十国春秋卷八十九 吳越十三 僧行脩

僧行脩

  • 僧行脩は泉州の人で、もと陳氏の子である。生まれつき異香が室に満ち、長い耳は肩に垂れ、七歳になっても口をきかなかったので、あるいは唖かと言われたが、忽然と声に応じて「作家(悟った人)に出会わなければ、いたずらに煙楼を撞き破るだけだ」と言った。長じて方外に遊び、金陵の瓦棺寺に至って髪を剃り具足戒を受け、雪峰義存に参じた。武肅王の天宝年間、行脩は四明山中に至って独り松の下に棲み説法すると、天花が紛々として雨のように降り、また竜尾巌に趺坐して茅で葢を結ぶと、百鳥が花を銜えて飛び繞った。宝大元年(924年)、杭州の法相院に来て、碩(岩)に依って室とし、その中で禅定した。水に乏しかったが、飲用を給し卓錫すると、岩の際から清泉が迸り出た。乾祐の初め、忠懿王が誕辰に永明寺で僧に飯を施したとき、行脩は全身疥癩(かさぶただらけ)のまま真っすぐ上座に座ったので、王はこれを見て大いに不敬とし、退去させた。斎が終わると、僧延寿が王に「長耳和尚は定光仏の応身です」と告げたので、王は駕を趣らせて行脩に参礼したが、行脩は黙然としてただ「永明は口数が多い」と言うのみで、俄かに結跏趺坐したまま化した。久しくして肌はいよいよ艶やかに潤い、爪と髪は再び伸び、月に必ず三度も伸びるので、浄寺の僧はその久しく朽ちることを恐れ、その骸体に漆を塗った。後に宗慧大師の号を賜った(また『武林梵志』には、行脩が幼くして課誦に勤め、雪峰の存公がその耳を曵いて肩まで至らせたと言う。城内の士女はいつもその耳を牽いて頥(あご)の間に結んだが、脩はただ黙って笑うのみであった。あるいは脩を勧めて福を修めさせれば百醜を遮ることができると言った。永明の延寿は銭王に「これは定光仏である」と語り、脩はこれを聞いて「弥陀は口数が多い」と言い、ついに坐したまま化した、と云々)。