十国春秋卷八十七 呉越十一 列傳 崔仁冀

納土帰宋の進言者

  • 崔仁冀、字は子遷、銭塘の人である。若くして学問に篤く文才があり、忠懿王に仕えて通儒院学士となった。王が沈虎子の政事を罷免すると、仁冀がこれに代わった。宋の太祖がかつて忠懿王に入朝するよう諭したとき、仁冀は王に告げて言った、「主上(宋の皇帝)は天性英武で、向かうところ敵なしです。一族を保ち名を全うするのが上策でしょう」と。王はこれをもっともとした。太平興国二年、王が汴京にいたとき、折しも陳洪進が土地を宋に献上した。王は疏を上げて自分に封じられた呉越国王および天下兵馬大元帥の職名を返上したいと願ったが、宋の太宗は優詔をもってこれを許さなかった。仁冀は再び王を促して言った、「朝廷の意向は明らかです。大王がすぐに土地を献上しなければ、禍が及ぶでしょう」と。左右の者は口々にそれは不可であると言ったが、仁冀は声を励まして言った、「今すでに人の掌握の中にあり、国を去ること千里、ただ羽翼があって初めて飛び去ることができるのみです」と。王はついに決断し、境内の十三州一軍八十六県を挙げて宮闕に献上した。太宗は仁冀の帰誠の功をもって淮南節度使を授け、官を累進して衛尉卿・大理寺判官に抜擢し、撫州知事に転じて没した。
  • これより先、侍郎の鮑約という者は大いに忠懿王の土地献上を促していたが、同僚の胡毅・劉䩨はともに力を尽くしてこれに反対していた。王が宋に帰るに及んで、約は逃れて海上に身を隠したので、王は人に詩を持たせて彼を追わせて言った、「東の果てまで追い、西の果てまで追う、鮑約はどうして釣りをやめて帰らぬのか」と詠ませた。今に至るまで「遐追廟」がある。

史論

  • 論に曰く:宋の藝祖(太祖)兄弟が相継いで興り、龍飛虎変(帝業の興隆)して群雄を平らげ、中原を統一した。太陽が出れば松明の火は消える。まことに帝王には自ずから真の器があることを知る。諸臣が力を尽くして帰誠を勧めたことは、臣も主もともに栄えたのであるから、機を知らなかったとは言えまい。金陵が敵に抗い、番禺が戈を称した(南漢の抵抗)ことに比べれば、順逆と労逸の違いがないとは言えないであろう。