十国春秋十國春秋卷七十八 吳越二

呉越の武粛王・銭鏐の後半生を記す(?–932年)。梁の建国後は呉越王・尚父・天下兵馬都元帥と累進し、天寳と私に改元して領内で用いた。呉(楊氏)としばしば干戈を交え、狼山江の勝利ののち和議を結んで二十余年兵を収め、捍海の石塘を築き撩浅軍を置くなど、水利と築城で銭塘の富強を築いた。後唐からは金印玉冊を賜って呉越国王に冊せられたが、安重誨の誣告で一時すべての官爵を削られ、のちに復された。長興三年に八十一歳で薨じ、諡は武粛。諸国が帝を称するよう勧めても終生受けなかった。

年表(21件)

天寳元年(908年)

  • 春正月、兵を出して淮南の甘露鎮を攻め、信州を救った。梁は勅して臨安県を安国県、広義郷を衣錦郷と改めた。
  • 夏六月、梁は王に検校太師・守中書令を授け、食邑千戸・実封百戸を加えた。
  • 秋八月、梁は勅して唐山県を呉昌県、唐興県を天台県と改め、また杭州・越州などを大都督府に昇格させた。
  • 王は寧国節度使の王景仁を大梁に遣り、淮南を取る策を上表させた。梁主が進奏の吏に「銭王は平生何を好むか」と尋ねると、「玉帯と名馬を好みます」と答えた。梁主は笑って「まことの英雄だ」と言い、玉帯一箱と打毬用の御馬十頭を賜った。
  • この月、梁の諱を避けて新城県を新登、長城県を長興、楽成県を楽清と改めた。
  • 九月、梁は鎮東軍節度副使の成及を保大軍節度使・同平章事とし、副使はもとのままとした。淮南の将周本・呂師造が蘇州を攻めたので、王は従弟の銭鋸に討たせた。
  • この月、張仁保が常州の東洲を襲って取った。淮南は陳璋を水陸行営都招討使とし、柴再用らに兵を率いさせて救援に来たので、張仁保は魚蕩で敗れ、東洲もまた失った。
  • 梁は隋の司徒であった陳仁果を福順王に封じた。
  • 王は呉山の紫極宮を真聖観と改めた。
  • この年、王は中原が乱れているとして天寳と改元し、領内で私に用いた。のちに中国と往来が復すると、これを憚って称さないこともあった。

天寳二年(909年)

  • 夏四月、梁は王に守太保を授け、食邑二千戸・実封二百戸を加えた。
  • この月、淮南の兵が蘇州を囲み、守将の孫琰が力を尽くして防いだ。王は弟の牙内指揮使銭鏢、行軍副使の杜建徽、江海遊奕都虞候の何逢、司馬福らに兵を率いさせて姑蘇を救い、内外から挟撃して淮南の将何朗・閭丘直ら三千余人を生け捕り、武具と捕虜三十万、戦船二百余艘を獲た。周本・呂師造らは夜逃げしたが、黄天蕩でさらに追撃して破った。
  • 五月甲寅、王は自ら蘇州を巡り、将の梅世忠・李開山に許浦の上流を守らせた。もと唐の曹王李明を昭霊侯に封じた。
  • この月丁巳、明州刺史の黄晟が没した。辛酉、王は蘇州から東府へ移り、辛巳に明州を巡って望海鎮に城を築き、子の銭伝㺷を明州制置使とした。
  • 信州の危仔倡が部下に淮南へ寝返られて叛かれ、わが方へ逃げてきた。王は淮南節度副使とし、姓を元氏と改めさせた。
  • 六月壬寅、王は明州を発った。梁は刑部尚書の姚洎と礼部員外郎の羅袞を遣り、呉越王の冊礼を授けた。戊申、王は東府から帰った。この行程で、余姚の丈亭鎮に至ったとき舟が巨石に乗り上げて進めなくなったが、やがて大雨と雷が起こり、二匹の龍が王の舟を負い、鎮遏使の翁元軻が舟を引いて進むと、二龍は舷から昇っていったという。
  • 秋閏八月、梁は王に守太尉を授け実封二百戸を加えた。制文は、非常の事を成すには非常の才があり、第一の功を建てる者は第一の位に居るべきだと説き、真の太尉の官は軽々しく議さず大司の職も安易には求めぬのは、爵が尊く任が重いからであるとする。そのうえで銭鏐が文武を兼ね備え、忠正廉毅で詩礼に厚く、暴を除き奸を去って万人に敵し、淮夷が王化に服さぬに際して封を増され呉会を有し広陵を兼ね鎮め、追撃しては一輪も残さず敵艦を覆没させ、さらに奸賊が国境を騒がすたびに独力で支え、神機を運らして敵を殲滅した功を並べ、そのため彝鼎に刻み輅車を賜り、呂望の尊崇になぞらえ列侯の貴を正し、実封を加え兼官を寵するのだと述べる。最後に「正大をもって進むのが邦を経める道、終わりを慎むのが位に居る格言である」と戒めている。
  • この月、梁は勅して蘇州に呉江県、明州に静安県を置いた。王の請いによる。
  • 冬十月、湖州刺史の高澧がこちらに二心を抱き、その一党に義和・臨平などの鎮を焼かせた。王は弟の銭鏢に討たせた。
  • 十一月乙酉、発運使の羅隠が没した。蔣渙を温州刺史とした(蔣渙を継いだのは季広琛である)。
  • この年、術者が安吉県の東に王気があると言ったので、王がその地を掘らせると、四羽の鳩が飛び出して四龍と化した。そこで「四龍湖」の名を賜った。また双仁祠を建てて唐の顔真卿を祀り、従兄の顔杲卿もあわせて祀らせた。王は海塩の金粟寺に行幸し、寺僧に茶を大衆にふるまわせた。

天寳三年(910年)

  • 春二月、湖州刺史の高澧が呉の将李簡・陳璋らを領内に導き入れたが、都将の盛師友と沈行思が城を閉ざして入れなかった。王は子の銭伝璙に援軍を送らせて防ぎ、呉人は高澧を伴って逃げた。
  • 三月癸巳、王は湖州を巡り、弟の銭鏢を刺史とした。癸卯、湖州から帰った。
  • 五月、奏請して西府の富陽県を富春県、東府の暨陽県を(欠字)県、処州の松陽県を長松県、婺州の浦陽県を浦江県と改めた。楊氏を忌んでのことである。また湖州の武康県を割いて杭州に属させた。
  • 秋七月、王は監軍の宦官周廷詰以下二十五人について梁に上表し、彼らが劉季述・韓全誨の一党ではないとして赦免を請うた。
  • 八月、はじめて捍海の石塘を築き、塘の外に滉柱を十数列植えて水勢を弱めた。それ以前、江の波が荒く版築が進まなかったので、王は畳雪楼に強弩五百張を並べて潮を射させた。すると波頭は西陵の方へ向かい、潮はにわかに収まったので、基礎を定め、鉄の綱で幢の幹を貫き石で固めて塘が完成した。あわせて候潮門・通江門などの城門を建て、龍山と浙江の二か所に閘を設けて江の潮が河に入るのを防いだ。
  • 冬十月戊寅、王は自ら衣錦軍を巡った。九十余歳の隣家の老婆が壺と食べ物を携えて迎え「銭婆留、たいそうご出世だね」と言ったので、王は車を降りて拝した。王は酒宴を大いに開き、八十歳以上の父老男女には金の盃、百歳の者には玉の盃を与え、自ら盃を執って長寿を祝った。そして「還郷歌」を作った。三たび節を帯びて錦を着て故郷に帰り、碧空は晴れ、功臣道には旌旗が並び、父老が遠くから追い従う。故郷の人に会う機会は少ないが、今日は宴を設けて盃が飛び交う。天に凶星なく民に偽りなし、呉越の一王が四頭立ての馬で帰ってきた――という内容である。父老には意味が通じなかったので、王は改めて呉の言葉で高らかに歌い直し、一座がこれに唱和して笑い声が席を揺るがした。
  • 丙戌、王は衣錦城から帰った。湖州巡校将の沈行思が罪により処刑された。湖州都将の盛師友に婺州刺史を代行させた。
  • この年、杭州の城郭を広げ、台館を大いに修め、子城を築いた。南を通越門、北を双門といった。銭塘の富裕はこれによって東南で随一となった。
  • ある者が夜、府門に「終わりがない、終わりがない。城を修め終えたらまた池を掘る」と落書きした。王はこれを見ると句を改めさせ、「終わりがない、終わりがない。春の衣を賜り終えたらまた冬の衣」とした。不平をこぼしていた士卒はたちまち黙った。
  • この年、梁は王の曽祖父で宣州旌徳県令・吏部尚書左僕射を贈られた銭沛を洪勝王に追封し、曽祖母の童氏を斉国太夫人、祖父の太尉銭宙を建初王、祖母の楚国太夫人水丘氏を晋国九華太夫人、父の威勝軍節度推官・職方郎中・太府少卿・礼部尚書・開府儀同三司・守太師・中書令の銭寛を英顕王、母の秦国太夫人水丘氏を趙国太玄太夫人とし、勅して三世の祖廟を安国衣錦軍に建てさせた。

天寳四年(911年)

  • 春正月丙戌、日食があった。
  • 夏四月、梁は制して王を守尚書令・兼淮南宣歙等道四面行営都統とし、食邑二千戸・実封百戸を加えた。また刑部侍郎の李光嗣を遣って衣錦軍に王の生祠を建てさせ、翰林学士の李琪に碑文を作らせた。僚吏・将校の請いによる。
  • 五月朔、梁は乾化と改元した。この月、松江に南北二城を築き、鎖と柵を備えた。
  • 秋七月、梁は勅して淮南・両浙の幕府の将吏五百人にそろって「賛政安国功臣」の号を賜った。
  • 冬十月辛亥朔、湖州刺史である王の弟の銭鏢が、酔って防戍指揮使の潘良と推官の鍾安徳を勝手に殺し、呉へ逃げた。
  • この年、仁王廃院の地を掘って大銭が出た。王は瑞兆として、その地に大銭寺を建て宝幢二基を設けた。また安国県の自邸の敷地を寺に施し、梁に額を請うて「光孝明因」と名づけた。

天寳五年(912年)

  • 夏六月、梁主が殺され、郢王朱友珪が位を僭称した。
  • 秋七月、朱友珪は刑部尚書の李皎を遣って王を尚父に冊尊した。
  • 八月己丑、西陵に城を築いた。このころ蘇州の虎疁を滸墅と改めた。王の名を避けたのである。国内では石榴を金桜、留住を駐下と言い換え、劉氏を金氏、留氏を田氏と改めさせた。

天寳六年(913年)

  • 春正月、梁の朱友珪は鳳暦と改元し大赦を行った。
  • 二月、梁の均王朱友貞が兵を挙げて朱友珪を誅し、汴京で即位して名を瑱と改め、ふたたび乾化と称した。勅して供奉官の楊彦賓を遣り宣諭した。
  • 三月、梁は王に尚父の冊礼を授けた。この月、呉の行営招討使李濤が二万の兵で千秋嶺からわが衣錦軍を侵した。王は子で湖州刺史の銭伝瓘を北面応援使として救援させ、また子で睦州刺史の銭伝璙を招討収復都指揮使として東洲を攻めさせ、敵の勢いを分散させた。
  • 夏四月、銭伝瓘は木を伐って呉兵の退路を断ち、攻撃して李濤ら八千余人を生け捕った。銭伝璙も敵将の李師愈・姚延環ら三千余人を捕らえて帰った。この月、梁は王の食邑三千戸・実封二百戸を加えた。
  • 五月、呉の宣州刺史花虔が広徳鎮遏使の渦信と合してふたたび衣錦軍を侵そうとしたので、王の子の銭伝瓘が兵を率いて討った。
  • 六月、広徳県を落とし、花虔・渦信および吏卒七千余人を捕らえて帰った。辛卯、彰義軍節度使・検校太尉兼侍中の成及が没した。
  • 秋九月、王は子の銭伝瓘・銭伝璙・銭伝瑛に呉の常州を攻めさせ、藩葑に陣を置いた。呉の将徐温が兵を率いて駆けつけ、別将の陳祐と挟撃したため、銭伝瓘らは大敗した。
  • 冬十月、梁は王の子の銭伝瓘に開国の爵邑を加えた。乙酉、大同軍節度使・駙馬都尉である王の子の銭伝瑛が没した。王は子の銭伝璙に蘇州刺史を代行させた。安国県の神である済安侯を永定王に加封した。
  • このとき徳清の憾山に城を築いて兵を駐屯させ、奉国城と名づけた。また烏程の東九十里に兵を置いて烏戍と称した。

天寳七年(914年)

  • 夏六月、梁は王の子の銭伝瓘に開国侯の食邑を授けた。
  • 七月、清海軍節度使の劉巌が供軍巡官の陳用拙を遣って礼幣を奉り、王を兄として仕えることを願い出た。王はこれを受け入れた。
  • この年、温州の横陽県を平陽と改め、上表して銭塘の龍君を広潤龍王に封じた。

天寳八年(915年)

  • 春正月、梁は王の子の銭伝瓘以下にそれぞれ官爵を授けた。甲午、王は自ら衣錦軍を巡った。
  • 二月、梁は給事中の韋彖と金部郎中の李発を遣り、王の子の銭伝珍を駙馬都尉に選んだ。
  • 閏二月己亥、王は衣錦軍から帰った。
  • 冬十一月乙丑、梁は貞明と改元した。
  • このころ都水営使を置いて水利を管掌させ、兵を募って「撩浅軍」(撩清軍とも)という部隊を編成した。太湖のほとりに撩清の兵四部、計七、八千人を置き、常時、田事のために河を治め堤を築かせた。水路は一つは呉淞江へ下り、一つは急水港から澱山湖を経て海に入る。住民は旱には水を運んで田に注ぎ、水害には水を田から出した。また東府の南湖(鑑湖)を開き、その規則を詳細に整えた。

天寳九年(916年)

  • 春正月、梁は浙東営田副使・常州刺史の杜建徽を涇源節度使とした。
  • 夏五月、浙西安撫判官の皮光業を遣り、建州・汀州・虔州・郴州・潭州・岳州・荊南を経る道を通って梁に入貢させた。
  • 秋七月、梁は王に諸道兵馬元帥を加えた。梁の臣の多くは、王の入貢は交易の利のためであり、名器を軽々しく与えるべきでないと言った。翰林学士の竇夢徴は詔書の麻を手にして泣き、そのために蓬萊尉に左遷された。
  • 冬十二月、城南に仏塔を建てた。
  • この年、王は子の牙内先鋒都指揮使銭伝珦に閩から妻を迎えさせ、以後、閩と親交を結んだ。銭塘県の節度討撃副使方銖が福慶庵に石幢を造った。
  • このころ婺州の道士周某が赤松澗の仙米を王に献じた。王はひそかに張思敏を遣って産地を調べさせ、紫衣と金帛を賜った。

天寳十年(917年)

  • 春三月、梁は勅して王の諸子に官爵を授けた。銭伝璙に賛正安国功臣・鎮海軍北面水陸都指揮使・金紫光禄大夫・検校太保・守湖州刺史・大彭郡侯・食邑千戸、銭伝球(原文は別記)ら各々に、鎮海軍節度副使・土客諸軍都指揮使、鎮東軍東面水陸安撫都指揮使兼守温州刺史、鎮東軍西面安撫都指揮使兼守睦州刺史、鎮東軍親従都指揮兼土客諸軍安撫副指揮使兼守竇州刺史、鎮海軍上右都指揮使兼土客諸軍安撫副指揮使・前明州刺史、衣錦軍防遏都指揮使兼守義州刺史、鎮海軍牙内先鋒指揮使兼守峰州刺史、鎮海軍節度上押衙・安国衣錦軍親従副指揮使兼両直都虞候・守巒州刺史、鎮海軍節度右押衙・上直都知兵馬使など、それぞれ官秩・階・爵および遥領の郡を与えた。
  • 夏四月、梁は詔して諸道兵馬元帥府に幕府を開き吏を任じることを、天策上将軍府の故事と同じにさせた。この月、あらためて峰州刺史の銭伝珦を守検校太保とし、他はもとのままとした。
  • 冬十月己亥、梁は吏部尚書の李燕と中書舎人の韋説を遣り、王に天下兵馬都元帥を加えた。それ以前、梁の使者が来たときは拝謁も恭しかったが、韋説だけは長揖して拝まなかった。
  • この月、卞山の金井洞に黄龍が現れたので、瑞応宮を建てさせた。
  • この年、王は蓬萊閣の西に崇善王廟を建てた。浦江の人何千齢が四代同居しているとして、担当官がその事を上申した。

天寳十一年(918年)

  • 春三月朔、四つの星が斗宿に集まった。王は元帥府を開いて官属を置いた。梁は両浙行軍司馬・秦州節度使・平章事の馬綽を守検校太尉・同平章事とし、他はもとのままとした。
  • 秋七月、呉の招討使劉信が虔州を攻めたので、譚全播がわが方に救援を求めた。王は子の統軍使銭伝球を西南面行営応援使として鮑君福らに兵を率いさせ、信州を攻めて虔州を救わせた。鮑君福は呉の将李師造を斬り、偏将の馮敏ら千余人を捕らえて城下に迫った。刺史の周本は門の内に空の幕を張り、僚佐を楼に呼んで楽を奏し宴を開いたので、わが兵は伏兵があると疑って囲みを解いた。
  • 八月、呉は前の舒州刺史陳璋に兵を率いさせ蘇州・湖州を侵させた。この月、銭伝球は信州から南下して汀州に駐屯した。このとき呉軍が楚の兵を大破し、さらに梁詮を遣ってわが兵を撃たせたので、銭伝球は兵を引いて帰った。梁は涇源節度使の杜建徽を守検校太傅・同平章事とした。
  • 冬十一月、呉が虔州を囲み、刺史の盧光儔が救援を求めてきた。王は兵を徴発して救わせたが、境に達しないうちに虔州は滅んだ。これによって朝貢の道が絶たれたので、以後は海路で登州・莱州に出て京師に入貢するようになった。
  • この月、後百済王の甄萱が使者を遣って馬を献じた。王は返礼の使者を送り、甄萱に中大夫を授け、他はもとのままとした。
  • このころ晋の分水令であった朱徹の廟を新登県に立て、朱徹を通霊侯に封じた。

天寳十二年(919年)

  • 春三月、梁は詔して王に大挙して呉を伐たせた。王は子の節度副大使銭伝瓘を諸軍都指揮使とし、戦艦五百艘を率いて東洲から呉を攻めさせた。
  • 夏四月、狼山江で呉軍と戦って大破し、呉の百勝軍使彭彦章を斬り、士卒千余人を生け捕った。梁は湖州刺史・大彭開国子である王の子の銭伝璟を宣州寧国軍節度使・同平章事とした。
  • 六月、呉軍が沙山でわが兵を破った。
  • 秋七月、王は子の銭伝瓘に三万の兵で常州を攻めさせた。呉の徐温が防ぎに来て、陳璋に水軍で海門を下らせわが背後に回らせた。壬申、無錫で戦い、指揮使の何逢と呉建が戦死したので、軍を返した。王は何逢の乗馬を見て悲しみを抑えられなかった。将士はこれによって心から王に従った。
  • 八月、呉は無錫の捕虜を返し、客省使の欧陽汀を遣って和議を請うた。王は民を休ませるためこれを受け入れた。以後、二十余年にわたり兵を収めた。呉王と徐温はしばしば書を送って王に建国を勧めたが、王は従わなかった。
  • 九月、梁は南海(劉氏)が僭号したとして、わが軍に討伐を詔した。王は命を受けたものの山川が遠く隔たっているとして、事を取りやめることを請うた。
  • 冬十一月丁亥、呉越国の正徳夫人呉氏が薨じた。
  • このとき安国県の独山の神を鎮水山王に封じた。

天寳十三年(920年)

  • 春二月、梁は宣州節度使・同平章事である王の子の銭伝璟以下に、そろって起復して雲麾将軍・上右金吾衛大将軍・員置同正員を授け、他はもとのままとした。
  • 三月、王は元帥府判官の皮光業を呉に使わした。
  • 秋七月、王は子で睦州刺史の銭伝懿を婺州刺史とした。
  • 冬十一月、王は使者を遣り、子の銭伝璛のために楚に婚を求めた。楚王馬殷はこれを許した。

天寳十四年(921年)

  • 春三月、呉は王の従弟である龍武統軍銭鎰を送り返した。王は銭鎰を鎮海軍節度副使とし、こちらも李濤を返して報いた。
  • 夏五月、梁は龍徳と改元した。
  • 六月乙卯朔、日食があった。
  • 秋七月、楚は掌書記の李崐と馬匡に娘を送らせ、都知兵馬使・検校尚書左僕射である王の子の銭伝璛に嫁がせた。
  • 冬十月、梁は王の子の銭伝瓘に検校太傅・同中書門下平章事・充清海軍節度使を授けた。これ以後、王に賜る書詔では名を記さなくなった。
  • この年、上方多福院を建て、また天真山に天真院を建てた。この山はもと登雲台といい、拝郊台ともいった(郊天の場である)。

天寳十五年(922年)

  • 春正月、梁は王の子の銭伝瓘以下にそろって起復と爵邑の加増を授けた。
  • 秋七月、王は国門の右に天下元帥府を建てた。
  • 八月、両浙行軍司馬・秦州雄武軍節度使・同平章事の馬綽が没した。
  • 冬(欠字)月、王は昼寝の夢に青い衣の人が帳簿を捧げて進み出て「大王は明年、銭塘の官の任期が満ちます」と告げるのを見た。目覚めて甚だ不吉に思った。
  • この年、銭塘・塩官の各半分と、富春の長寿・安吉二郷を割いて銭江県を置いた。

天寳十六年(923年)

  • 春二月、梁は兵部侍郎の崔協と刑部員外郎の夏侯昭を遣り、王を呉越国王に冊封した。丁卯、王ははじめて建国した。
  • 儀衛の名称は多く天子の制にならい、居所を宮殿、府署を朝廷、領内に下す教令を制勅と称し、将吏は皆、表疏を奉り、「呉越国」と称して軍とは言わなくなった。子の清海軍節度使兼侍中銭伝瓘を鎮海・鎮東留後として軍府の事を総べさせ、百官を置いた。丞相・侍郎・郎中・員外郎・客省等使がある。
  • 夏四月乙巳、晋王が皇帝に即位し、国号を唐、同光と改元した。この月、梁が滅んだ。乾寧年間に農夫が伝国の璽を得て王に献じたことがあり、王は人臣の家に置くべきものではないとしていたが、このとき献上した。
  • 五月、唐は宣諭使として通事舎人の呉韜を淮甸から馬を走らせて派遣し、王に名馬・玉帯・香薬を賜った。
  • 冬十月辛未朔、日食があった。
  • 六月、わが国の文士朴巌が新羅から高麗に投じた。
  • 十二月、王は行軍司馬の杜建徽を左丞相とした。
  • このころ馬三万余頭を飼い、「海馬」と称した。宮中に閲礼堂を建てた。

寳大元年(924年)

  • 春二月癸卯、金吾衛大将軍・置同正員・検校司空・明州刺史である王の子(名は闕)が没した。
  • 秋九月、王は使者の銭詢を遣って唐に方物を貢いだ。銀器・越綾・呉綾および龍鳳の衣・絹糸の靴などである。また万寿節に、金器の盤龍鳳錦の織成、紅羅縠の袍・襖・衫の反物、秘色の磁器、銀装花櫚木の厨子、金の排方・盤龍帯、御衣、白龍瑙、紅地龍鳳錦の被、紅藤龍鳳の箱などを進めた。
  • 王は厚く貢献したうえ、さらに唐の権要に賄賂を使って、金印と玉冊を賜り詔に名を記さず「国王」と称することを求めた。担当官は「先例では玉冊は天子のみが用い、また四方の異民族以外に国王に封じた例はない」と言ったが、唐主はすべて王の意に従った。
  • 冬十月、唐は王に従前どおり天下兵馬都元帥・尚父・尚書令・呉越国王を授け、王の子の銭伝瓘に検校太師兼中書令・充両浙節度観察留後を授けた。
  • 十一月、蘇州を中呉軍に昇格させ、常州・潤州などを領させた。この月、唐は鎮東軍節度・検校太保兼中書令・大彭郡侯である王の子の銭伝璙を中呉軍節度使とした。
  • この年、王は嘉興に開元府を置き、華亭・海塩の二県を割いて属させた。安国県の法華院を県の東北隅に移した。慈雲嶺を開き、西関の城郭を建てた。

寳大二年(925年)

  • 夏四月癸酉朔、日食があった。
  • 五月、王は孔雀二羽を唐に献じ、また使者の王浩を遣って端午の簟・扇、龍鳳紗紋の厨などをそれぞれ貢いだ。
  • 秋八月、唐は吏部侍郎の李徳休らに命じて王に黄金の印と玉冊を賜り、あわせて紅袍の御服一副および身に着ける礼物・衣冠・剣などを賜った。印文は「呉越国王之印」である。
  • 冊文は同光三年八月二十七日付で、王者が人民を恵み四方を安んじるには名器を重んじ股肱を任じ、忠にして力ある者を礼をもって崇め、労に応じた賞を失わなければ人は励むと述べ、周公の土宇を啓き漢祖の膏腴を列ねた故事にならい、その大功を録して異例の待遇を与えるという。銭鏐は海に朝する霊源、天を承ける峻岳のごとく、英風で徳望を彰し勇気で忠貞を助け、義挙に加わって韜略を推され封を襲ぐ功を著し、藩維に高く歩んで魚鯤鳥鳳の姿と虎水龍の衆を擁し、一方の任に将たること五十年、良風を導き凶徒を除き、堅を摧き鋭を奮って国境を固める謀は許遠にも劣らず、俗を豊かにし条を頒つ政は冀北の安居の頌にも広い。浙江の要害に壕を巡らし、星紀の地に雲を滋し、礼を説き詩を敦くして元帥の位に崇く、前茅後勁の名は中軍に重い。画一の規を守り在三の節を奉じ、信は風雨にも移らず、義は道の険しさにも倦まず、珍を献じるには険難を顧みず、幣を薦めるには常に宰府に帰す。英謨を振るって右弼に端し、懿号を鍾めて列藩に異なる。職貢は絶えず梯航は時に至り、天子を翼戴して恭を加えるものである。そこで正議大夫・守尚書吏部侍郎・上柱国・賛皇県開国男の李徳休を使、朝議郎・守起居郎・充史館修撰の聶璵を副使として、節を持し礼を備え土を胙し茅を苴んで呉越国王に冊する、という。さらに、封地は数圻、賦は千乗を過ぎ、闔閭の境を墨守し勾践の封を軌囲する、子弟は才を量って序進し多く棨戟を分かち、土地は海に接して魚塩に限られぬ富強である、古の封建諸侯にも夾輔の礼にもこれ以上のものはない、と述べ、始終を慎み、位ゆえに驕らず欲によって法度を破るな、と戒めている。
  • このとき冊礼はすでに整い、竹冊と銅印も別に用意されていたが、唐主は「尚父は元老であり人臣として遇すべきでない。まして既に封建したのだから」と言って、特に格別の礼を加えた。
  • この月、王は玉冊・金券・詔書の三楼を衣錦軍に建てた。使者を遣って新羅・渤海の王を冊し、海中の諸国もみなその君長を封じた。
  • 冬十月、鎮海鎮東留後の王の子銭伝瓘と中呉軍節度使の王の子銭伝璙が、それぞれ唐に綿と綺千件および九経・書史四百二十三巻を貢いだ。また仏頭螺子青一、山螺子青十、婆薩石の蟹子四、空青四を貢いだ。
  • 十一月、唐は土客諸軍都指揮・検校太保兼鎮海軍節度副使である王の子銭伝球に、守検校太尉兼侍中・充静海軍節度使を授けた。
  • 閏十二月、王は沈瑫を遣り、玉冊を受けて呉越国王に封ぜられたことを呉に告げた。呉は国名が自国と同じであるとして書を受け取らず、国境ではわが使者や商旅を通すなと戒めた。
  • このころ秦望山に上清宮を建てた。二十余の巨石が自然に列を成しており、金洞門と名づけた。

寳正元年(926年)

  • 夏四月、王が病んで衣錦軍に赴き、子の銭伝瓘に監国を命じた。呉の徐温が使者を遣って見舞ったが、側近は会わぬよう勧めた。王は「徐温は名目上は見舞いだが、実はこちらを偵察するのだ」と言い、無理を押して出て会った。徐温は果たして兵を集めて襲おうとしていたが、王の病が癒えたと聞いて取りやめた。
  • 丙午、唐主李嗣源が即位し、甲寅に天成と改元した。
  • 秋七月庚寅、王は衣錦軍から帰った。
  • 九月、唐は王の子の銭伝瓘に食邑千戸・実封百戸を加え、また中呉軍節度使である王の子銭伝璙に開府儀同三司を授け食邑五百戸を加えた。
  • 冬十二月、唐は静海軍節度使である王の子銭伝球に開府儀同三司・食邑五百戸を授けた。
  • この年、大水があり中呉軍がとくにひどかった。水中に豆ほどの大きさの米が生じ、民はこれを取って食べた。

寳正二年(927年)

  • 春正月、唐王は名を亶と改めた。
  • 冬十一月、尚書の班某を通和使として高麗および後百済の甄萱のもとへ遣わした。当時、甄萱と高麗王が戦っていたためである。
  • この年、径山の僧景文が南山に佳気を望み、山頂に庵を結んだ。大理評事の兪寿がそこで山を捨てて寺とし、土を掘って金銅の仏像三体を得たので、宝林院と名づけた。王は玉岑山の北に恵因寺を建てた。
  • このころ柘湖と新涇塘を浚えて小官浦から海に通じさせた。また銭塘湖に葑草が繁茂したので、撩兵千人を置いて草を刈り泉を浚えさせた。

寳正三年(928年)

  • 春二月朔、日食があった。唐は監門衛上将軍の烏昭遇を遣って王に湯薬と国信を賜った。
  • 夏六月、大旱があり、蝗が日を覆って飛び、昼も暗くなり、家々の戸や衣・帳が蝗で埋まった。王は自ら都会堂で祭りを行うと、その夕べ大風が吹き、蝗は浙江に落ちて死んだ。
  • 秋八月、王は次子の銭伝瓘を後継に立てようとし、諸子を顧みて「各自の功を言え。功の多い者を立てる」と言った。銭伝懿・銭伝璙・銭伝璟はみな銭伝瓘を強く推した。そこで唐に奏して両鎮を銭伝瓘に授けることを請うた。
  • 閏八月、唐は詔して銭伝瓘を鎮海・鎮東両軍節度使とした。王は袁韜を遣って唐に白金五千両・茶二万七千斤を進め謝恩した。
  • この月、王は上虞県の舜井を浚えさせ、讖記や宝物・重華石などを得た。

寳正四年(929年)

  • 春二月、唐は王の子の銭伝瓘に杭越等州大都督長史を授け食邑・実封を加え、中呉軍節度使の銭伝璙に食邑五百戸・実封百戸を加え、静海軍節度使の銭伝球に中書令を兼ねさせ、他はもとのままとした。
  • 秋七月、台州が大水に見舞われ、軍儲三十万斛を請うた。
  • 八月、唐は烏昭遇に自尽を命じた。それ以前、烏昭遇が使いに来たとき、供奉官の韓玫と不和であった。烏昭遇はいつも国事をわが方に私的に伝え、王に会うたびに拝舞して臣と称し、王を殿下と呼んだ。韓玫は帰国してその件をつぶさに述べた。また王はかつて枢密使の安重誨に「呉越王、某官執事に書を致す」と書き送っており、その辞が甚だ傲慢であったうえ、安重誨の多くの要求も通らなかったので、安重誨は恨みを抱いていた。そこで烏昭遇が使臣の礼を失したと奏し、この処分となり、あわせて王を大不敬と誣告した。
  • 九月癸巳、唐主は詔して王を太師のまま致仕させ、そのほかの王爵と尚父の号をすべて削り、進奏の官や使者、綱吏はその所在地で拘束させた。王は子の銭伝瓘に上表して冤を訴えさせたが、取り上げられなかった。
  • この年、各地で地震があり、家屋が壊れた住民もあった。東府に天王院を建てた(もと董昌の生祠で、王が夢によって建てたものである)。

寳正五年(930年)

  • 春二月、唐は長興と改元した。
  • 夏六月朔、日食があった。
  • 冬十月、王は唐が閩王を冊立した使者の裴羽が帰るのに託して、上表して自らの過ちを詫びた。王の子の銭伝瓘らも人を遣って絹に書いた表を持たせ、間道から実情を申し述べさせた。
  • 癸卯、唐は勅して両浙の綱吏の自由な往来を許した。
  • この年、台州の楽安県を永安と改めた。

寳正六年(931年)

  • 春三月、唐は監門衛上将軍の張籛と兵部郎中の盧重を遣って王に国信と湯薬を賜り、致仕を解いて元帥・尚書令・国王をもとのとおりに復し、従前どおり名を記さぬこととし、あわせて安重誨の誣告の罪を示した。勅文は、王が久しく王公に列し常に忠愛を捧げ、朝廷も元老を礼遇し遠方に恩を及ぼしてきたのに、安重誨が瑕疵をつなぎ合わせて突然関係を断ち、銭伝瓘に闕下で上章して罪を請わせるに至らせた、その言葉は激切であり事は虚構に基づくもので、情も恕せず罪も逃れられぬ、すでに誅してその冤を雪いだ、と述べるものであった。
  • 秋七月、象が信安の境に入ったので、王は兵士に捕らえさせ、囲いを作って飼育させた。
  • 冬十一月、防風山の霊徳王廟の改修が成り、王は勅して廟記を撰した。
  • この年、巨石山を寿星宝石山に封じた。山の高さ六十三丈、周囲十三里である。中興寺の戒壇院の井戸を浚えた。
  • このとき王は衢州の龍丘県を龍游と改めた。丘が墓を意味するのを不吉として忌んだのである。また須江県を江山と改めた。

長興三年(932年)

  • 春正月、唐は楚州を順化軍に昇格させ、王の子で明州刺史の銭伝珦に節度使を領させた。
  • 二月、唐は吏部侍郎の盧詹と刑部郎中の楊薫を遣って王に国信・湯薬などを賜った。
  • 三月己酉の夜、大雪となった。王は病床に就き、将吏に「わしの病はもう治らぬ。子らは愚かで後事を託すに足らぬ。わしが死んだら諸君で選ぶがよい」と言った。将たちは皆涙を流し「両鎮の令公(銭伝瓘)は仁孝で功もある。誰が敬い戴かぬことがありましょう」と答えた。王はそこで印と鍵をすべて出して銭伝瓘に授け、「諸将がお前を許した」と言い、さらに「子孫はよく中国に仕え、姓が易わったからといって大に事える礼を廃してはならぬ」と諭した。
  • 庚戌、王が薨じた。享年八十一、在位四十一年。唐主は訃報を聞いて七日間朝を廃し、詔して「天下兵馬大元帥・尚書令・呉越国王の銭(名は記さず)は本朝の元老、当代の勲賢であり、位はすでに人臣を極め、名はもとより簡冊に高い。贈るべき官爵もなく、名を易えて優崇を示すべきである」として、担当官に諡を定めさせ「武粛」とした。王の礼をもって葬らせ、工部侍郎の楊凝式に碑文を作らせた。
  • 夏四月庚午、霊柩を衣錦軍に殯した。

応順元年(934年)と廟の建立

  • 春正月壬午、安国県衣錦郷の茅山の原に葬った。この年、東府に廟を建てた。二年を経て真影を廟に納めた。

武肅王の人物と治世

  • 王は四朝に歴仕し、定乱安国啓聖昌運同徳守道翊戴功臣・天下兵馬都元帥・開府儀同三司・尚父・尚書令兼中書令・上柱国・呉越国王の号を重ねて加えられ、剣を帯び履のまま殿に上ることと詔書に名を記さぬことを許された。功臣や諸子で節度を領する者は、いずれもまず王が任命してから朝廷に命を請う形であった。
  • 王は日常生活で倹約を旨とし、衣や夜具には粗い布を交え、常の食事には磁器と漆器だけを用いた。寝所の帳が破れたとき、恭穆夫人が青絹に取り替えようとしたが許さなかった。
  • 毎年の大晦日には子孫を集めて琴を弾かせたが、数曲も終わらぬうちにやめさせ、「聞く者は私が夜通し飲んでいると思うだろう」と言った。
  • 若いころ軍中にあって夜も寝ないことが多く、疲れ果てると丸太の小さな枕や大きな鈴を枕にして眠り、寝返れば傾いて目が覚めるようにした。これを「警枕」と名づけた。寝所には粉盤を置き、思いついたことは盤に書きつけた。また時折、銅の丸を楼の壁の外へ弾いて夜番の者を警めた。ある夜、微行して北の城門を叩くと、門番が「大王が来られても開けられません」と言って開けなかった。翌日、王はその吏を召して厚く賞した。
  • 少し暇があると子や孫に詩賦を朗誦させ、自作の詩を丞相や将吏に賜ることもあった。書もいくらか能くし、墨竹を描いたが、そうした細事のために政務をおろそかにすることはなかった。ある者が李頻の「ただ五字の句のために一生の心を使い果たす」という詩を王の前で述べたとき、王は「その心をどこにでも使えようものを、詩句のために使い果たすとは惜しいことだ」と言い、議論を重ねてしばしば夜を明かした。
  • 後晋の天福年間、近侍の李詠が契丹の駅を監したとき、そこの判官が「武粛王はいつも夜眠らなかった」と言った。李詠がなぜ知っているのかと問うと、「五台の王子太師から、浙中の眠らぬ龍が今はもう帰ったと聞いた」と答えた。その伝聞の時期は壬辰の年(932年)の後であった。
  • 王は幼いころから度量が大きく志気は雄偉で、機略は深遠であり、人中にあっても神采に余裕があった。家庭では人の子としての礼を尽くし、その純孝は天性から出ていた。建国後、春秋の祭祀のたびに嗚咽して涙を流し、「今日の栄華は積善の致すところだ。ただ祖母に見せられぬのが心残りだ」と言った。
  • このころ中原が乱れ、西川の王氏は蜀、広陵の楊氏は呉、南海の劉氏は漢、長溪の王氏は閩と称し、いずれも大号を僭称した。姻戚を通じ聘問を交わす者もあって、みな龍衣と玉冊を勧め王に帝を称させようとしたが、王は笑って「あの子らは自ら炉炭の中に座り、さらに私をその上に据えようというのか」と言い、退けて受けなかった。それでも諸国の主は皆、王を父兄として遇した。
  • 王は人を見る眼に自信を持ち、賢を尊び士に下ること日々足らぬほどであった。居所を「握髪殿」と名づけたのは、周公が食を吐き髪を握って賢士を迎えた故事にちなむ。
  • また画工数十人を淞江に置いて「鸞手校尉」と呼び、北方から流れてくる者があれば皆その容貌を写して報告させ、清らかで福相の者を選んで用いた。胡岳が江を渡ってきたとき、画工がその姿を奏上すると、王は見て「顔に銀の光がある。奇士だ」と嘆じ、ただちに召し出した。
  • 幕客の羅隠はしきりに人を批評し、王の微賤時代のことにまで及んだが、王は平然として怒らなかったので、人はその寛大さを称えた。
  • 後宮に鄭姫という者がいて、その父が法に触れて死罪となったとき、側近は赦されることを期待して「この者には娘があり、王のお側に侍っております」と言った。王は「一婦人のために法を乱してよいものか」と言い、その娘を宮から出したうえで父を斬った。その公正で私しない例はほかにも多い。

史論

  • 欧陽脩の『五代史』は、銭氏には改元はあっても帝を称した事実はないとし、ただ落星石を封じた制書に「宝正六年辛卯」とあるのを一例として挙げるにすぎない。しかし宋末に臨安府で得られた呉越の尊勝幢には「天寳四年歳次辛未」とあり、これは朱梁が唐を簒奪した翌年の戊辰にすでに天寳と改元していたことを示す。
  • また霊隠の尊勝幢に「宝大二年歳次乙酉」、婺州観音院の鐘の刻に「宝大二年乙酉」とあり、朱府君の墓誌にも「宝大元年歳次甲申」とあるから、唐の同光二年が呉越では宝大元年に当たる。
  • 元の至正年間、海寧州で呉越の臣許俊の墓が発かれ、墓中に「宝正三年」と石に記されていた。招賢寺の幢や貢院橋の柱にも宝正の年月が題されており、例は枚挙にいとまがない。したがって武粛王が改元したことは断定できる。
  • ただし越州の墻隍廟碑は梁の勅を奉じて梁主の父の名を諱みつつ「開平二年歳在戊辰」と書き、杭州の真聖観碑も末尾に「開平二年八月」と署している。碑の建立が改元の月より前だったのか、あるいは武粛王が中原の正朔を遵守したり廃したり、表向きは用いながら内心では背いていたのか。
  • さらに台州の壁記には銭鎰の「天祐十九年」の紀年があり、瑪瑙水月寺の幢には「宝貞」という年号を記すものもある。記録の伝写に誤りが多く、結局明らかにはできない。ここでは大筋を挙げて呉越の改元の証としておく。