十国春秋卷八十七 呉越十一 列傳 沈承禮

常州・潤州攻めの謀略

  • 沈承禮、湖州烏程の人である。武肅王に幕府に招かれ、処州刺史に任ぜられ、文穆王は娘を彼に娶わせて、府中の右職に任じた。外に出て台州刺史となった。忠献王の時代、承禮に親兵を掌らせ、忠懿王が位を継ぐと威武軍節度使を知るよう命じた。宋の軍が江南を征すると、忠懿王は承禮を両浙諸軍都鈐轄使とし、水陸数万人を率いて常州の平定を助けさせた。潤州を攻めた際、城中の兵が夜に外の柵を焼こうとしたので、諸将はみな駆けつけて救おうとしたが、承禮は言った、「兵法に『東南を撃つと見せて西北に備えよ』とあるが、まさにこのことだ」と。士卒にみな甲を着けたまま寝食させ、堅く壁を守って動かないよう命じた。他の陣営で備えのない部隊はみな驚き乱れたが、承禮の部隊だけは敵がうかがうことができなかった。丹陽が平定されると、そのまま宋の軍に従って金陵を攻めた。折しも冬至であり、軍中はみな集まって酒を飲んでいたが、承禮は将士に言った、「城中の者は我らの節句を見て、必ず宴を催して油断するだろう。不意を突いてこれを図るのがよい」と。そこで敢死の士千人を召し集め、火を焚いて城下に迫り、その東門を陥落させた。士卒の多くが塁壁をよじ登って攻め入り、江南はついに降伏した。宋はその功を記録し、海寧軍節度使を授けた。太平興国年間、王が土地を献上すると、承禮を密州鎮に転任させ、八年に没した。享年六十七。太宗は朝を二日廃し、太子太師を贈り、中使が葬送を護った。初め、秦王廷美が失脚した際、宋の有司がその関係を調べたが、忠懿王と王世子惟濬・孫承祐・陳洪進は常に廷美に贈遺していたのに対し、承禮だけはそれがなかった。