潤州制置と最期
- 阮結、字は韜文、銭塘の人である。唐末、杭州で八都が設けられたとき、結もまたその副に加わった。結は武肅王の側近として出入りし、「親校」と号された。中和二年、劉漢宏征討の功により奏して散騎常侍を授かった。光啓三年、常州を征し、さらに潤州を平定し、官を累進して戸部尚書となった。四年、潤州制置使を兼ね、刑部尚書を加えられた。初め、徐約の党三千余人が来降し、結はこれを慰撫していたが、香を甘露寺に散じて(何らかの祭祀を行ったところ)たちまち乱を起こし、結を江に投げ込んだ。ついに病を得て没した。享年四十六。
史論
- 論に曰く:武肅は驍雄の資質によって草莽の間より身を起こし、群策群力の士がたちまち一時に集まってきた。顧全武・成及のような者は、まことにその主を選び取ることができた者であるといえよう。杜稜は子孫が美をなし世々に続き、馬綽の娘は王家に嫁いで、豊沛の故人(漢の高祖の故郷の同郷者)に比すべき厚遇を受けた。阮結は悍卒の変に遭い、その功用を全うするに至らなかったが、忠誠に二心なきこともまた、諸公に劣るものではなかったであろう。