叛乱を起こし王逵に帰す
- 孫朗は、はじめ曹進とともに蒙城の鎮将咸師朗に従って南唐に降った。南唐はその兵を奉節都とし、朗・進を奉節指揮使に任じた。まもなく辺鎬に従って湖南を取った。行営料糧使の王紹顔がしばしば士卒の糧賜を減らしたので、朗と進は怒って言った。「昔われらは咸公に従って唐に降ったが、唐がわれらを遇するのは、どうして今日の湖南の将士の厚遇にかなおうか。今、功があっても禄を増さず、かえって減らすとは。紹顔を殺して辺鎬とともに楚の地に拠り、中原に抗するのがよい。富貴は図れるはずだ。」
- そこで広順二年正月、朗らはその徒を率いて乱を起こし、長沙の府門を攻めたが克てず、朗州に逃げて王逵のもとに帰した。逵は朗に問うて言った。「昔われは武穆王(馬殷)に従って淮南と戦い、しばしば勝った。淮南の兵は与しやすいものだ。今、武陵の衆をもって湖南を回復しようと思うが、できるだろうか。」
- 朗は言った。「先頃、金陵に居って唐の政を詳しく見たが、朝廷には賢臣がなく、軍には良将が少なく、忠と佞の別なく、賞罰も分明でない。一隅を保てれば幸いというもので、他人を兼ね取る暇などありましょうか。朗は公のために前駆となり、楚の地を取ることは芥(あくた)を拾うようなものです。」逵は大いに喜び、厚く礼遇した。
- この冬十月、潭州に軍を進め、すぐに朗・進を先鋒使とすると、辺鎬は果たして逃げ去った。