節倹と仁恕の徳
- 恭懿夫人呉氏は名を漢月といい、銭塘の人である。父の珂は官として中直指揮使であった。幼くして婉淑(しとやか)であり、文穆王に侍り、忠懿王はまさにその所生(実子)である。恭穆夫人は絶えてこれを憐愛した。夫人は琴をよく弾じ、性は慈恵で節倹、頗る黄老の学を尚び、常に道士の服を被り、ただ布練(粗末な絹布)のみを着た。王が重刑を決するたびに必ず顰蹙(眉をひそめる)して仁恕をもって言を為し、母家(実家)にも遷授(昇進)があれば多くこれを峻拒した。入って見(まみ)えるときには訓励を加え、間に督責したので、諸呉(呉氏の一族)は夫人の代を通じて甚だ驕恣にはならなかった。乾祐二年十一月、呉越国順徳太夫人に封じられ、広順二年六月、薨じ、年四十、諡して恭懿とした。この秋、勅して慈雲嶺の西原に葬った。翌年、忠懿王は報恩元教寺を建てて冥福を資(たす)け、また銅像二つを鋳造して奉国・金地の二尼寺に致し、孝思(親を思う情)を志した。
- 寧国節度使の呉延福は太夫人の弟である。建隆の初め、延福の兄弟五人には異図(謀反の企て)があり、左右は王にこれを誅するよう勧めたが、王は言った、「先夫人の同気(きょうだい)である、どうして忍んで法に置くことができようか」。言い終わると嗚咽して涙を流したが、ただ延福らを外に黜けるだけで刑を加えなかった。