十国春秋卷八十九 吳越十三 閭丘方逺

閭丘方逺

  • 閭丘方遠は舒州の人である(一説には青州の人という)。舒州の天柱山下に生まれ、幼くして弁慧であった。年二十九にして香林の左元沢、廬山の陳玄悟を師とし、天台の葉蔵質に法籙を伝授されたが、みな大義に暁暢しており、真伝を甚だ得た。方遠はもとより黄老の術に精しかったが、また儒業を酷愛し、博学多聞で、常に『太平経』十二篇を詮じて世に行った。唐の竜紀の初め、しばしば召されても起たなかったが、景福年間に名山を遍く遊び、余杭の天柱に至って異とし、そこに止まった。武肅王は厚く礼遇し、常に洞霄宮の形勢を相度し、天柱観を南向きに改めた。よって奏請して紫衣を賜り、太極宮を重建してここに居らせ、洞玄先生の号を賜った(また妙有大師とも言う)。天復年間、ある日異なる香りが室を繞り、忽然として鶴を控える姿をなし、怡然として逝った。後に仙都山でこれを再び見た者があり、人々はみな尸解(死体だけを残し魂は仙界に去ること)と考えた。これより先、羅隠が方遠のもとで書を授けられていたが、方遠は必ず瞑目してこれを授け、他に何の議論もしなかった。弟子の夏隠言が方遠に「羅記室(羅隠)は令君の上客です。先生はどうして彼と語らないのですか」と言うと、方遠は「隠は才は高いが性が下劣だ。私は書を授ける以外にみだりに他の事に及びたくないのだ」と言い、その厳格さはこのようであった。同時代に鶴衣道人という者がいて、どこの郡県の人か分からず、また姓名もなかった。日ごとに処州の鳳凰山下で酔って寝ていたが、忽然と里の女に詬辱されると、衣に噀(ふ)き掛けて鶴となし、これに跨って去った。ついにその術が何であったか分からなかった。後人は祠を建てて祀ったが、それが今の報恩光孝宮である。