十国春秋卷七十六 楚十 列傳 何敬真

王逵に仕え、疑われて殺される

  • 何敬真(敬は一に景に作る)は武陵の人である。恭孝王に仕えて朗州歩軍指揮使となった。長沙の戦いでは楊柳橋に陣を列ね、韓礼の軍を進撃して功があった。王がすでに長沙を陥落させると、朗州牙内都指揮使に遷り、兵を率いて武陵を守った。まもなく王逵らとともに劉言を辰州に迎えた。言の帳下の指揮使は凡そ十人おり、親校とされたが、敬真もその一人であった。
  • ほどなく逵に従って潭州を克ち、逵は自ら武平節度副使・権知軍府事と称し、敬真を行軍司馬に任じた。唐の将、辺鎬を逐って首五百級を斬り、さらに功があって静江節度副使に除された。しばらくして、言は敬真を南面行営招討使に任じ、先鋒の朱全琇と潭州の兵を合わせて南漢を拒がせた。
  • 二人が長沙に至ると、逵は郊外に出て出迎え、互いに会って甚だ歓び、日々酒を飲んで高会を催し、妓女をもって餌とした。敬真は逵の誘いだとは知らず、そのまま留まって去らなかった。ところが先に発した朗州の将、李仲遷が兵三千人を率いて嶺北に赴いたところ、都頭の符会らは心中敬真を怨み、ついに仲遷を劫(おびやか)して逵のもとに帰った。
  • 逵はそこで敬真の酔いに乗じ、偽って言の使者を装って彼を械(かせ)をつけて獄中に繋ぎ、続いて斬った。時に後周の広順三年二月辛亥のことである。しばらくして全琇もまた殺されて死んだ。逵はその事を言に告げ、言はやむを得ず符会ら数人を誅してこれを言い訳とした。
  • これより先、逵が長沙に入ったとき、敬真と全琇はそれぞれ牙兵を置いて逵と堂を分けて政務を執っており、宴会のたびに酒に任せて紛争し、上下の分がなくなっていた。逵は心中これを恨んでいた。たまたま周行逢や張文表が逵に仕えて多く礼を尽くしていたため、逵はますます敬真と折り合わなくなった。敬真は辞して朗州に帰ったが、また言にも仕えることができなかった。言は逵を頗る疑い、敬真に自分を伺わせて逵を討とうとしていると考えていた。
  • 行逢はそこで逵に、早く敬真らを図る(除く)のが便利であると説いた。逵は言った。「ともに凶党を除き、潭・朗を同じく治めれば、いったい何を憂えることがあろうか。」これによって敬真を除く意はついに決まった。論者は、敬真の禍は実に行逢の一言に萌したのだという。