十国春秋卷八十八 吳越十二 列傳 徐綰

徐綰

  • 徐綰はもと孫儒の将であった。孫儒が死ぬと、綰は士卒を率いて武肅王のもとに帰服した。武肅王はその驍勇を愛し、その兵を中軍として武勇都と号し、綰を右都指揮使・行軍司馬に任じた。杜稜は常にこれを切に諫め、士人に代えるよう請うたが、武肅王は許さなかった。天復二年、武肅王が衣錦城を巡幸したとき、綰に衆を率いて溝洫を治めさせたが、副使の成及はしきりに士卒の怨言を聞いて、その役を罷めるよう請うたものの、再びこれも許されなかった。まもなく武肅王が諸将を饗した際、綰は座中で乱を謀ったが果たさず、病と称して先に退出した。武肅王はこれを怪しんだ。数日して綰にその部下を率いて先に杭州へ帰るよう命じたが、及び外城に至って綰は兵を放って焼き掠め、左都指揮使の許再思がこれに迎え応じて牙城に迫った。王の子の伝瑛やその将の馬綽・陳璋・潘長らは門を閉じて敵を拒んだ。武肅王は北郭門に帰り着いたが入ることができず、成及が武肅王に代わって綰と戦い、首を斬ること百余級、綰は退いて龍興寺に屯した。王はそこで微服のまま城に入り、馬綽・王栄・杜建徽らを遣わして諸門に分屯させ、また顧全武を広陵に遣わして呉の武帝に説き、子を人質とすることを申し出た。綰は果たして田頵を宣州に召したが、たまたま呉の武帝が頵に還るよう促したので、頵は武肅王の銭百万を取って文穆王を質として帰した。綰と再思はともに頵に従って宣州に至った。後に頵が呉に敗れると、綰を捕らえて檻車に載せて浙に帰した。武肅王はその心臓を剖いて高渭を祭った。