十国春秋卷八十 吳越四 世家 忠遜王
要約
忠遜王銭𢎞倧、字は隆道、文穆王の第七子で孝献世子と同母の弟である。誕生の夕、文穆王が黄金一篋を献じられる夢を見たことから字を「万金」とされ、幼くして武粛王に「眼は小さい」と言われた逸話も伝わる。内牙指揮使・検校司空から起家し、開運元年に東府安撫使、検校太尉を重ねて授けられまもなく丞相を拝し、天福十二年六月、兄忠献王の薨去を受けて天冊堂で即位した。弟𢎞俶を召して同参相府事とし、閩の帥李達を承制して侍中に加え孺贇と改名させるなど、李孺贇(李達)の帰順・再叛・討伐という一連の外交を処理し、東南面安撫使鮑修譲に孺贇を討たせて族滅させる一方、性は厳格で杭州・越州で法を侵した官吏三人を誅すなど、忠献王時代から驕慢であった諸将と次第に対立を深めた。漢の東南兵馬都元帥・鎮海鎮東節度使兼中書令の冊授を受け漢の正朔を奉じることにもなった。
統軍使胡進思は忠遜王を迎え立てた功を恃んで政事に干与し、僭越をたびたび裁抑されて憎まれ、水軍大閲の賞賜を諫めて王に筆を水中へ投げ込まれるなど叱責されたことで恨みを深めた。水丘昭劵・何承訓らが進思排斥を謀ったが、承訓が事の露見を恐れて計画を進思に漏らしたため、逆に進思が内牙の親兵を率いて夜宴の場に乱入し、王を義和院に幽閉した。王命と偽って弟𢎞俶(忠懿王)を迎立し、丞相元徳昭も拝礼を保留して新君の来臨を待つなど、廃立は既成事実として進められ、進思は水丘昭劵と王の舅鹿光鉉を殺害した。
その後、王は衣錦軍、さらに東府へ移され、忠懿王が起用した都頭薛温にひそかに護衛を委ねられた。忠懿王は官物で王の用を賄い、東府の園亭・灯会・七夕の綵楼・水鼓など風雅な生活を厚くもてなす一方、進思が方安ら刺客を放つたびに都頭薛温の護衛によって命を守られた。二十年余りを過ごして薨じ、年四十四、諡は忠遜、あるいは讓王と称された。即位前後には金の䤬鑼や巨銭鋳造にまつわる予兆の逸話も語り継がれた。後年、宋の真宗・仁宗はその子銭易の功に因み、尚書令・天下兵馬都元帥を追贈する誥・敕を下している。史論では、呉越が漢の正朔でなく契丹の会同の年号を用いていた経緯が福州双石祠記なども引きつつ考証されている。
現代語訳全文
出自と即位
- 忠遜王は諱を𢎞倧、字を隆道といい、文穆王の第七子、孝献世子と同母の弟である。誕生の夕、文穆王は人が黄金一篋(ひとはこ)を献じる夢を見た。そこで字を「万金」とした。襁褓(むつき)のまま府中に入った時、武粛王はちょうど目を病んでいたが、その頭を撫でて「眼は大きいか小さいか」と言った。左右の者が「眼は小さいです」と答えると、武粛王は黙然としていた。
- 内牙指揮使・検校司空として起家した。開運元年(944年)冬十月、東府安撫使として出向し、検校太尉を重ねて授けられ、まもなく丞相を拝した。天福十二年(947年)六月丙寅、天冊堂で王位に即いたが、なお会同十年と称していた。
- 秋七月、王は弟で台州刺史の𢎞俶を召して同参相府事とした。庚子、雉が天冊堂の戟門に飛び上がり、廊廡(廊下)を巡って久しくしてこれを捕らえた。閩の帥李達が来朝し、その弟通を福州留後とした。王は承制して達を加えて侍中とし、その名を孺贇と改めさせ、達の弟には孺賓という名を賜った。閏月、李孺贇は金の筍(たけのこ形の飾り)や様々な宝物を統軍使の胡進思に賄賂として贈り、帰任を求めた。進思はこれを取りなし、王は孺贇に福州への復任を命じ、自ら碧波亭で餞(はなむけ)を送った。
- 八月、忠献王の子を国城の西原に葬った。この月、漢は王を東南兵馬都元帥・鎮海鎮東節度使兼中書令とし、呉越王はそこで漢主の正朔を遵うこととなった。冬十月、王の弟𢎞俶が台州より至った。十一月、王は碧波亭で水軍を大閲した。統軍使の胡進思は賞賜が厚すぎると諫めたが、王は怒って筆を水中に投げ込み、進思は大いに懼れた。
- 十二月、威武軍節度使の李孺贇は再び我が国に叛いた。東南面安撫使の鮑修譲が孺贇を攻めてこれを戮し、その家を族滅した。己酉、首を国城に伝えた。王は丞相の呉程に命じて福州威武軍事を知らせた。
胡進思の専横と廃立
- 庚戌、内牙統軍使の胡進思は指揮使の諸温・鈄滔らとともに乱を起こした。忠献王の時代から諸校(将校)は驕慢であり、その都度誅殺されてはいたが、在位する者はみな寛大に遇されていた。王が嗣位するに及び、その性はすでに厳しく激しく、杭州・越州で法を侮った官吏三人を誅した。一方、進思は王を迎え立てた功に恃んで政事に干与し、王はこれを憎み、僭越があるたびにしばしば裁抑した。進思は頗る自らを安んじられなくなった。
- まもなく王は進思に一州を授けようとしたが、進思は不可とした。ちょうど李孺贇が叛いたとき、王は進思の建議によってこれを送り返したうえで、さらに責め諭したので、進思はますます憤恨した。内牙指揮使の何承訓が意を迎えて進思を逐うことを請い、また都監使の水丘昭劵と密かに謀った。王はなおも猶予して決しなかったが、承訓は事が露見するのを恐れ、逆に謀を進思に洩らした。
- 時に王府では夜宴を開いて将吏を集めていたが、進思はこれを自分を図る(除く)ためのものと疑い、そこで内牙の親兵を統率し、戎服(軍装)のまま入って王に見(まみ)えた。王がこれを叱っても退かず、あわてふためいて義和院に入った。進思はその門を鎖し、王命を偽って中外に告げて言った、「にわかに風疾を得られたので、弟で同参相府事の𢎞俶に位を伝える」。そこで諸将士を率いて𢎞俶を私邸に迎え入れて立てた。
- また丞相の元徳昭に言うと、徳昭は至って簾の下に立ち、拝礼せずに言った、「新君にお会いするのを待とう」。進思は急いで出て簾を褰(かか)げ、徳昭はそこで初めて拝した。進思は王命と称して承制し、𢎞俶に鎮海鎮東節度使兼侍中を授けた。𢎞俶は言った、「我が兄を全うすることができるならば、あえて命を承ろう。そうでなければ、賢路(賢者に位を譲る道)を避けるべきだ」。進思はこれを承知した。ちょうど視事(政務)を執ろうとしたところ、進思はついに昭劵及び進侍の鹿光鉉を殺した。光鉉は王の舅であった。
- 翌年、王を衣錦軍に遷した。進思は日々王を害することを求めたが、忠懿王は百端の説得を試み、また進思に他の変事があるのではと疑い、そこで都頭の薛温を遣わして王を護らせ、戒めて言った、「もし尋常でない処分があれば、死をもって拒むべきである」。まもなく進思は方安らを遣わして王を図ろうとしたが、温はことごとくこれを庭で斃した。
幽閉と晩年
- 広順年間、王を東府に徙した。忠懿王は東府に命じて官物をもって王の用に充てさせ、西寝(西の寝殿)の後ろ、すなわち臥龍山に、王のために園亭を置き、花木を上一面に高低を巡って植えさせた。良辰美景に会うと、王は道士の服を被り、伎楽を擁して朝夕これに登って観賞した。毎年元夜(正月十五夜)には灯を山谷一面に張り巡らし、油数千斤を用いた。七夕には綵楼(彩り豊かな楼閣)を山巓に結んだ。諸々の節句の時の費用もこれと同様であった。
- 王は常に山亭で鼓を撃ち、その音は外にまで達し、守衛の者が急いで忠懿王に聞こえた。忠懿王は言った、「我が兄は閑適を心にかけており、鼓楽がなければ楽しめない」。そこで金魚水鼓(水時計を兼ねた鼓)四面を命じてこれを奉じさせた。王は詩を作ることができ、亭榭の上にその記録がすべて満ちていた。二十年ほど過ごしてついに薨じた。
- 王の礼をもって会稽の秦望山の原に葬った。諡して忠遜といい、あるいは讓王ともいう。年四十四、子は四人。
- はじめ王がまさに即位しようとしていたとき、近侍の陳禹は夢で、金の䤬鑼(銅鑼)が日輪を承け王の頭に加わり、手には二つの鐶(わ)を持っているのを見た。しばらくすると地に墜ちた。すでにこの夢を人に語ったところ、人々は言った、「あなたの主君にはまさに尋常でないことが起ころうとしている。ただしその二つの鐶は二十日を超えぬうちのことに過ぎまい」。
- 即位するに及んでまた黄金一鎰(にじゅう両)をもって近侍の袁文昌に命じて巨銭を鋳させた。文昌はこれが讖(予言)を求めるものと考え、成らないことを恐れ、そこで密かに冶匠(鋳物師)と謀り、別に一つを鋳造して備えとした。翌日、授かった金でこれを鋳ると、王が臨んで見たところ、果たして成らなかった。そこで密かに前もって鋳造しておいたものを献じた。ここに至って、みなその兆しに符合したのである。
- 大中祥符六年六月、宋の真宗は讓王に尚書令を贈り、誥に曰く、「朕は景霊(先祖の霊)に茂(さかん)に応え、明命を誕(ひろ)く敷く。すなわち材を育てる地を眷(かえりみ)て、まず錫類(同族への恩賜)の恩を推し、特に龍章(詔勅の美称)を示して元烈(大いなる功烈)を旌(あらわ)す。咨(ああ)、爾、直集賢院上都騎の銭易の父、太保・中書令・呉越国王の銭倧は、早くに王爵を襲い、世々の功をよく成し遂げ、大いに呉越の民を庇護した。まことに軒冕(車と冠、爵位の象徴)の緒(いとぐち)を隆んにし、剛正の資を稟(う)けて前人に恥じることなく、友讓(兄弟の間の譲り合い)の風を隆んにして自ら多福を致した。方(模範)を遺し行いを景(したが)い、その後昆(子孫)に踵(つ)いで、まことに燕翼の謀(子孫を安んずる計略)を彰らかにした。よろしく褒崇(ほめたたえる)の命を賜うべきである。納言(尚書令)の華秩(すぐれた官位)は位、天台(三台の位)に冠たり、諸々の山原を賁(かざ)り、永く門閥を耀かす。尚書令を贈るべし」。
- 天聖三年六月、宋の仁宗は讓王に贈って敕に曰く、「朕は先頃、つつしんで嘉壇(郊祀の壇)に陟(のぼ)り、恭しく大祀を承け、㢲風(東南の風、恭順の徳)に協って令(善政)を施し、雨を解いて(恩沢を施し)恩を推し及ぼした。眷(かえりみ)れば綸掖(詔勅を掌る近侍)の近臣であり、これによって漏泉の新命(恩沢の新たな命令)を沛(さかん)にすべきである。ましてや勲烈においては、よろしくこれを褒崇すべきである。中大夫・上柱国・彭城郡開国侯の銭易の父、故検校太師兼中書令・呉越国王の銭倧は、位は真王を襲い、功は冊府に聯なった。明敏にして厳毅であること、国史に具(つぶさ)に書かれている。人臣として天爵(天が与えた徳)を極め隆んにし、自ら斉桓公の業を襲い、忠孝を挺(ぬきん)でて遺すことなく、秦伯(秦の穆公)の風を振るい、揖讓(譲り合い)を敦(あつ)くしてここにあった。果たして佳嗣(すぐれた後継、銭易)を鍾(あつ)め、我が詞臣となし、これを本心に得て、その善を克く済(な)した。風樹の感(父母を思う情)は常に疚懐(心の痛み)に切であるとはいえ、密対(近侍としての奉答)の封は、これ異渥(特別な恩沢)を膺(う)けるものである。錦字(詔勅の文)を総師(統括する)することは、これすなわち世官(代々の官職)である。挙げてこれを贈り、なお歆奉(欣んで奉じる)ことを冀う。特に天下兵馬都元帥を贈り、なお讓王に封ずべし。余の贈りものは故のごとし」。
史論
- 論じて言う。呉越の甘露院の牒に「会同十年」と称しているのは、天福十二年七月にあたる。どうして「開運」あるいは「天福」と称さなかったのか。思うに、これより前、呉越は契丹と通使すること一度や二度ではなかった。ここに至って、すでに詔が州鎮に布告されていたが、漢の使者はまだ至っていなかった。どうしてその正朔を奉じないままでいられようか。
- たまたま福州の双石祠記を読むと、「会同十年、閩府が承平(帰順して平定された)となったので、あらためて安境侯に封じた」とある。当時、福州は新たに呉越に附いたばかりであったので、これも同じく会同と称したのである。
- 疑わしいのは、契丹はこの年二月にすでに大同と改元しているので、『遼史』には会同十年というものはないのに、呉越がなお十年と紀していることである。これは何故か。思うに、契丹が赦を降す時には会同と称し、改元にあたっては大同と称した。改元の後、三か月とたたずに(耶律)徳光は卒したので、大同の号は南土に行われなかった。それゆえ呉越が丁未(947年)七月に会同と称しているのは、また何の疑いがあろうか。