十国春秋卷八十九 吳越十三 僧儀晏

僧儀晏

  • 僧儀晏は湖州の許氏の子である。唐の乾符三年(876年)に生まれ、誕生の時、異香が室に満ち、紅光は昼のようであった。光啓年間、父某に随って信安を鎮するとき、強いて嫁を娶らせようとしたが、儀晏は従わず、ついに諸方を遊歴した。已にして父母を省みに舎に帰ると、舎の傍らの陳司徒廟に凛禅師の像があり、儀晏が往って瞻礼すると、たちまちその所在が分からなくなった。ある日、湖州守が祠の下で祀りを展べたとき、儀晏が廟の後ろの叢竹の間で入定しているのを見た。蟻がその衣を蠧み、敗れた葉が髀(もも)を没していた。あるいはこれを許鎮将の子だと言う者があった。これより括蒼に詣でて僧徳厳に参じ、ついに髪を剃った。常に山中で桃を摘み、旬を経ても帰らず、忽然として桃の枝を攀じて石に倚り、泊然として定に入っているのが見られた。開運年間、江郎巌に遊んで石龕を見、弟子の慧興に「私はこの中で入定する。汝は石を塁ねて門を塞ぎ、私のことを念じるな」と言い、慧興はその戒めの通りにした。翌年開けて視ると、儀晏の白髪は肩を被い、胸はなお温かく、徐ろに自ら定より起き、まったく異常な様子はなかった。已にしてまた信安の烏巨山に回った。侍郎の慎知礼が衢州を鎮したとき、僧の守栄に命じてその定相を詰問させたが、儀晏はまったく弁じようとしなかった。守栄が像に礼すると舎利数枚を得、「晏公は真に浅く測り得るものではない」と歎じた。忠懿王があるとき夢で師が来るのを見、使いを遣わして像を図らせて至ると、たまたま王は目の病を患っていたが、像を展べて礼を作すと、随って舎利が雨のように降り、目の病がたちまち癒えたので、開明禅師の号を賜った。宋の太宗が召して便殿で対面させ、従容として禅定の事を語り、深く上の旨に契ったので、久しくして請いを得て山に還った。淳化元年(990年)に卒し、寿百五十歳であった。