十国春秋卷八十八 吳越十二 列傳 葉簡

葉簡

  • 葉簡はどこの郡県の人か分からない。占候を善くし、ことに風角に精しかった。武肅王は幕中に招いた。徐綰・許再思の乱のとき、王は龍泉におり、事変を聞いて簡を召して占わせた。簡は「賊は我々に何もできない」と言った。王が「淮南の人は同悪に加わるだろうか」と問うと、簡は「淮南の人が来なければ、宣城が代わって害をなすでしょう。しかし宣城もまた来年には敗れます。今は憂えるに足りません。期日どおりになるでしょう」と言い、みな的中した。
  • 天寳元年(908年)五月、旋風が南から来て案(机)を三たび巡った。王は簡を召して「これは何の兆しか」と問うと、簡は「これは楊渥の死に応じるものです。速やかに弔祭の使いを遣わすべきです。彼方は自ずと違わないでしょう」と答えた。王は「生辰使をちょうど発したばかりだ、どうして重ねて弔祭に赴かせられようか」と言うと、簡は「ともかく遣わすべきです」と言った。呉の人が「どうして予め知り得たのか」と問うと、「貴国の動静は敝邦ではみな刻限を前もって定めており、毫髪も違いがありません」と答えた。王がその言のとおりにすると、生辰使が前日に到着し、呉の景帝(楊渥)が徐温に弑されたのは翌日のことで、弔祭の使いが続いて到着した。楊氏の左右の者はみな不意を突かれ、みな驚いて神業とした(また術士の楊知も、武肅王のときに奇験があったという。陳纂の『葆光録』に見える)。