僧德韶
- 僧徳韶は処州竜泉の陳氏の子である。母の葉氏は常に白光が身に触れる夢を見て身ごもり、誕生に及んでことに奇異なことが多かった。年十五にして、ある梵僧がこれを見てその背を推して「汝はまさに世俗の中で世に出るべきであり、他所に身を置いてはならない」と言い、そこで開元寺で髪を剃り満分戒を受けた。ある日竜牙禅師居遁のもとに至って「天は葢わず地は載せず、この理はいかに」と問うと、居遁は「まさにそうあるべきだ」と言い、徳韶は惘然とした。已にしてまた僧文益に会うと、平生の凝滞が氷解するようであった。この時文益は法眼宗を立てており、徳韶に「汝は今後国王に師と仰がれ、大いに我が道を弘めるであろう。行くがよい、自愛せよ」と言った。そこで天台に遊んで智者大師(智顗)の遺蹟を観ること、故居にいるかのようであった。徳韶は智者と同姓であり、時に「後身」と呼ばれた。開運のころ忠懿王が台州を鎮していたとき、徳韶は王に「他日覇主となれば、仏恩を忘れるな」と語り、また「この地はあなたの治める所ではない。速やかに国城に帰るべきだ。さもなくば不利であろう」と言った。王は急いで帰ったが、果たして胡進思の変があった。王位を襲うに及んで徳韶を杭州に迎え、国師として尊んだ。徳韶の説法は簡要で、枝葉を絶ち去り、常に「眼中に色識なく、色中に眼識なし。眼識の二字は倶に空である。どうして色を見ることを眼だと言えようか」と言い、その立てる説はこの類が多かった。開宝四年(971年)、山頂の西峰が忽然と崩れ、その音は一山を震わせ、徳韶は「私はもう長くない」と言った。翌年六月、大星が峰頂に殞ち、林木は白く変じ、徳韶はそこで蓮華峰に疾を示して参問することは常のようであったが、まもなく衆を集めて別れを告げ、結跏趺坐したまま逝去した。