十国春秋卷八十四 呉越八 列傳 杜建徽

要約

杜建徽、字は延光、杜稜の末子。諸兄とは違い若くして人並み外れた志を抱き、稜が武肅王に帰服すると父の命で尽力して仕え、征伐のたびに功を立てて「虎子」と呼ばれた。乾寧の初め、董昌討伐で矢が左肩に当たっても軍を統率して退かず、父稜の後を継いで武安都将となり、稜が捕らえられて帰った際には軍が乱れず整然としているのを見て大いに称えられた。父の死に際しては形見の笏を託され、徐綰・許再思の乱では新城から援軍に入り、北門を焼こうとする賊の木材を鈎で引き寄せて焼き払い、王に江を渡って避難するよう勧める者を剣を按じて叱った。

天復三年、姻戚である睦州刺史陳詢の乱に疑いをかけられたが、詢に宛てた書がすべて大義で責める内容であったことが証されて疑いは晴れ、兄建思による讒言も無実と証されて王の信頼をいっそう深めた。城南の邸宅建設にも自ら参与し、王子傳珍の入梁にも関わった。

呉越国建国にあたり天子の制度に倣って左丞相となり、四代の王に仕えて国子祭酒・丞相兼中書令・鄖国公に至り、八十八歳で没して太師・威烈の諡を追贈された。倹約を尊び財の多くを郷里に分け与える一方、単衣で敵陣に入り橋の壊れた河を馬で渡り切るなど武勇の逸話も伝わり、老いても騎馬を止めなかったという。

現代語訳全文

稜の末子として

  • 杜建徽、字は延光、稜の末子である。強く勇ましく、諸兄と似ておらず、常に山荘にいて自ら軍州押牙と署していた。紀于棟という郷里の者が彼を見て驚き、稜にこれを聞かせると、稜は督責を加えた。建徽は答えて言った、「大丈夫たる者、どうして一軍事押牙ごときに止まりましょうか」と。従軍を始めたばかりの頃から人並み外れた志があった。稜が武肅王に帰服するに及び、父の命によって尽力して王に仕え、征伐のたびに功を立て、軍中では「虎子」と呼ばれた。乾寧の初め、董昌討伐に従軍し、矢が左肩に当たったが、なお軍を統率して退く気配を見せなかった。ほどなく稜が常州制置使に遷ると、建徽はこれに代わって武安都将となった。稜が淮南に捕らえられて帰った際、建徽の軍中が整然として変わりないのを見て、大いにこれを称えた。
  • 稜が亡くなろうとしたとき、家財を諸子に分け与えたが、建徽にだけは笏(一に剣に作る)一つを授けて言った、「これは私が任地を歴任するたびに手にしていたものだ。お前だけがこれを受け継ぐことができる」と。そこで彼に「じっくりこれを考えよ」と言った。徐綰・許再思の乱が起こったとき、建徽は武安都指揮使として新城より援軍に入り、賊が木材を集めて北門を焼こうとしたので、建徽はことごとくその木を鈎で引き寄せて焼き払った。賊はこれで気勢を挫かれた。しばらくして武肅王が衣錦城から帰還する際、建徽と馬綽・王栄らを分けて諸門に駐屯させたが、王に江を渡って越州に避難するよう勧める者があった。建徽は剣を按じてこれを叱って言った、「事がもし成らないなら、ここで共に死のうではないか。どうして東に渡って命を賊に売ることができようか」と。王はその言葉を優れたものと考え、これを止めた。

陳詢の乱と長者ぶり

  • 天復三年、睦州刺史陳詢が反乱した。詢は建徽の子女の姻戚であった。王はその二心を疑い、密かに馬綽に建徽の意向を探らせた。建徽は言った、「陳氏は恩に背き義に叛いた。自らその破滅を招いたのだ。建徽はすでにその姻戚であるから、義理として疑われることは当然である。しかし、たびたび書を送って諭してきたことは、皇天后土(天地の神々)が実に見ておられる。ただ城を抜いて手紙を得られれば、この心が明らかになるだろう」と。まもなく詢の親吏が投降してきて、建徽が詢に宛てた手紙を得たが、すべて大義をもって責める内容であり、逆意の言葉は一切なかった。これによって建徽が徳の高い人物であることがわかり、王の疑いはたちまち解けた。銭一百万緡を賜った。
  • 建徽の兄の建思は建徽と仲が良くなかった。この頃に至って変事を告げて、建徽が私かに兵器を蓄えて不測の企みをしていると言った。武肅王は急ぎ側近に命じてこれを捜索させたが、建徽はちょうど食事の支度をしていて意にも介さず、使者を邸内に自由に入らせたが、何も見つからなかった。王はこれによりますます親愛の情を深め、浙東営田副使・常州刺史・行軍司馬に遷した。城南に邸宅を建てるにあたっては、自ら計画に参与した。天宝八年、王子傳珍を京師に送って梁の壽春公主を娶らせ、まもなく涇源節度使に進んだ。
  • 十六年、王が呉越国を建てるにあたり、天子の制度に倣って建徽を左丞相とした。毎回朝会のたびに王は必ず目でこれを見送りながら言った、「今日、一方の地を忝くも領することができたのは、杜丞相の力である」と。建徽は四代の王に歴仕し、官を累進して国子祭酒・涇源昭化諸軍節度使・丞相兼中書令・鄖国公に封ぜられた。乾祐三年に没した。享年八十有八。太師を贈られ、諡を威烈という。

倹約と武勇の逸話

  • 建徽の子孫兄弟は朱紫(高位高官)が家に満ちていたが、建徽自身は倹約を尊び、供の者は数人を超えなかった。財物の多くを郷里の親族に分け与えた。忠献王の時代、孫の昭達が内牙都監使となって盛んに邸宅を造営した際、建徽はこれを見て言った、「乳臭い子はまだ事を知らぬ」と。まもなく昭達は果たして罪により誅殺された。
  • 建徽は若い頃驍悍で、敵と戦うときはいつも単衣で陣に入り、馬に鎧もつけずに駆け抜けた。王の弟である鏢に従って姑蘇を援けた際、敵と遭遇したが、河に架かる橋が壊れて渡れなくなった箇所で、馬に鞭を当てて一気に渡った。岸に着いたところで馬は斃れたが、建徽自身は平然としていた。そこでその馬を葬って「馬冡(馬塚)」と名づけ、老齢になっても騎馬を止めることがなかった。よく毬を広場で打って興が乗ると、宿っていた矢の鏃が腕から自然に飛び出したことがあり、当時の人々はこれを壮とした。