十国春秋卷八十三 呉越七 列傳 忠懿王妃孫氏

要約

忠懿王妃孫氏、名は太真、銭塘の人で泰寧節度使孫承祐の姉にあたる。端重敏慧で学を好み、幼くして『毛詩』『魯論』の大義に通じ、若くして忠懿王に嫁ぎ甚だ謹んで仕え、宴でなければ盛装せぬほど倹約を旨としつつ姻親・宗属を厚くもてなした。忠懿王の常州親征中は国城に留まって時々内侍を遣わし諸将・従征将帥の家を撫問し、国人からは王に準じて畏敬された。漢の制で夫人を拝し、周は賢徳夫人、宋の開宝五年には賢徳順睦夫人に進封、開宝九年の入朝時には王・世子惟濬とともに、宰相が異姓に妃を封じる故事はないと諫めても太祖が「行うは我が朝より始まる、特別な恩である」と応じて呉越国王妃に加封され、王は金幣を献じて謝した。この歳、帰国後にほどなく薨去して石人嶺の下に葬られ、翌年宋は給事中程羽を遣わして賵を届け諡を賜った。附記として、龍興寺に施した朽木のような奇宝が実は波斯人に万二千緡で買われた日本の名品「龍蕋簪」であった逸話、金銀十余万・犀二十株・通犀・頳犀・玉帯三十二条・水晶仏像十二事などを莫大に貢献した継妃俞氏、南屏山雷峰顕厳院に仏の螺髻髪を奉じ財力の制約から当初の百丈十三層を七級、さらに五級に縮めて建立した黄妃塔(のち俗に雷峰塔と訛って呼ばれた)の由来、忠懿王自筆の「建黄妃塔碑記」に記された「口は釈氏の書を誦えることをやめず、手は釈氏の典を披くことを止めない」との自省の言葉も詳しく語られる。塔は高さ四十丈ほどで金碧が璀璨と輝き、石に華厳経を刻んで甃いたその楷法は欧陽詢に絶類していたという。

武粛王の兄弟では、驍勇で戦を善くしたが酒を嗜んで人を殺し都監・推官を殺害して呉に出奔した鏢(子の可団・可圓は武粛王に憐れまれ諸子と同じ机で宮中に養われた)、睦州刺史・安南軍節度使・同平章事を歴任した鐸、生まれつき手に「王」の字の文があったといい絵画音律に通じ武粛王への通喪を尽くして楚国公に封じられた鏵(諡は忠簡)、田頵の乱に備えて宣州に屯し陳詢の乱で呉に虜とされたが呉将李涛との交換で帰国した従兄弟の鎰、徐約の墨刑の民を率いて蘇州を攻略し招緝使となった銶や、衢州刺史鋸・睦州刺史鎮ら従弟たちが記される。

武粛王の子は三十八人に及ぶ。寛厚で儒釈を尚み再娶しなかった寧国公元璣、徐綰・許再思の乱に際し王命と偽って錦工二百余人を城外へ放ち出させ乱を未然に防いだ後、唐哀帝の勅で公主降嫁が決まりながら叶わず、公主と語る夢を見て鬼疾を得たまま三十六歳で早世した雲国公伝瑛、至孝で睦州の妖巫楊韞や東陽の白砂神を退けた金華郡王元懿(占い師に六十六歳での没を予言され的中)、武勇都の変にあたり微服で広陵に赴く道中を望亭の逆旅で見破られながらも顧全武の機転で脱し、呉王行密の娘婿となって蘇州で三十年治績を挙げた広陵郡王元璙(子の文奉は南園東荘を営む風流の文人で己巳の年の死を予言され的中、文炳の代には古墓発掘で黒蜂に螫され暴卒する怪異譚が残る)、母に至孝で牡丹を愛し「花精」と称された餘姚侯伝□(子仁俊は文穆王・忠懿王に重用され、光武帝・曹操の故事を引いて連座の拡大を諌めた見識で知られたが程昭悦の誣告で一時幽閉され拷問にも屈せず、のち復権し安簡と諡された)、質子を拒んで王の怒りを買った大彭侯伝球、驕横の末に謀反を疑われ格殺された扶南侯元㺷・淮陰侯元珦、南漢主の再嫁の求めを拒み貞節を貫いた妻馬氏を持つ新安侯伝璛、哀帝の勅で駙馬となった霅国公伝璟、右千牛衛大将軍となった呉興侯元琳、若くして詩学・武芸を好み福州で号令厳明かつ兄弟に臣礼を尽くし六十七歳で没した寧明王元璝、秀州刺史として治績を挙げた元弼のほか、封爵を失った駙馬都尉伝&KR2123;・静海軍節度使元祐・元璉ら三十三人、さらに宝大・長興の頃の温州刺史元邧・元珪ら出自の詳らかでない者も記され、その多さが武粛王一族の繁栄を物語る。

文穆王の子は十四人。梁の沙門宝誌の銅碑記の讖に因み名づけられ、王が四十歳にして得た冡嗣として鍾愛されながら十六歳で夭折した孝献世子𢎞僔、静海軍節度使・温州刺史を歴任した長子瓊山侯𢎞僎、簡倹を喜び書をよくしながら韜晦し静海軍・彰武軍で治政に通じ、永嘉の人が彼の左遷を疑って車を止めて阻んだほど民に慕われ「随使百姓」と呼ばれる者まで現れた𢎞儇、湖州刺史として妖巫を弩で射て「妖は人によって興る」と一州を服させ吏術に明るく詩を能くした呉興郡王𢎞偡、忠懿王の丞相として鉄銭鋳造に「八害」を挙げて諫め、明州でも善政を敷き北方への淫巧な貢献を風刺した𢎞億、草書・囲碁・琵琶の妙手で越州に私財八百をもって民の賦を代納した彭城侯𢎞儀(雲門僧重曜との夢の交感の逸話も伝わる)、旱の年に部民が他州へ逐われるのを見て流涕したという仁孝な人柄で二十五歳にして早世した衢州刺史𢎞偓、騎射・書法に精しく厳正ながら寛簡な政をなした台州刺史𢎞仰、幼くして沙門となり博渉多聞で『皇猷録』『光聖録』等を著し忠懿王の異母弟にあたる儼らが記される。忠献王の子では、幼くして忠遜王に位を譲られたが後に文才で二陸に比せられ、酒一斗余りにも乱れず沙門賛寧と『竹譜』三巻を編んだものの晩年は貪猥で名節に乏しかった富水侯昱、宋に入って全州を知った西平侯郁が、忠遜王の子では登第して七州を歴知し蟹を好み「通判のいない任地」を願った秘書監昆、崇政殿での試みで日中を待たず三篇を書き上げるほど才学敏贍で知制誥に登った易がそれぞれ文才・書画で名を残した。忠懿王の子では、顕徳二年に生まれ世子と称され宋帝から苑中の宴に幾度も招かれ玉帯・珠綴衣を賜った嫡子惟濬が、財を軽んじ酒に湎れて三十七歳で早世し邠王を追贈され、忠遜王の実子ながら忠懿王に養われて八歳で軍職を授かり、常に「心が手を御し、手が筆を御することができれば法はその中にある」と語る能書家で、王が急病の折には符鑰を託されるほど家事を委ねられ、太宗に「諸銭はみな亜棲の跡に倣うが惟治だけは巧み」と評されながらも晩年は貧しさを真宗に憐れまれた彭城郡王惟治、学士院で笏に草稿を起こしすぐさま書き上げる俊才として文名高く楊億・劉筠に並び称され『典懿集』『金坡遺事』等を著した英国公惟演、生まれた子を雪の中に置かせるほど吏才はあるが刑を苛酷に用いて赴任先で牽蔓を極めた惟済らが伝えられる。忠献・忠懿二王の親従の子は凡そ六十八人に及んだが、伝記に見える者は十余人にすぎないという。惟演の子暄、暄の子景臻、景臻の子忱と封爵は世々絶えず、武粛王が戦士に与えた賜姓もこの頃までにみな本姓に復されるなど、銭氏一族が宋朝に同化しつつ代々の繁栄を保った様が総括される。

現代語訳全文

節倹と国政補佐

  • 忠懿王妃孫氏は名を太真といい、銭塘の人である。泰寧節度使承祐の姉である。端重敏慧で、姻親・宗属を延接(もてなす)に、みな恩礼を曲尽した。学を好んで書を読み、『毛詩』『魯論』の大義に通じていた。若くして忠懿王に事えて甚だ謹み、ひとえに倹約をもって訓とし、宴会でなければ盛装を為したことがなかった。忠懿王が常州を征したとき、妃は国城に居り、時々内侍を遣わして諸将及び従征する将帥の家を撫問し、国人はこれを畏敬すること王の旨を奉じるかのようであった。
  • 漢の制で夫人を拝し、周は勅して呉越国賢徳夫人に封じ、宋の開宝五年、賢徳順睦夫人に進封された。九年、王は妃及び世子惟濬とともに入覲し、加封して呉越国王妃とし、惟濬に詔を賫(たずさ)えさせてこれを賜った。宰相は異姓(王族と血縁のない者)に妃を封ずることは故事にないと言ったが、太祖は「行うは我が朝より始まる、特別な恩である」と言った。王は金幣を献じて謝し、まもなく妃は辞謝し、中宮より金器・衣着を賜ること数え切れなかった。この歳、帰国してから薨じ、石人嶺の下に葬った。翌年、宋は程羽を遣わして王妃への賵を届け、諡して(原文闕字)とした。
  • 妃は常に一物を龍興寺に施したが、形は朽木の箸のようであり、寺僧はこれをまだ珍としていなかった。たまたま出して舶上の波斯人(ペルシャ人)に示すと、「これは日本の龍蕋簪です」と言い、たちまち万二千緡(銭)でこれを易えて去った。また俞氏という者があり、その家世を失っているが、忠懿王の継妃である。宋の太宗の時、金銀十余万・犀二十株・通犀・頳犀・玉帯三十二条・水晶仏像十二事を進上し、その貢献は頗る貲(かぞ)えられないほどであったという。
  • また黄妃という者があり、常に南屏山の雷峰顕厳院に塔を建てて仏の螺髻髪を奉蔵し、初め百丈十三層をもって率としたが、まもなく財力が充たなかったので、しばらく七級を建て、また形家(風水師)の言を用いて五級で止め、黄妃塔と名づけた。後にその地に黄皮木を産したので誤って黄皮塔と訛り、俗に雷峰塔と称した。塔の高さは四十丈ほどあり、兀立して層霄(雲を貫く高さ)にそびえ、金碧は璀璨(きらびやか)、飛甍(そりかえった軒)に鈴を懸け、種々に厳飾された。塔を建てる時、石に華厳経を刻んで下に鱗のように甃(し)いた。楷法は歐陽率更(欧陽詢)に絶類していた。忠懿王には建塔記がある。

武肅王弟――鏢

  • 鏢は武粛王の同父弟である。若くして驍勇で戦を善くした。天祐の初め、淮南の将陶雅が婺州を攻めたとき、鏢に兵を率いて援けさせたが功はなかった。天宝中、呉兵が蘇州を攻めたとき、鏢は杜建徽とともに援けに赴き、囲みを解くことができた。まもなく高澧が湖州で叛くと、鏢は指揮使として王命を禀(う)けて澧を討った。翌年、武粛王が湖州を巡ると、鏢を刺史に署した。鏢は酒を嗜んで人を殺し、王の督責を懼れ、そこで四年の冬、都監の潘長・推官の鍾徳を殺して呉に奔った。呉の武義の初め、右龍武統軍とし、その職に終わった。鏢が出奔した時、子が二人あり、長子は生まれて五年、次子はまだ一年に満たなかった。武粛王はこれを憐れみ、宮中で養い、諸子と同じ研席(机)に就かせ、その長子を可団、次子を可圓と名づけた。その父が帰ることを冀(こいねが)ってのことである。

武肅王弟――鐸

  • 鐸もまた武粛王の同父弟である。累官して睦州刺史・安南軍節度使・同平章事を領した。

武肅王弟――楚國公鏵

  • 鏵は字を輔軒といい、英顕王には五人の子があり、長は武粛王、次は錡、次は鏢、次は鐸、次はすなわち鏵である。生まれた時、手に文があって「王」の字のようであったが、成長するにつれ次第に消えた。すでに生まれてまもなく英顕王が世を去り、武粛王が多方に鞠育した。武粛王が薨じるに及び、鏵は通喪(三年の喪)に服してその恩に報いようとした。性は多芸で絵画を善くし、ことに音律に精しかった。承制して累(かさ)ねて温・明二州刺史・検校太尉を授けられ、恩州防禦使に奏遷した。文穆王の時、両浙行軍司馬に除され、拝命の日、儀注(儀礼の規定)は特に手厚かった。まもなく本州団練使に奏改し、順化軍節度使、楚国公に封じられた。開運二年、卒し、年五十五、諡して忠簡といった。

武肅王從弟――鎰

  • 鎰は武粛王の従父兄である。功を積んで龍武統軍となった。田頵が楊氏に叛いたとき、武粛王は鎰に命じて宣州に屯し変に備えさせた。陳詢が睦州に叛くに及び、呉は陶雅を遣わして侵冦させたが、鎰は顧全武・王球とともに実際に戦陣にあり、ついに呉人に虜とされた。まもなく我が軍は呉将の李涛を獲え、天宝十四年、呉はそこで鎰を遣わして涛と交換した。鎰は帰ると鎮海軍節度副使に署された。

武肅王從弟――銶

  • 銶は武粛王の従弟である。龍紀の時、淮南の六合鎮遏使の徐約はすでに蘇州を得ていた。武粛王は銶に命じて兵を率いてこれを攻めさせたが、約は民を駆り集めてことごとくその形(顔)を墨で刺(ほ)って「戦いに願う、南都(呉)の従事たらん」と書かせた。まもなく勢いが窮迫すると、その部下とともに泣いて別れ、海に入って死んだ。銶はこれによって蘇州を抜いたが、まもなく州はまた陥落し、王はまた師を遣わしてこれを平定させた。久しくして銶に蘇州招緝使を授けた。頗る戦功で称された。また衢州刺史の鋸、睦州刺史の鎮もまた武粛王の従弟であり、その名はしばしば史籍に見える。

武肅王子――寧國公元璣

  • 元璣は武粛王の第二子である。母は慶安夫人胡氏。元璣は性気が寛厚で沈静寡言、多く儒釈を尚び奢侈を好まなかった。中外を歴任し、赴任した先ではみな黎庶(民衆)がこれに安んじた。累官して寧国軍節度使・同平章事・検校太尉となり、宛陵侯に封じられ、晋に寧国公に封じられた。長興四年十二月、卒した。元璣は早くに妻を喪い、ついに再娶せず、嗣子はなかった。

武肅王子――雲國公傳瑛

  • 傳瑛は武粛王の第三子(一に長子という)。母は荘穆夫人呉氏。もとの名は伝鍇であったが、まもなく鍇を改めて瑛とした。天性は英敏で、頗る儒学に篤く、書を数千巻集め、騎射を善くし、草隷(書体)を工(たく)みにした。徐綰・許再思が叛いたとき、三城都指揮使とともに門を閉じて冦を拒み功があった。この時、城中に錦工二百余人がおり、みな潤(潤州)の人であったが、伝瑛はその者たちが変を起こすことを慮り、そこで王の令と偽って「百工には本日の工作を免ずる」と伝え、懸門(城門)を発して彼らを放ち出させた。王はその事を聞いて嘉した。まもなく両浙副大使を授けられた。
  • 天祐三年九月、唐の哀帝は伝瑛を選んで壽昌公主に尚(めあわ)せようとし、武粛王に勅して言った、「金章貴第(尊貴な家柄)は、まさに下嫁の栄を膺(う)け、家を斉(ととの)え大邦を大にすることは、始めて和鳴(夫婦和合)の兆しと称せられる。先帝は卿と素より盟約を同じくし、冦讐を掃うことを誓い、崇資厚禄をもって勲に酬いることはすでに当時に極まったとはいえ、懿戚(姻戚)周親(近親)が奕世(代々)に聯(つら)なることを尋期(ねが)い、愛女を高門に配そうと欲していた。三辺(辺境)はいまだ戎機(戦い)が息(や)まず、百両(婚礼の車)の礼はついに宿諾(かねての約束)に稽(とどこお)っていたが、願わくば先旨に遵い、特に令儀(婚礼)を挙げようと思う。ましてや伝瑛は驪頷(黒馬の頷、貴い相)に奇光あり、鳳毛に異彩あり、折笄(成人の礼)の訓を俟たずしてすでに壓紐(婚姻)の祥にあたる。媯汭(帝女の嫁ぐ地)の名門はまさに大姫の匹(つれあい)に称(かな)い、張敖の顕族は元女(帝の娘)の姻を承けるにふさわしい。ここに先んじて徽章を降し、特に異数を加える。今、伝瑛に大同軍節度使・検校太傅・同中書門下平章事・駙馬都尉を授け、あわせて食邑八百戸を加える」。公主はいまだ降嫁せぬうちに卒した。
  • 伝瑛は公主と語る夢を見、これによって鬼疾(心の病)を得た。久しくして常州を攻める兵を将いたが功がなく、まもなく卒した。年三十六、太尉を贈られ、雲国公に封じられた。

武肅王子――金華郡王元懿

  • 元懿は字を秉徽といい、初めの名は伝璹、またの名は伝懿であったが、後に今の名に改めた。武粛王の第五子である。生まれつき燕頷(燕のような顎、貴相)であった。鎮海軍右直都兵馬使より起家し、安国衣錦軍防遏指揮使を授かり、検校兵部尚書に陞(のぼ)った。元懿は性が至孝であり、母の李氏(一に金氏に作る)が常に武粛王に侍って旨に称わず捶(むちう)たれて病を得ると、その病が動くたびに旬月に及んだが、元懿は自ら厠牏(用便の世話)を親(みずか)らし、薬を稱(はか)り水を量って夜も帯を解かなかったこと久しかった。
  • 常に出て睦州の民間を治めたとき、一夕にしてしばしば驚くほど火事が起こった。巫の楊韞という者があり、陽(いつわ)って刻期(火事の起こる日時)を告げ、「某日某所にまた火事が起こるだろう」と言い、まもなくみなその言のとおりになった。元懿は「火が巫の言のとおりであるのは、巫が火を為しているのだ」と言い、韞を市で斬るよう命じたところ、火事はついに絶えた。天宝中、睦州より東陽に判(うつ)った。東陽の南に白砂神という神があり、邑人の多くはこれを畏れ奉じていた。歳の三月には必ず大いに風雨を作し、白砂を過ぎて州城に及び民の廬舍を壊すこと数え切れなかった。相伝えるに、神はもと龍であり、毎年一度東海に復(かえ)るときにこの怪異が起こるという。
  • ここに至り、元懿がその境に臨むと、朱衣を着た者が来て言う夢を見た、「白砂王は相国(元懿)を震驚させるのを慮り、すでに南山より去りました」。人々はみなこれを異とした。元懿は頗る遊宴・彫飾の事を喜んだが、文穆王が位を襲うと礼敬はいよいよ篤くなった。元懿は酒を飲むと常に半ばで地に傾け捨てていたが、王はそこで宴に䤬鑼(銅鑼)を元懿の前に致してこれを諷(それとなく戒め)した。元懿は悔悟し、そこで次第に改めたという。
  • 累官して賓・睦二州刺史・清海武勝等軍節度使・太傅・同中書門下平章事、太師中書令に進み、金華郡王に封じられた。広順元年、婺州で薨じ、年六十有六、諡して宣恵といった。墓は金華県の東北六里にある。元懿が郡を治めること三十年、初めて新定(睦州)に莅(のぞ)んだ時、方氏という卜者があり、時の人は「亀精」と号していたが、常に卜数(占い)をもってこれに贈って言った、「太乙は天河に接し、金華は宝貝多し、郡侯は六十六、別処は経過せず」。ここに至ってその言は果たして験(あた)った。子の仁倣は婺州刺史・武勝軍節度使を官した。

武肅王子――廣陵郡王元璙

  • 元璙は字を徳輝といい、武粛王の第六子である(一に第四子という)。初めの名は伝璙。儀状は瑰傑(雄大立派)で風神は俊邁(すぐれて優雅)であった。沂王府咨議参軍・宣武節度判官として起家し、累遷して散騎常侍、金紫を賜り、まもなく軍旅の事に属して馬軍庁事指揮使に改められた。
  • 武勇都の変が起き、徐綰が淮南の兵を召し入れて寇したとき、顧全武は楊公(楊行密)に語って、「大丈夫たる者、いま難を告げれば、必ず私を我らの群公子(王の諸子)に閔(あわ)れんでくれよう。誰が行けるだろうか」と言った。武粛王は「私は常々伝璙を楊氏に婚(めあわ)せようと思っていた、今こそその時である」と言い、そこで伝璙を微服させて全武の僕(従者)として広陵に詣(おもむ)かせた。望亭に至ると逆旅(旅籠)の媼(老女)がすぐさま彼を見分け、潤州団練使の安仁義もまたその尋常でないことを知った(あるいはその清麗を愛したという)。その部下十人と交換しようとしたが、全武は閽吏(門番)に賄賂を贈って夜逃げし、ようやく脱することができた。
  • まもなく呉王行密に見(まみ)え、伝璙が逆順の理を指陳すると、呉王はこれに動容し、嘆じて言った、「これは龍種である。子を生むならば銭郎のようであるべきだ。我が子はまことに豚犬にすぎない」。そこでその娘を妻として与えた。その日のうちに田頵を召し軍を還らせた。まもなく逆婦(伝璙の妻)は銭塘に帰った。累(かさ)ねて縉雲・睦州を征し、みな陣を陥として功があり、邵州刺史を授けられた。再び湖州の高澧及び東洲の攻撃に従い、睦州刺史を授けられ、まもなく蘇州に遷り、累(かさ)ねて勅授されて中呉建武等軍節度使・蘇常潤等州団練使・太傅・同中書門下平章事となった。文穆王が立つと、初めて諸兄弟の名の「伝」の字をことごとく「元」に易えさせ、伝璙もまた元璙と名づけられた。
  • 元璙は蘇州にあること三十年、性は倹約で恭靖、弓馬に便(たく)みであった。文穆王の時、王兄として尤も礼遇を加えられた。初め璙が姑蘇より入って王に見(まみ)えた時、王は家人の礼をもって元璙に事え、親しく觴(さかずき)を奉じて祝寿(長寿を祝う)して言った、「この兄の位を小子が居ることになったのは、兄の賜物です」。元璙は俯伏して言った、「大王の功徳は高茂にして、先王が賢を択んで立てられたことは至公のことです。君臣の位が定まった以上、ただ恭順を知るのみです」。互いに顧みて感泣した。検校太師・中書令・開府儀同三司に進み、金谷園を作って老後を娯(たの)しみ、また烟雨楼を滮湖の上に建てた。久しくして、晋は勅して広陵郡王に封じたが、封を受けるに及ばずして柩前でこの旨が宣せられた。天福七年三月のことである。年五十六、王の礼をもって葬り、諡して宣義といった。子に文奉・文炳がある。

元璙の子――文奉

  • 文奉は字を廉卿といい、広陵王の第二子である。騎射に精しく、馬に上って槊(ほこ)を運ぶことができ、経史・音律・図緯・医薬・鞠撃(蹴鞠と打毬)に渉猟していずれも当世随一であった。廕(父の功による官)をもって中呉軍牙内都指揮使となり、節度副使に改められて幾(ほとん)ど三十年に及んだ。天福中、元璙を嗣いで節度使となり、累(かさ)ねて検校太尉兼中書令に至った。
  • 文奉は郡中に南園東荘(『九国志』はこれを東墅という)を建て、呉中の勝地とし、竒卉異木で自ら育てたものは合抱(両手で抱えるほどの太さ)に成長するのを見るまでになり、また土を積んで山を作り、これもまた巌谷(岩の谷)を成した。賓客を招き、旅人をもてなし、その適するところに任せ、自ら「知常子」と号した。数人分の酒を飲み、時々白騾に乗り鶴氅(鶴の羽の外套)を披(き)て花の小径を緩歩し、あるいは池に舟を汎(うか)べた。遠近に賓客の笑語の声を聞けば、就(つ)いて飲んで楽しみとした。集めた図籍・古器は数え切れず、雅(つね)に鑑裁(鑑識)があり、当代の名士の多くは彼に依り、また禅流(僧たち)や法齊(画法の輩)もまたこれを頼って生計を得ていた。時に丁陳范謝の四人(丁守節・陳賛明・范夣齡・謝崇礼)はみな広陵王の客であった。文奉はこれを署して節度推官とした。
  • これより先、元璙は烏鵲橋に登る夢を見て、禽獣が旁(かたわら)に充牣(あふ)れているのを見たが、傍らの人は「これは二郎(次男文奉)の禄料である」と言った。また文奉は常に禄命(寿命)を天台の僧徳韶に叩いた(占わせた)が、徳韶は言った、「明公(あなた)は己巳の年、八十一で(世を去るでしょう)」。開宝二年己巳の歳、八月十一日に卒し、その言はついに験(あた)った。諡して威といった。

元璙の子――文炳

  • 文炳は広陵王の第(原文闕字)子である。開宝の初め、文炳は妻の丘氏を報恩寺の側に葬ったが、古墓を発(あば)いて丈夫の遺骸で長さ丈ほどのものを得た。傍らには銅の鐺(かなえ)が列べられ、西には宝剣・玉環があった。文炳がまさに剣を取ろうとしたところ、黒蜂がにわかにこれを螫(さ)し、暴卒した。子の知玄はしばらく擗昏(気を失う)していたが、久しくして蘇(よみがえ)り、みずから語って言った、「丈夫(先の遺骸)は堯帝の臣、繇余(余)氏を称し、禹を佐けて治水したとして功により呉に封じられ、ここに葬られたという。それを父はなぜこの版石(石棺の蓋)を発(あば)き、私の玉櫑(酒器)を奪ったのか。今、撃たれて死んだとはいえ、まさに我が籍に隷(つ)くことになろう。悼み念うことなかれ」。好事者はこれを貳負(『山海経』の伝説の逆賊)の臣の尸(しかばね)に比べ、多くその事を伝えたという。

武肅王子――餘姚侯傳□

  • 伝□は武粛王の第八子である。母は済南夫人童氏。伝□は性が仁厚で明敏、学を好んで郡を治めよく政体を得た。累(かさ)ねて鎮東軍親廵都指揮使・土客諸軍安撫使を授けられ、光禄大夫・竇州刺史に進み、金吾衛大将軍員外置同正員に進んで検校司空に改められ、明州刺史に改められて餘姚侯に封じられた。宝大元年、卒し、年三十。伝□は東府にあった時、酷(はなは)だ牡丹を植えることを好み、叢を成し列を為して植えたその色や香りは率(おおむ)ねみな絶異で、人はこれを「花精」と号した。子は仁俊。

傳□の子――仁俊

  • 仁俊は警敏で智略があった。文穆王が継立すると、諸将の多くは自らの強さを恃み、府に詣(もう)でて劉仁杞らを誅するよう請うたが、王は仁俊に命じて教えを宣べさせたところ、音詞は宏亮(大きく朗らか)で意旨は暁暢(明快)であり、諸将はみな慴服(畏れ従う)して退去した。王は仁俊を大器と考えた。元㺷・元珦が王に罪を得ると、王はこれを按(ただ)して交通した将吏を株連(連座)させようとしてやまなかったが、仁俊は諌めて言った、「昔、光武帝は王郎を克ち、曹公は袁紹を破ると、みなその書疏を焚(や)いて反側(人心の動揺)を安んじました。今もこれに倣うべきです」。これによって中外は帖然(安定)することができた。
  • 忠献王の時、仁俊は内外馬歩都統軍使となったが、仁俊の母はもと杜昭達の姑(おば)であった。富人の程昭悦は私憾によって闞璠と昭達が仁俊を奉じて乱を作そうと謀っていると誣告し、王はそこで璠・昭達を殺し仁俊の官を奪って東府に幽閉した。昭悦はまた仁俊の旧吏の慎温にその証(証拠を作る)を収めさせ、仁俊の罪を毎回上げ、彭時五毒(拷問)を至らせたが、温は堅く屈しなかった。王は温の節を嘉し、擢(ぬきん)でて顕職とした。まもなく昭悦が誅に伏すと、仁俊の囚を釈放した。広順元年、忠懿王は仁俊に罪がないとしてその官爵を復し、威武軍節度使・検校太保を歴任し、卒し、諡して安簡といった。

武肅王子――大彭侯傳球

  • 伝球は武粛王の子である。武勇都の変にあたり、伝球は年がまだ幼く、淮南の将田頵は我が国に質子を求めた。王は伝球を遣わそうとしたが、伝球は不可とした。王は怒って彼を殺そうとしたが、事が平定されるに及んでその内牙兵印を奪った。後に大彭県侯に封じられた。

武肅王子――扶南侯元㺷・淮隂侯元珦

  • 扶南侯元㺷・淮陰侯元珦はいずれも武粛王の子である。元珦は順化節度使・同平章事として明州を判した。驕恣で法を守らず、文穆王は庶人に廃して別室に幽閉した。一方、元㺷は武粛王の愛子であり、しばしば軍功があり、しかも兵柄(兵権)を賜っていた。累官して土客馬歩都指揮使・静江節度使兼中書令となった。文穆王の時、恩を恃んで驕横し、軍馬を増益することが頗る王の意に不平とされた。王は人に元㺷に諷(それとな)く兵仗を還すことを請わせ、温州を出て判させようとしたが、元㺷はまだこれを許さなかった。
  • そこで銅官廟の吏は王の意を承けて密かに元球(元㺷)が親信に告げて神に禱(いの)って呉越の主となることを求めさせたと告げ、また蝋書(蝋で封じた密書)を水竇(水口)から出入りさせて元珦と謀議し社稷を危うくしようとしていると告げた。文穆王はそこで馬を馳せて元㺷を宮中の宴に召し、至ると左右が偽って元㺷が刃を懐に落としたと称し、すぐさま謀反の疑いありとしてこれを格殺し、あわせて元珦を殺した。

武肅王子――新安侯傳璛

  • 伝璛(一に琇に作る)は武粛王の第十四子である。鎮海節度右押牙より起家し、上直都知兵馬使・検校尚書左僕射に充てられ、まもなく出て湖州刺史となり、太尉に進んで新安侯に封じられた。天宝十四年、楚の武穆王の娘馬氏を娶ったが、まもなく伝璛は死んだ。馬氏は悲憤して生きようとしなかった。天福中、南漢主は侍郎の盧膺に楚の使者欧陽練とともに来させ馬氏を継室として迎えさせようとした。漢主はもと馬氏の女婿であり、ここに至って旧姻を続けようとしたのであり、楚の文昭王も実際にこれを内々に主導していた。馬氏は涕泗(涙)が迸(ほとばし)り、誓って再嫁せず、ついにその身を呉越で終えた。

武肅王子――霅國公傳璟

  • 伝璟は武粛王の第十五子である。初め湖州刺史を授けられた。唐の天祐四年、哀帝は駙馬に選び、武粛王に勅して言った、「卿の功は鼎鉉(宰相の位)より高く、爵は土茅(諸侯の封土)を極め、年を紀し月を繋ぐ書には巣閣負図の瑞(王朝草創の瑞祥)が等しく記される。朕は自ら寡薄(不徳)を思うが、猥(みだ)りに基扄(大業)を荷い、ただ旧勲を惟(おも)って敢えて先の志を墜(お)とすまいとし、この故にまた選尚(婚姻)を謀り、姻親を洽(あまね)くしようとした。男の伝璟は礼を学び詩を聞き、忠に資(と)って孝を履み、前代であれば何郎(何晏)の風貌もかくやと著(あら)われ、近朝であれば郭令(郭子儀)の功に崇(たか)くふさわしい。よってその愛子を推し、既に具美(美を兼ね備える)に臻(いた)った以上、須(すべから)く明恩を降して右揆(宰相)の栄に升らせ、あわせて九卿の秩を正すべきである。奉車(駙馬)は貴を増し、鳴玉して朝に趨(おもむ)き、騏驥(駿馬)の脩途(長い道のり)を騁(は)せ、鳳凰の吉兆に契(かな)う。眷戀の外、慰沃(なぐさめ)は良(まこと)に深い。今、伝璟に検校尚書右僕射・守司農卿・駙馬都尉を授ける」。伝璟は後に霅国公に封じられた。

武肅王子――呉興侯元琳

  • 元琳は武粛王の第二十三子である。歴官して右千牛衛大将軍となった。

武肅王子――寧明王元璝

  • 元璝は武粛王の第二十八子である。若くして強直で詩学・武芸を好み、成長してからは征討に従い功があった。歴官して福州彰武軍事を知るに至り、号令は厳明で麾下に敢えてこれを犯す者はなかった。元璝は兄弟に処するに疑うことなく、文穆王及び忠懿王らに事えるに皆臣礼を尽くした。これによって上下は卒(つい)に和睦することができた。建隆六年、卒し、年六十有七、追封して寧明王とした。

武肅王子――元弼

  • 元弼もまた武粛王の子である。文穆王が初めて秀州を置くと、元弼を刺史とした。元弼は政を莅(のぞ)むこと方(みち)を得、課績(勤務評定)は一時に最も優れていた。武粛王の親子三十八人のうち史伝に見える者は、文穆王及び元璣ら諸王子のほかに、永嘉侯伝璲・金華侯伝㻑・銭塘侯伝琰があり、封爵を失っている者としては駙馬都尉伝&KR2123;・静海軍節度使元祐及び元璉・元□・元琢・元璞・元璫・元珣・元□・元琛・元瑾・元裕・元璠・元朂・元禧、あわせて三十三人おり、また宝大・長興の時にはさらに温州刺史元邧・元珪があり、その所出(出自)は詳らかでない。

文穆王子――孝獻世子𢎞僔

  • 孝献世子𢎞僔は文穆王の第五子である。忠遜王と同じく魯国夫人酈氏より生まれた。初め梁の沙門宝誌の銅碑記に「真人が冀州にあり、口を開いて弓を張る。左右辺(両側)に子子孫孫万万年」とある。これより南唐は「𢎞冀」の名を子に名づけ、文穆王の諸子もみな「𢎞」の字を連ねてこれに応じた。𢎞僔の名もこれに由来する。
  • 王は年四十になっても冡嗣(世継ぎ)が未だ建たなかったので、𢎞僔が生まれるに及んで特に鍾愛し、累(かさ)ねて奏して両浙副大使・果州団練使・検校太尉を授け、建立して世子とした。これより先、王が世子府を治める時、謡言があって「何処に鹿脯(ほしにく)ありや」と言い、まもなく殂(みまか)ろうとする時、また人が居所の屏障(衝立)に「四月二十九日、大いに群仙に会う」と題し、あちこちに署字(署名)することが数か所あった。天福五年、果たして病により薨じ、年十六歳、追諡して孝献とし、銭塘天竺の前山(楓林塢)に葬った。世子府は改めて瑶台院とした。

文穆王子――瓊山侯𢎞僎

  • 𢎞僎は文穆王の長子である。静海軍節度使・温州刺史を歴任し、瓊山侯に封じられた。文穆王の子十四人のうち、𢎞僎の次は𢎞儇、次は𢎞侑、次は𢎞侒、次は孝献世子、次は忠献王、次は忠遜王、次は𢎞偡、次は忠懿王、次は𢎞億、次は𢎞儀、次は𢎞偓、次は𢎞仰、次は儼(すなわち𢎞信)である。そして𢎞侑はまた養子であった。

文穆王子――𢎞儇

  • 𢎞儇は字を智仁といい、文穆王の第二子である。もとの名は𢎞偁。性は簡倹を喜び、騎射を善くし、書をよくして文があったが、自ら韜晦(才能を隠す)していた。上直副兵馬使・検校尚書右僕射として仕え始め、年二十余で東府安撫使に遷り、政術に通暁して吏はこれを欺かなかった。文穆王はこれを嘉して金の酒器一副を賜り、そこで睦州を兼領させた。時に福州は初めて帰附したばかりで、将校に仇讎のある者は率(おおむ)ね互いに誣(そし)り合っていたが、𢎞儇は左右に語って言った、「人にはそれぞれ憾みがある。誣構(でっちあげ)を一たび啓(ひら)けば、疑懼が交々至る。どうしてこれが国家の遠きを推心(真心を尽くして)懐(なつ)ける道であろうか」。すべて問わずに置いた。まもなく静海軍節度使・判軍州事となった。
  • 均しく徭役を課し、淫祀(不当な祭祀)を罷め、畜(やしな)っていた声伎をことごとく解放し、食事は鮑魚・菘菜を過ぎることがなかった。顕徳中、常に西府(宋の都)に入覲したが、永嘉の人は彼が代わられる(左遷される)と思い、車を止めてこれを阻んだ。𢎞儇はあらかじめ籃輿(かご)に侍妾を載せて先に出させ、人々は𢎞儇がなお中にいると疑い、急いで擁して𢎞儇を戻らせた。その民に感悦されることこの通りであった。久しくして彰武軍節度使・知福州事に改められると、温(州)の人はみな行々巷々に啼哭して「公が早く帰ることを願う」と言い、家を挙げてこれに従う者もあり、これを「随使百姓」といった(「随使戸」ともいう)。承制して累(かさ)ねて太尉を授けられ、丞相を拝した。乾徳四年、閩で卒し、神柩が温州を経て会稽に帰ると、三州の民で号踊(哭泣)する者は甚だ多かった。年五十有四で終わり、諡して節恵とした。𢎞儇には弟𢎞侑があり、文穆王の第三子で、西安侯に封じられ、衣錦軍に居った者の多くはその後裔である。

文穆王子――呉興郡王𢎞偡

  • 𢎞偡は字を恵達といい、文穆王の第八子である。母は陳氏。内牙諸軍都知兵馬使より起家し検校司空となり、年十八で湖州刺史となった。妖巫があって衙門の大樹に登り、恣(ほしいまま)に鬼神の言を為し、州人は驚き畏れたが、𢎞偡は「妖は人によって興る」と言い、弩に矢を注(つが)えて巫を射るよう命じたところ、巫は果たして命乞いをした。これを笞打って百たび境外に投げ出させると、一州は大いに服した。𢎞偡は吏術に明るく詩を能くし、頗る奇句があった。忠懿王が嗣位すると恭敬はますます篤くなった。顕徳の間、王城が火災にあった時、器用・服玩をことごとく献上した。累(かさ)ねて奏して特進・検校太尉・宣徳軍節度使を授けられ、呉興郡王に封じられた。建隆の初め、宋は勅して同中書門下平章事を授けたが、まもなく飲酒が過度であったため薨じ、年三十八、諡して恭義といった。忠懿王はこれを哭して慟哭し、𢎞偡の諸子を撫(な)でて恩礼を加えた。これより先、大星が西北に隕(お)ち、月余りにして𢎞偡は逝いた。

文穆王子――𢎞億

  • 𢎞億は字を延世といい、文穆王の第十子である。母は沈氏。初め懐妊した時、文穆王は僧が寝帳に入る夢を見た。まもなく𢎞億が生まれたので、そのため小字を「和尚」といった。天資は俊抜で文を能くし、年二十で内牙諸軍左右都虞候・検校左僕射を官した。開運の間、師を興して福州を救った時、忠献王は鉄銭を鋳て将士の禄を益そうとしたが、𢎞億は諌めて言った、「銭を鋳るには八つの害があります。新銭がいったん行われれば旧銭はみな隣国に流出するのが一つ。我が国では使えても他国では使えなければ、商賈が行われず百貨が通じなくなるのが二つ。銅の禁令は至って厳しいのに、民はなお盗鋳するのですから、まして家に鐺釜あり、野に鏵犂ある今、法を犯す者は必ず多くなるでしょう、これが三つ。閩は鉄銭を鋳て乱亡いたしましたが、これは法とするに足りません、これが四つ。国用が幸いに豊かなのに自ら空乏を示すことになる、これが五つ。禄賜には常があるのに、故なくこれを増せば無厭の心(際限なき欲)を啓くことになる、これが六つ。法が変じて弊が遽(にわ)かに復せなくなる、これが七つ。銭とは国の姓(銭氏)であり、これを易えることは不祥です、これが八つ」。王はその言を善しとして止めた。
  • まもなく忠懿王の丞相となった。折しも内牙指揮使の鈄滔が乱を謀り、辞(供述)が𢎞億に連なると、左右は事を窮明するよう王に勧めたが、王は𢎞億の故によってこれを顕治しようとせず、滔を処州に貶し、𢎞億を明州刺史として出した。𢎞億は明州にあること、頗る善政を著し、およそ一切の科率(税の割り当て)の旧制はことごとくこれを除いた。顕徳中、王は民丁を括(あつ)めて軍旅を益すよう命じたが、州県の長吏はこれによって多く残酷なことを行った。𢎞億は自ら疏をしたためてその弊を述べ、辞理は切直であったので、王は感悟してこれを罷めた。王は常に丞相以下と民の労逸を論じ、みな人君の奢倹によるとして詩二章を裁して志を寓した。𢎞億もまた北方の侯伯に淫巧なものを多く貢いで君心を蠱惑(惑わ)す者があると言い、そこで詩を献じて風刺すると、王はこれを嘉歎すること久しく、なお詩を賜って褒美した。𢎞億の娘はもと王舅呉氏の子に嫁いだ者であったが、まもなく諸呉が驕縦(おごり)を日に日に甚だしくすると、𢎞億はついに絶えて通じなくなった。人々はみなその剛正を称えた。
  • 建隆の初め、奉国軍節度使・検校太保に昇り、宋の宣祖の諱に触れるので名を億と改めた。晩年、金甲の神が現れて死期を告げる夢を見て、そこで壁に「奉国節度使、ただ年三十九」と署した。大いに賓客を会して酒を飲み、これと訣(わか)れを告げ、病に臥すこと三日にして終わった。諡して康献という。

文穆王子――彭城侯𢎞儀

  • 𢎞儀は文穆王の第十一子である。建隆の初め、宋の諱を避けて名を儀と改めた。鎮東軍安撫使より起家し、乾徳の時、奏して越州観察使を授けられた。歳が旱(ひでり)で租が登(みの)らないと、儀は私財八百をもって越の民に代わって賦を納めたので、民はこれに徳を感じないことがなかった。再任すること幾(ほとん)ど三十年に及んだ。深く内典(仏典)を信じ、越にあって多く仏事を営み、雲門の僧重曜と交わり相得(意気投合)した。宋の太宗が即位すると金紫光禄大夫・検校太保を加えられ、開国彭城侯に封じられた。忠懿王が入朝すると儀は東府より至り、太宗は詔して慎瑞師三州観察使に改め、まもなくまた金州観察使に改められた。太平興国四年、京師の賜第で卒した。年四十八、安化軍節度使を贈られ、京城東の臨汴郷辺公原に葬った。
  • 儀は草書を工(たく)みにし、奕棋(囲碁)をよくし、みな上品に及び、音律に暁(あか)るく新声を造ることができ、ことに琵琶に工(たく)みで当世に妙絶した。忠懿王が常に兄弟を宴集した折、儀に弾かせようとしたが、面と向かって命じるのは憚られたので、別に一榻を設け七宝の琵琶をその上に置いて黄錦で覆わせた。酒がたけなわとなると、儀は果たして王に白(もう)して言った、「これは忽雷(琵琶の別名)ではありませんか。願わくば一曲を奏じて王のために寿を祝いましょう」。時に王の叔父元璫もまた音楽に通じていたので、王はこれに拍(拍子)を命じ、曲が終わると王は大いに悦び、儀に北綾五千段、元璫に銭千緡を賜った。当時、これを美談とした。
  • 儀の終わる歳、重曜は儀が天人の服を被り雲に乗って至り「弟子はすでに天に生まれました」と言う夢を見た。重曜は目覚めて書を貽(おく)り、その夢を具(つぶさ)に述べ、なお「公の操履(品行)を観るに、まさにこの兆しに叶う。しかし世禄はいくばくもない。願わくばますます進修されよ」と言ったが、書がまだ届かないうちに儀はすでに逝去していた。後十年、墓が盗掘され、貌が生きているようであったので、故吏の呉玄素が柩を舁(かつ)いで越に還し、秦望山の重曜の塔の側に葬った。妻の何氏は累(かさ)ねて廬江夫人に封じられた。

文穆王子――𢎞偓

  • 𢎞偓は字を賛尭といい、文穆王の第十二子である。性は仁孝で母の陳氏に事えるに恭勤(つつしみつとめる)で聞こえた。衢州刺史に任じるに及んで政を為すこと寛恕厚重、民の多くはこれを愛した。折しも歳が旱で、部民が食を求めて他州に逐(お)われようとしたが、忍びなくすぐには去らず、共に聴事(役所)に詣(もう)でて告白してから行った。𢎞偓はこのために流涕した。忠懿王が立つと友愛はきわめて至った。顕徳五年、卒し、中外はみな嘆惜しないことがなかった。終年二十五。子の昭度は字を九齢といい、仕えて供奉官に至り、俊敏で詩を作り警句が多く、文集十巻が世に行われた。

文穆王子――𢎞仰

  • 𢎞仰は文穆王の第十三子である。母は周氏。𢎞仰は騎射を善くし儒術に通じ、ことに書法に精しかった。累官して台州刺史に至り、性は厳急であるとはいえ政事は寛簡で、吏民は畏服した。顕徳五年二月、卒し、年二十有四、諡して成顕といった。子の昭序は字を著明といい、学を好んで書を集めることを喜び、書の多くを自ら書写した。宋に入って通利軍を知り、勤幹をもって聞こえた。

文穆王子――儼

  • 儼は字を誠允といい、文穆王の第十四子、忠懿王の異母弟である。もとの名は𢎞信、後にまた𢎞の字を去って信とし、宋の淳化の初め、今の名に改めた。儼が生まれた夕、母の崔夫人は瞑(まどろん)でいるとき、一人の僧が帳の前に坐るのを見た。目覚めるとまだその姿が彷彿(おぼろげに見える)としていたが、まもなく儼が生まれた。父の文穆王は喜び、金銀の大銭を鋳させて洗兒(誕生祝いの儀式)の道具とした。周晬(満一歳)を迎える頃には、府中の籤鑰(鍵の札)の文字を一見しただけで記憶することができた。文穆王が大漸(危篤)となった時、儼は別院にいたが、にわかに驚いて泣き出し、養母に言った、「先ほど白髪の翁が私を呼び、速やかに王のもとへ参れと言う夢を見ました」。まだ言い終わらないうちに訃報が届いた。
  • 儼は幼くして沙門(僧)となったが、成長してからは謹慎で学を好み、祈寒溽暑(厳寒酷暑)であっても未だかつて図籍を暫くも輟(や)めることはなかった。忠懿王が国を襲うと鎮東軍安撫副使を領させた。顕徳四年、奏して衢州刺史に署し、まもなく婺州武勝軍事を知り、晋の光禄大夫、開国伯に封じられた。宋の太祖が揚州を平定すると、儼を遣わして入賀させ、太祖は閤門副使の武懐節に詔を賫(たずさ)えさせて迎え労わせ、帰るに及んで玉帯・名馬・錦綵・器皿を賜った。
  • 開宝三年、兄の偡に代わって湖州を知り、宣徳軍安撫使を充てられた。忠懿王が常州を攻めた時、儼に命じて漕運を督させた。太平興国二年、忠懿王に随って宋に朝し郊宮に侍祠すると、詔して儼を節鎮の下に班列させた。太宗が常に天駟監に幸した時、従臣に馬を賜い、主者に勅して言った、「銭儼は儒者であるから馴(な)れた馬を択んで与えよ」。累(かさ)ねて新媯・儒州観察使を授けられ、なお湖州を知り、また随州観察使となった。しばらくして兄の儀に代わって金州観察使となり、和州を出て判した。真宗が即位すると検校太傅を加えられ、累階して特進に至った。在職十七年、咸平六年、卒し、年六十七、昭化軍節度使を贈られ、諡して静宣といった。和州に葬った。子の昭慈もまた文名があった。
  • 儼は博渉多聞で、若くして人が大硯を遺(おく)る夢を見て以来、文辞は敏達富贍(豊か)で、当代では国内の文章はもっぱら羅隠・崔仁冀を推していたが、儼はよくこれに頡頏(互角に張り合う)した。太宗朝には常に『皇猷録』を献じ、咸平の時にはまた『光聖録』を献じた。著すところは前集五十巻・後集三十巻、『呉越備史遺事』『忠懿王勲業志』『銭氏戊申英政録』若干巻があり、また『貴溪叟自序伝』一巻を作った。
  • 酒をよく飲み百巵(さかずき)を空けても酔わなかった。外郡に居った時、常に敵う者がないのを患っていたが、ある人が一軍校がやや比肩できると言うので、儼がその状(ようす)を問うと、「飲むほどに手はますます恭しくなります」と答えた。儼は言った、「これは一変の常態であって、善く飲む者ではない」。儼が湖州を鎮した時、後圃の芙蓉の枝の上に黄玉の玦一枚が穿たれており、枝の梢が交わり雑(まじ)ってどこから貫いたのか分からなかった。儼は幹を截(き)って玦を取り、これを献じた。人は真の仙人が来遊し、これを留めて世を驚かせたのだと言った。これもまた異事であるという。

忠獻王子――富水侯昱

  • 昱は字を就之といい、忠献王の長子である。忠献王が薨じたとき、昱はまだ襁褓の中にあり、国人は忠遜王を立てた。そこで昱を咸寧・大安二宮使とした。忠懿王が嗣位すると承制して秀州刺史を授けられた。宋の太祖が即位すると、昱は入貢し、江南の使者と同じく宴に侍り、後苑で射をした。江南の使者が先に的に中てると、昱に解くよう命じたところ、弦に応じて中て、玉帯を賜った。
  • 宋が蜀を平定すると、昱はまた入って賀を称し、帰って台州刺史・徳化軍節度使を領し、本路安撫使となり、まもなく静海軍節度使・温州刺史を領し、彰武軍節度使に転じた。宋師が江南を討つと、昱は東面水陸行営応援使となり、忠懿王に従って宋に朝し、白州刺史を授けられた。昱は『太平興国録』一巻を上げて台省の官に換えることを求め、太宗はその才を賞して学士院に詔して麻制(詔勅体)三篇・高麗への答書一道を試させた。尚書都省の判を除せられ、時に新たに省署を葺(ふ)いたので、昱はこれを記に撰し奏御し、また常に鍾王(鍾繇・王羲之)の墨蹟八巻を献じ、褒美の詔があった。また昱が書を善くすると聞き、筆札(筆と紙)を進めさせ、御書の金花扇二本・急就章一・御翰三十軸を賜った。
  • 出でて宋州を知り、工部侍郎に改められ、寿・泗・宿三州を歴典したが概ね善政はなかった。至道中、郊祀の際に秩を進めるべきところ、太宗は「昱は貴家の子であるから丞郎(宰相・侍郎)に任じるべきではない」と言い、郢州団練使に進めた。咸平二年、表して入朝しようとしたが病により陛見(拝謁)に及ばず卒した。年五十七、太師を贈られ富水侯に封じられ、開封府汴陽郷に葬った。
  • 昱は従父の儼とともに文章をもって中朝に名を知られ、二陸(陸機・陸雲)に比せられ、また琴・画を善くし、聡明で碁を覆(そらんじる)ることができ、酒を飲むこと一斗余りに至っても乱れず、ことに学を好んで書を集めることを喜び、多く詩を吟じ、常に中朝の卿大夫と唱酬(詩の贈答)した。ある日、沙門賛寧に対して竹(竹に関する事跡)を隷(あつ)め迭(かわるがわる)録し、昱が得た百余条を集めて『竹譜』三巻とした。生平の交遊にあって昱は終日談宴しても未だかつて家諱(親の名の忌避)を犯すことがなかった。『貮卿文稿』二十巻がある。晩年は貪猥(貪欲でみだら)で放縦にすぎ、称するに足る名節はなかった。子は百人あり、雍が国子監に登り雍熈進士第に及第し、絳は内殿承制に至り、累(かさ)ねて郡を典(つかさど)り頗る幹力をもって称された。

忠獻王子――西平侯郁

  • 郁は忠献王の第二子である。累官して鎮東軍節度副使・秀州刺史となり、宋に入って全州を知るに改められ、太保に至って卒し、西平侯に追封された。忠献王の一族の中にはまた仁熈という者があり、頗る書を読み丹青(絵画)をよくし、ことに水牛の絵を工(たく)みにし、多く紈扇(絹の扇)に描いた。銭氏の子弟はみな文采に長じ、興に乗じて豪奢な遊びを好み、常に霅上(霅渓のほとり)の瓜を取ってそれぞれ種の数を言い当て、剖(わ)って視て負けた者が宴を張った。これを「瓜戦」と称し、今に伝わって雅謔(風雅な戯れ)とされる。

忠遜王子――昆

  • 昆は字を裕之といい、忠遜王の子である。宋に帰して進士第に登り、累遷して三司度支判官に至り、七州を歴知し、政治は寛簡を尚び、秘書監をもって致仕し、卒した。年七十六。昆は詩賦をよく作り、また草隷を工(たく)みにし、文集十巻がある。性は蟹を嗜み、常に外職への補任を求めて言った、「ただ蟹があって通判(監督官)のいない任地であれば、それで私の平生の願いは十分に慰められる」。

忠遜王子――易

  • 易は字を希白といい、忠遜王の子である。忠懿王が宋に入るとき、一族はみな官を補せられたが、易は兄の昆とともに登録されなかったので、そこで志を刻んで読書した。年十七で進士に挙げられ、崇政殿で試み三篇を書くのに日がまだ中(正午)にならぬうちに書き終えたが、言う者はその軽俊(軽薄さ)を嫌ってこれを罷めた。再び進士に挙げられ府試で第二となったが、自ら第一に当たるべきと思い、そこで書を上げて「朽索の六馬を馭するがごとし」という試題の賦の意は譏諷(風刺)に渉ると言った。真宗はこれをもって第二に降し、濛州団練推官に補し、光禄寺丞に改めた。時に惟演が台席(宰相の位)に参ずると、実際に易が制(詔勅)の草を為し、朝廷はこれを美談とした。まもなく知制誥に擢(ぬきん)でられ、登聞鼓院を判し、卒した。年五十九。易は才学が敏贍(すぐれる)で数千百言を援筆(筆をとる)してすぐに書き上げ、また尋尺(大小)の大書・行草を善くし、仏書を観ることを喜び、道蔵を検(しら)べた。『金閨瀛州西垣制集』一百五十巻、『青雲総録』『青雲新録』『南部新書』『洞微志』一百三十巻がある。

忠懿王子――世子惟濬

  • 世子惟濬は字を禹川といい、忠懿の嫡子である。顕徳二年、惟濬が生まれると、すなわち世子と称された。表して鎮海鎮東両軍節度副大使・検校太保・鈐轄両浙管内土客諸軍事を授けられた。建隆七年、検校太傅を加えられ、二年、建武軍節度使を領し、乾徳の初め、検校太尉を加えられ、この年の冬、宋に朝し、六年にはまた宋に朝して郊祀に侍った。開宝二年、鎮東等軍節度・浙江東西道観察処置・両浙制置営田発運等使に充てられ、まもなく京師に朝した。
  • 宋の太祖は苑中で宴を賜い、黄門に簫韶の楽を奏させ、諸王と同席させ、玉帯・珠綴衣・水晶勒(帯飾り)・御馬四頭を賜った。四年、また宋に朝し、寵待はいよいよ加わった。宋兵が江南を征すると、惟濬は忠懿王に従って常州を陥落させ、功をもって同平章事を加えられた。太宗が即位すると兼侍中を加えられ、太平興国二年、母妃の憂(喪)に丁(あ)たって起復し、鎮東大将軍・右金吾衛大将軍員外置同正を加えられた。
  • 忠懿王がまさに入朝しようとしたとき、惟濬は先に方物を貢いだ。太宗は戸部郎中の侯渉を召して泗州に迎え労わせた。三年、忠懿王が土地を献じ改封されると、惟濬もまた淮南節度使に徙され、郊祀の恩によって検校太師を加えられた。太原の平定・幽薊の征伐に従い、まもなくまた大名への行幸に随った。雍熈中、安州を歴鎮し、端拱の初め、宋の太宗が藉田(親耕の礼)を行うと蕭国公に封じられた。忠懿王が薨じると起復して兼中書令を加えられた。惟濬は諸王子とともに綾羅・犀玉帯・笏・犀角・象牙・丁香・馬脳鞍勒・金玉珠翠の首飾・器皿をあわせて数十万を進上し、また女楽十人を進めたが、太宗は納れず、それぞれに錦綵三十段を賜って還した。
  • 淳化の初め、杭州が武粛王が唐・梁以来累朝より賜った玉帯・竹冊各三副、鉄劵一、詔誥百余函を上げると、太宗は詔して惟濬にこれを還した。まもなく暴卒し、年三十七、邠王に追封され、諡して安僖とし、汴京の南に葬った。惟濬は財を軽んじ与えることを好み、頗る酒に湎(おぼ)れたため、遐年(長寿)を享(う)けることができなかったという。子は守吉・守讓。守吉は宋の西京作坊使に官し、守讓は字を希仲といい、累任して宋の東染院使に至り、頗る学に勤めて文集二十巻がある。子の恕の妻は曹王元偁の娘、長安県主であった。

忠懿王子――彭城郡王惟治

  • 惟治は字を世和といい、もとは忠遜王の長子である。忠遜王が初めて東府に遷った折に惟治が生まれた。忠懿王は酷(はなは)だこれを愛し、養って己の子とした。幼くして読書を好み、八歳で両浙牙内諸軍指揮使に授けられ、軍糧営田事を判し、また徳化軍使に改められ、検校太保・台州団練使に遷った。乾徳四年、宋は制して寧遠軍節度使・検校太尉を授け、なお牙職を兼ね、世子惟濬と節旄(節度使の印綬)が同日に至り、国人はこれを栄とした。宋師が江南を伐つと、惟治は忠懿王に従って兵を率いて常州を下し、策勲して奉国軍節度使に改められた。忠懿王が宋に朝すると惟治に軍国事の権発遣(代行)を命じ、王が還ると惟治に入貢させた。
  • 惟治は私財を献じ、塗金銀香獅子・香鹿・鳳鶴・孔雀・宝装髹合(漆塗りの箱)・和金磁器万事、呉繚綾千疋を進めた。辞去の日、宋の太祖は襲衣・玉帯・塗金鞍勒馬・金銀器・繪綵を賜ること万を超えた。太宗が即位すると検校太尉に進み、忠懿王が再び入覲すると再び国事の権を握った。折しも厩で火事が起きると、惟治は兵を率いて高きに臨んで下を視て、親信十数輩に剣を仗(と)って令を申し、後顧する者は斬るとした。まもなく火は熄(き)えた。妻の一族で帳下に隷(つ)く者があり、時にみだりに法を犯したので、府門で背を杖するよう命じた。
  • 王がすでに土地を宋に納めると、宋は考功郎中の范旻に杭州を知らせ、惟治は兵民の図籍・帑廩(財貨と倉庫)の管籥(かぎ)を奉じて旻に授け、弟の惟渲・惟灝とともに宋に帰り、鎮国軍節度使に改領した。惟治は草隷(書体)に絶妙で、ことに二王(王羲之・王献之)の書を好み、常に「心が手を御し、手が筆を御することができれば、法はその中にある」と言った。常に鍾繇・王羲之・唐玄宗の墨跡凡そ七軸を裝潢(表装)して献じた。太宗は常に翰林の賀丕顕とともに惟治の書を評して「諸銭(銭氏の一族)はみな浙僧亜棲の跡に倣っており、それゆえ筆に骨がないが、ひとり惟治だけは巧みである」と言った。
  • 雍熈三年、太宗が大挙して幽州を征すると、惟治に真定府を知り兵馬都部署を兼ねるよう命じた。前日、内殿で曲宴(内輪の宴)があり惟治は詩を献じた。太宗はこれを視て悦び、酒が半ばに至ると小黄門を遣わして北面の寄(北辺守備の重任)を密かに諭した。至ると訓兵享士(兵を訓練し士をもてなす)に頗る勤め、政務に励んだ。初め惟濬は忠懿王の嫡嗣であったが、放蕩で検(つつし)みがなかったので王はひそかに惟治を重んじていた。一夕、忠懿王が急病になった時、王妃はことごとく符鑰(符節と鍵)を収めてこれを惟治に付した。王が薨じると起復して検校太師とし、累(かさ)ねて表を上げて節鎮を罷めることを請うたが許されなかった。後に心病(心の病)を患い家事が粛(つつし)まれず、僮奴(下男)が姦私(不正な私事)のために庭で人を殺す事件があったが、真宗は按鞫(取り調べ)を止めさせ、ただ右監門衛上将軍に貶した。晩年、貲用(財)がすっかり尽きてしまい、真宗はその貧しさを憐れみ、特に右武衛上将軍に転じさせ月々に十万を給し、累(かさ)ねて左驍衛上将軍・左神武統軍に加えた。卒し、年六十六、太師を贈られ彭城郡王に追封され、洛県の邙山、先王の墓域に葬った。
  • 惟治は学を好み、家に法帖・図書万余巻を集め、多くは異本であった。生平、皮日休・陸亀蒙を慕って詩を作り、集十巻があり、また「宝子垂綬連環詩」(廻文詩であり、宝子はすなわち香炉である)がある。世に多くこれを称え、書跡は常に人に珍蔵された。祁国夫人元氏を娶り、再び瑯琊郡夫人水丘氏を娶った。子の丕は幼くして篤学、宋に仕えて光禄少卿に終わった。惟治が初めて明州を鎮した時、神人が甲(よろい)を被って「私は西嶽の神である、面(かお)に欠けたところがある」と言う夢を見て、すぐさま土を捧げてこれを填めた。後に華州の節鉞を領すること二十年に及んだ。

忠懿王子――英國公惟演

  • 惟演は字を希聖といい、忠懿王の次子である。宋に帰して右神武将軍を歴任し、博学で文を能くし、学士院に召し試みられると、笏(しゃく)に草稿を起こしてすぐに立ちどころに書き上げ、真宗はこれを称賛した。翰林学士・工部侍郎を歴任し、枢密副使、会霊観使兼太子賓客となり、さらに祥源観を領し、秩を工部尚書に晋め、仁宗が立つと兵部尚書に進んだ。まもなく太后の姻戚であることをもって罷められ、保大軍節度使・知河陽となり、年を踰えて入朝を請い、中書門下平章事を加えられ許州を判した。朝廷が再び用いてくれることを冀(こいねが)って京師に留滞したが、台臣(御史)の奏刻(弾劾)に遭い、そこで急ぎ去った。天聖の初め、武勝軍節度使に改められ、翌年来朝し、先壟(先祖の墓)が洛陽にあるとして宮鑰(宮殿の鍵、留守職)を守ることを願い、すぐさま河南府を判した。再び泰寧軍節度使に改められた。
  • 惟演は柄用(重用)されることを雅(つね)に意(のぞ)んでいたが抑鬱として志を得ず、仁宗が籍田を耕すに及んで侍祠を求め、そこで留まって景霊宮使となった。太后が崩じると平章事を落として崇信軍節度使となり、まもなく特に侍中を贈られ、英国公に追封された。太常の張瓌は謚を「文墨」と請ったが、まもなく改めて「文僖」とした。その本末は多く『宋史』に詳らかであり、ここには具(つぶさ)に録さない。
  • 惟演は文辞が清麗で、名は楊億・劉筠と相上下し、書物には読まないものがなく、家に儲えた文籍は秘府(宮中の図書館)に侔(ひと)しく、ことに後進を奨励することを喜んだ。著すところの『典懿集』三十巻、また『金坡遺事』『飛白書叙録』『逢辰録』『奉藩書事』若干巻がある。常に言った、「私の平生足りないものは、ただ黄紙(詔勅の紙)の上に押字(署名)を得られなかったことだけだ」。思うに、いまだ巾書(宰相の職)を歴任したことがなかったのである。子の曖・晦・暝、従弟の易、易の子の彦逺・明逸は父子兄弟が相継いで制策に登科し、銭氏の一時の盛んなることとなった。

忠懿王子――惟濟

  • 惟済は字を巌夫といい、忠懿王の第六子である。生まれて七歳、王が漢南に徙封されると、本府元従指揮使に補せられることを奏し、諸衛将軍を歴任して恩州刺史を領し、東染院使に改められて真拝(実職)で封州刺史となり、その後、郡を試みることを請うた。宋の真宗は絳州を知るよう命じたが、民に桑の条を植える者があり、盗が桑を奪おうとしてうまくいかなかったので、自ら自分の腕を傷つけて桑の主人が人を殺そうとしたと誣告し、久しく繋がれても弁ずることができなかった。惟済は盗に食を取らせてこれを視ると、盗は左手で匙箸を挙げた。惟済は言った、「右手で人を傷つければ上が重く下が軽くなるはずだが、今、お前の創は特に下が重い。まさに左手を用いたのであって、右腕を傷つけたのはお前が自らやったことではないか」。盗はそこで服罪し、誣妄の罪に問われた。
  • まもなく永州団練使に遷り、成徳軍を知るに改められた。仁宗の時、検校司空を加えられた。民に偽って白金(銀)を作り緡銭を取ろうとする者があり、その家が来て訴えると、惟済は言った、「ただ盗まれたと声言し、重い懸賞をもって示せば、質を偽った者は必ず来るだろう、そうすればすぐに捕らえられる」。まもなく果たしてその通りになり、これを杖罰して死なせた。吉州防禦使に改められ、虔州観察使に除され、まもなく定州を知り、武昌軍節度観察留後に昇った。惟済は賓客をもてなすことを喜び、宴を豊かにし家に余財がなく、公使銭(公用の交際費)の負債は七百余万に至った。卒し、平江軍節度使を贈られ、諡して宣恵といい、賻銭(弔慰金)三百万・絹千疋を賜った。著すところに『玉季集』二十巻がある。
  • 惟済は多く吏才があったが性は苛忍で、赴任した先ではことごとく牽蔓(連座を広く及ぼす)して獄を満たし、重罪の囚人は棄市(処刑)し、あるいは手足を断ち胆肝を探る(拷問する)ことを常とした。定州を知った時、婦人があって前妻の子を不仁に扱い、銅銭を焼いてその腕に灼(や)いたことがあったので、惟済は生まれた子を取って雪の中に置き、その婦人を械(かせ)をつけて子を視に行かせ、子は死んだ。その惨毒はこの類が多かった。
  • 忠献・忠懿二王の親従の子は凡そ六十八人おり、今、伝記に見える者は十余人にすぎない。他は詳らかにすることができない。