、登庸門と道清門。北月城の門は二つ、道泰門と厳勝門。さらに北方毘沙門天王の像を作って鎮めとし、唐の国子四門博士・黄滔に碑文を作らせて事の次第を記させた。
  • 唐は梁王朱全忠の奏請により、審知のため福州に祠を建て、功績を石に刻ませた。
  • このとき王は自分の俸禄を「直進」として献上し、三司の運上は従来どおりとした。

天祐三年(906年)

  • 七月乙丑、高さ一丈六尺の金銅仏像一体を鋳造した。丁亥、高さ一丈三尺の菩薩像二体を鋳造した。十二月丙申、像を開元寺の寿山塔院に迎えた。
  • このとき西天国の声明三蔵が来朝した。還珠門を築いた。

天祐四年・開平元年(907年)

  • 正月乙未、開元寺の殿で二十万人規模の斎会を設け、「無遮」と号した。
  • 四月、梁王朱晃が皇帝に即位し、国号を梁、開平と改元した。五月己卯、梁は王に兼侍中を加えた。
  • 十一月、梁は福州閩県玷琦里の古廟を昭福祠に封じた。王の願い出によるものである。
  • この年、九仙山の万歳寺を梁主のために祝釐する寺としたいと請い、「寿山」の額を賜った。

開平二年(908年)

  • 正月、梁は詔して福州福唐県を永昌県と改めた。

開平三年(909年)

  • 四月庚子、梁は王に中書令・福州大都督長史を加え、閩王に進封した。
  • 八月、淮南が使者の張知遠を送って来聘したが、態度が傲慢だったので王はこれを斬り、その書状を梁に上して淮南と断交した。
  • 王は一方に割拠しながら官舎は粗末なまま修繕もせず、平素は麻の履を履き、刑罰を寛くし賦税を軽くしたので、公私ともに豊かになり領内は安定した。毎年、海路で登州・莱州を経て汴に入貢したが、遭難して溺れる者が十のうち四、五に及んだ。

開平四年(910年)

  • (月は欠)員外郎の崔某(名は欠)に南海への聘問を命じた。
  • このとき侯官県の西湖を大々的に浚渫して四十里に広げ、無数の民田を灌漑した。

乾化元年(911年)

  • 正月丙戌朔、日食。
  • 五月、梁が大赦して改元した。
  • 十月、梅溪場に閩清県を置き、福州に隷属させた。
  • この年、南平王に使者を送って祭を致した。長楽県を安昌県と改めた。剣州を延平鎮とした。

乾化二年(912年)

  • 四月、月が心宿の大星を隠した。壬申、彗星が張宿に現れた。
  • 六月、梁主の病が篤くなり、郢王の朱友珪が反乱を起こした。戊寅、梁主が弑殺された。友珪は鳳暦と改元した。

乾化三年(913年)

  • 二月、梁の友珪が誅され、均王が東都で即位して乾化三年の年号に復した。使者を送って詔を宣した。

乾化四年(914年)

  • (月は欠)領内に豆が雨のように降った。

貞明元年(915年)

  • 十一月乙丑、梁が貞明と改元した。
  • この年、王は奏請して龍驤侯を弘潤王に封じた。汀州寧化県に鉛場を置いた。

貞明二年(916年)

  • (原文は「貞元二年」に作るが、貞明二年のことである。)冬、王は呉越と婚姻を結び、呉越の牙内先鋒指揮使・銭傳珦が花嫁を迎えに来た。
  • この年、鉛銭を鋳造して銅銭と併用した。

貞明三年(917年)

  • 十一月丙子朔、冬至。
  • この年、王は子の牙内都指揮使・延鈞のために、越王(呉越王)巌の娘を娶らせた。

貞明四年(918年)

  • 六月、呉の将・劉信が虔州を攻め、譚全播が救援を乞うたので、王は兵を出して鄠都に駐屯させて救おうとした。
  • 八月、楚が敗れたと聞いて兵を引き返した。

貞明五年(919年)

  • (月は欠)王は数百人の梵僧が輝きを放って現れる夢を見た。彼らの行き着いた所には二本の檜が池のほとりに聳え、一人の僧が前に跪いて「王はここで我らに食を供してくださるか」と言った。翌朝その土地を探し当てて堂を築き、池を「浴聖」、檜を「息聖」と名づけた。

貞明六年(920年)

  • 十一月、僧の浩源とその一党を誅した。これより先、王は承制して甥の泉州刺史・延彬に平盧節度使を領させていた。延彬は泉州を治めること十七年、官吏も民も安んじていた。ところが白鹿と紫芝を得たとき、僧の浩源がこれを王者の瑞祥だとしたため、延彬は驕り高ぶり、浩源と謀って海路で梁に貢物を送り泉州節度使の地位を求めた。事が発覚して浩源らは罪を得、延彬は私邸に退けられた。

龍徳元年(921年)

  • 五月丙戌朔、梁が改元した。
  • 六月乙酉朔、日食。

龍徳二年(922年)

  • (月は欠)大鉄銭を鋳造した。「開元通宝」を銭文とし、五百文を一貫とした。

龍徳三年・同光元年(923年)

  • 四月己巳、晋王の李存勗が皇帝に即位し、国号を大唐、同光と改元した。
  • 十月、梁が滅んだ。
  • この年、王は城の西南に鋳造炉十三か所を設け、銅と鑞三万斤を用意して釈迦・弥勒などの像を鋳た。唐主は「金身報恩之寺」の額を賜った。また金銀一万余両を泥にして金字経・銀字経の四蔵各五千四十八巻を作り、旃檀を軸とし、玉その他の宝で飾り、朱漆の書架に納め、中に龍脳を入れて虫害を防いだ。永昌県を福唐県に戻したのは、唐の廟諱を避けたためである。

同光三年(925年)

  • 二月、王は使者を送って唐に入貢した。
  • 四月、漢主が兵を率いて侵入し汀州・漳州の境に駐屯したので、これを撃って敗走させた。
  • 五月丙午、唐は王に検校太師・守中書令を加えた。
  • 十月、万寿節の祝儀と、皇太后の京到着の祝賀として、金銀・象牙・犀角・真珠・香薬・金装宝帯・錦の織成菩薩幡などを唐に贈った。

王の薨去(原文は「同光二年」に作るが、同光三年=925年)

  • 五月、王は病に臥し、子の威武節度副使・延翰に軍府の事を代行させた。
  • 十二月辛未、王薨去。在位二十九年、享年六十四(862年生まれ)。諡は忠懿。福州城北の鳳池山に葬られた。
  • 翌年、昭武王と尊称された。長興三年(932年)、蓮花山へ改葬された。後唐から賜った神道碑があり、張文蔚が撰文した。
  • 龍啓初(933年)、昭武孝皇帝と追諡され、廟号を太祖、陵を宣陵とした。宋の開宝七年(974年)、呉越国王が太祖の旧邸を忠懿王廟とし、太祖の像と孟威ら二十六人の像を作って配享させた。

太祖の人となり

  • 太祖は盗賊の中から身を起こしたが、人柄は倹約で、いつも紬の袴を着け、破れると酒庫の酢袋を取って継ぎ当てにした。
  • ある日、南方に使いした者がガラスの瓶を献上した。太祖は長く手に取って眺めたのち、自ら地に投げつけて砕き、側近に「珍奇を好むのは奢侈のもとだ。今これを断って、後代にその風潮を作らせぬようにする」と言った。
  • 士人を厚く礼遇することを好んだので、唐の公卿の子弟の多くが頼って仕官した。また四門学を拡張して閩中の秀才を教育した。海外の蛮夷の商人を招き寄せたので、物資は豊かになった。
  • 当時、各地の割拠者の中に称帝を勧める者があったが、太祖は「私は門を開いた節度使でありたい。門を閉ざした天子にはならぬ」と言った。
  • 一説に、惠宗が僭称したとき天子の服を太祖の廟像に着せたところ、太祖が惠宗の夢に現れて責め、服を着けようとしなかったという。その霊威はこのようであった。

史論

  • 論に曰く。太祖の兄弟は英姿がずば抜けて「三龍」と称され、閩の地を領有し、賢者を賓客として士を礼遇したので、士大夫たちが心を寄せた。まさに開国の雄と言えよう。しかも最後には中原の王朝に臣従し、兵を息めて民を養った。その大筋は呉越とほぼ同じである。これは度量が人並みはずれて大きかったからではないか。