符彦通 — 谿峒に王を称した溆州の蛮帥
- 符彦通は溆州の蛮族の首領である。恭孝王(馬希萼)が諸蛮を率いて長沙を破ったとき、府庫に蓄えられていた累代の財宝はすべて符彦通の手に帰した。これによって富み強くなり、谿峒(渓谷の地)で王を称した。
- 劉言が辺鎬を攻めるにあたり符彦通を援軍に呼ぼうとしたが、周行逢が「蛮は貪欲で義を知らぬ。先年も馬希萼に従って潭州に入り、焼き討ちと掠奪をほしいままにした。今回は義兵であるから行けば必ず勝つ。彼らを用いる必要はない」と反対したので取りやめた。かわりに劉瑫を鎮遏使として、符彦通の侵犯に備えさせた。劉瑫はもと土団都指揮使で、蛮族がかねて恐れていた人物である。
- 翌年、王逵が湖南を手に入れると、使者を送って符彦通を懐柔しようとした。志願者を募ったところ、帳下の牙将王虔朗が檄を奉じて行くことを願い出た。
- 王虔朗が溆州に着くと、符彦通は多くの護衛を並べて会い、態度はきわめて傲慢であった。王虔朗は声を厲しくして責めた。「あなたは自ら符泰の子孫と称するからには礼義を知り、ほかの蛮族と違うはずだ。かつて馬氏が湖南にあったとき、あなたの祖父も父も北面して臣従した。いま王公が馬氏の地をことごとく得たのに、早く行って盟を請わず、使者を先に来させ、しかも礼をもって迎えない。後日、悔いることにならぬか」。
- 符彦通は恥じ恐れ、立って王虔朗の手を取って謝した。王虔朗は動かせると見て説いた。「谿峒の地は隋唐の時代にはみな州県として図籍に載っていた。いまあなたは上に天子の詔もなく、下に使府の命もないまま、山谷の間で安穏と王を称している。それでは蛮方の一部族長にすぎない。王号を捨てて王公に帰属すれば、王公は必ず天子に上奏してあなたに節度使を授けさせ、中国の諸侯と同列になれる。そのほうが尊く栄えあることではないか」。
- 符彦通は大いに喜び、その日のうちに王号を廃した。そして王虔朗に託して銅鼓数個を王逵に献じた。王逵は「王虔朗の一言は数万の兵に勝る。まことに国士だ」と言い、承制(天子の名代)として符彦通を黔中節度使に任じた。
- 顕徳年間(954-960年)、周行逢は鍾志存を溆州刺史に任じた。周行逢が死ぬと鍾志存は武陽に逃げ、溆州の蛮の楊正巖が十洞をもって徽州・誠州の二州を称した。この楊正巖の勢力は符彦通の諸部族だともいわれる。
何敬眞 — 王逵に謀殺された朗州の将
- 何敬真は武陵の人。恭孝王に仕えて朗州歩軍指揮使となり、長沙の戦いでは楊柳橋に陣を布いて韓礼の軍を攻め、功を立てた。
- 恭孝王が長沙を落とすと朗州牙内都指揮使に移り、兵を率いて武陵を守った。のち王逵らとともに劉言を辰州から迎えた。劉言の帳下には指揮使十人が親衛の将校としており、何敬真もその一人であった。
- まもなく王逵に従って潭州を攻め落とした。王逵は自ら武平節度副使・権知軍府事と称し、何敬真を行軍司馬に任じた。南唐の将辺鎬を追い出し、五百級の首を挙げる功を立て、静江節度副使に任じられた。
- しばらくして劉言は何敬真を南面行営招討使に任じ、先鋒の朱全琇とともに潭州の兵と合流して南漢に当たらせた。二人が長沙に着くと、王逵は郊外まで出迎えて歓待し、連日酒宴を張り妓女をあてがった。何敬真は王逵に誘い込まれていることを知らず、長逗留して去らなかった。
- 先に出発していた朗州の将李仲遷は三千の兵を率いて嶺北へ向かっていたが、都頭の符会らが何敬真を恨んでおり、李仲遷を脅して引き返させた。王逵はこれに乗じ、何敬真が酔ったところで劉言の使者と偽って捕らえ縛り、獄に繋いですぐ斬った。後周の広順三年二月辛亥(953年)のことである。
- しばらくして朱全琇も殺された。王逵はその件を劉言に告げ、劉言はやむなく符会ら数人を誅して事を収めた。
- そもそも王逵が長沙に入ったとき、何敬真と朱全琇はそれぞれ牙兵を置き、王逵と堂を分けて政務を執っていた。宴席のたびに酒に乱れて争い、上下の別もなくなっていたので、王逵は内心これを憎んでいた。一方、周行逢と張文表は王逵に礼を尽くしていたため、王逵はますます何敬真と折り合わなくなった。
- 何敬真が朗州に帰ってからは劉言にも仕えきれず、劉言のほうも王逵が何敬真に自分を偵察させているのではないかと疑い、王逵を討とうとした。周行逢はこれを利用して王逵に、早く何敬真らを除くのが得策だと説いた。王逵は「ともに凶党を除き、潭州と朗州をともに治めれば、何の憂いがあろう」と言い、何敬真殺害の意を固めた。何敬真の禍はもとをたどれば周行逢の一言に発したものだと論じる者がある。
孫朗 — 南唐から離反して王逵に走る
- 孫朗ははじめ曹進とともに蒙城鎮将の咸師朗に従って南唐に降った。南唐はその兵を奉節都として、孫朗と曹進を奉節指揮使に任じた。
- まもなく辺鎬に従って湖南を取ったが、行営料糧使の王紹顔が兵士の糧食・恩賞を多く削ったため、孫朗と曹進は怒った。「かつて咸公に従って唐に降ったとき、唐が我らを遇したのは、今の湖南の将士への厚遇に及ばぬ。功があっても俸禄を増やすどころか減らすとは。いっそ王紹顔と辺鎬を殺し、楚の地に拠って中原に抗すれば富貴も望める」。
- 広順二年正月(952年)、孫朗らは手下を率いて反乱を起こし長沙の府門を攻めたが落とせず、朗州へ逃れて王逵に帰属した。
- 王逵は孫朗に尋ねた。「昔わしは武穆王に従って淮南と戦い、しばしば勝った。淮南の兵は与しやすい。いま武陵の兵で湖南を回復できるだろうか」。孫朗は答えた。「先ごろ金陵にいて唐の政治をつぶさに見たが、朝廷に賢臣なく、軍に良将なく、忠と佞の区別もつかず、賞罰も定まらない。一隅を保てれば幸いというところで、人を併呑する余裕などない。私が公の前駆となれば、楚の地を取るのは芥を拾うようなものです」。
- 王逵は大いに喜び、手厚く遇した。その冬十月、潭州へ軍を進めるにあたって孫朗と曹進を先鋒使とすると、辺鎬は果たして逃げ去った。
張倣 — 姻戚の縁を疑われて殺される
- 張倣は出身地が不明。諸軍指揮使から身を起こし、王逵らとともに恭孝王の甥の馬光恵を朗州に立て、ともに軍府の政務に参与した。のち劉言が指揮使十人を置いて親軍と号したとき、張倣もその一人であった。まもなく武平節度副使に昇った。
- 王逵が何敬真と朱全琇を殺したとき、とりわけ張倣の威勇を恐れた。周行逢はその機に乗じて王逵に言った。「何敬真は張倣の姻戚であり、刑に臨んで後事を張倣に託した。蜂や蠍にも毒がある。侮ってはなりません。備えるべきです」。
- 王逵は広順三年四月庚申(953年)、張倣を招いて酔わせ、そのまま殺した。
張文表 — 潭州を襲い平津亭に敗死
- 張文表は朗州の人。周行逢・潘叔嗣とともに劉言の麾下に属し、累進して衡州刺史となった。
- 周行逢は臨終に「文表は必ず叛く。討てる者は楊師璠だ」と遺言した。張文表は周行逢の死を聞くと、はたして怒って言った。「わしは行逢とともに賤しい身から起こって功名を立てた。いまさら小僧に北面して仕えられるか」。
- おりしも周保権が永州の守備に兵を送ろうとしたので、張文表はその兵を駆り立てて潭州を襲った。留後を代行していた廖簡は張文表を侮って備えず、「小僧が来たら捕らえるまで、何を憂えることがある」と軍吏に言い、太鼓を打たせ酒を飲んで平然としていた。
- 張文表がまっすぐ府中に踏み込むと廖簡は殺され、その席にいた者も十数人が殺された。こうして張文表は長沙を占拠し、さらに朗陵をも取ろうとした。
- 周保権はまだ幼かったが、叛乱を聞いて「亡き父はまことに人を見抜いていた。私は懦弱でも、軍国を賊の手に渡すわけにはいかぬ」と嘆じ、ただちに楊師璠に一万の兵を率いて討たせた。
- 出発に際し、周保権は涙を拭って三軍に呼びかけた。「亡き令公の墳の土もまだ乾かぬうちに凶賊が逆らったのは、保権が不孝であるためだ。あえて諸君を労させる。諸君が令公の恩を忘れていないなら、力を合わせてこの賊を滅ぼし、地下の令公に報いてほしい」。その言葉は激しく気迫に満ち、義の心が面にあらわれ、軍中に感涙しない者はなかった。楊師璠も泣いて左右を顧み、「若君を見たか。まだ成人もせぬのにこれほど賢い」と言った。将兵は奮い立ち、みな力を尽くそうと思った。
- 十日と経たぬうちに平津亭で張文表を大破し、その肉を切り分けて食らい、残党もことごとく平定した。
- はじめ張文表が叛こうとして迷っていたころ、従者が夜に、張文表の顎に龍が巻きついている夢を見た。張文表は大喜びして「これは天命だ」と言い、挙兵を決意した。敗れたのち、識者は「龍は神物であり、それが顎に現れたのは、禍が起ころうとして神が去る前兆であった」と評した。張文表が滅び、周氏もまた続いて滅んだ。
僧居遁 — 龍牙山の禅僧
- 僧居遁は字を証空といい、撫州の人。若くして翠微に参じ、また臨済に問い、さらに洞山に赴いて良价禅師に教えを正した。
- ある日「祖師西来意」を問うと、良价は「洞水が逆流するときに答えよう」と言った。居遁はここで大いに悟った。
- 久しくして武穆王に招かれ、潭州の龍牙山に住して大いに宗風を宣揚した。示寂のとき、大きな星が方丈の前に落ちたという。
僧洪道 — 山中に隠れた高僧
- 僧洪道は出身が不明。内外の諸典籍に通じ、道行はことに高く、時の人に重んじられた。天福年間(936-944年)、衡州石羊鎮の山谷に住んでいた。
- 文昭王がその名を聞き、報慈寺の住持として招いたが応じなかった。王は何としても招こうと、使者が道に絶えないほど遣わした。
- 洪道は弟子たちを率いて深山へ移り住んだが、そのとき多くの鳥が鳴き交わして付き従ったため、人々はその声を頼りに居所を突き止めた。人々は再拝して言った。「大王は師にお会いしたいと願っておられます。いま召しに応じず巌谷に隠れられるのは和尚にとっては得策でも、符檄が次々と下って百姓が騒がされるのはいかがなものでしょう」。洪道はうなずき、「お前たちのために行こう」と言った。
- 府に着くと王は国師の礼で遇した。久しくして固く山に帰ることを願い、その後の消息は分からない。
- はじめ洪道が山に入ったとき、虎がうずくまって二匹の子に乳をやっていた。弟子たちは大いに驚いたが、洪道は「恐れるな、あれは自ら移って行く」と呪を唱えた。言い終わると虎は二匹の子をくわえて立ち去った。
報慈長老 — 文昭王の寿命を予言
- 報慈長老は姓名が伝わらない。もとより道行があり、禅定に入って人の吉凶を見通すことができた。
- 文昭王が「自分は富貴において思い残すことはない。ただ寿命だけが分からぬ」と尋ねると、長老は「大王、ご心配には及びません。仏と同じ年齢まで生きられます」と答えた。王が薨じたのは、まさに四十九歳のときであった。
僧虚中 — 詩僧として司空図にも重んじられる
- 僧虚中は宜春の人。瀟湘の山に遊び、僧の斉已・尚顔・栖蟾らと詩友となった。
- のち湘西の栗成寺に住み、王子の馬希振と深く親しんだ。馬希振は虚中を迎えて詩閣に住まわせた。虚中は火を焚くのを好み、煙で閣の彩色がしばしば燻されたが、馬希振は塗り直すばかりで気にもかけなかった。虚中が馬希振の池亭に題した詩には佳句が多く、馬希振は大いに称賛した。
- また時おり司空図に詩を贈り、司空図もこれを重んじた。『碧雲詩』一巻を著して世に伝わる。
- 同じころ湘南の僧文喜と乾康も詩名があり、文喜の鶴を失った詩、乾康の雪を詠じた詩は、いずれも湖南で広く伝誦された。
至聰禪師 — 数十年の戒行の果て
- 至聡禅師は出自が分からない。祝融峯に住んで数十年清らかに修行し、戒行も十分に備わって大いに得るところがあった。
- ある日、衡山を下りて紅蓮という女子を見かけ、長く見つめて心を動かし、その家に泊まった。翌朝、衣をまとって起き、沐浴してその女子とともに化した。人々はみな不思議に思った。
彭幼謙 — 百四十余歳と称した方士
- 彭幼謙は湘陰の人。寒暑を問わず羽衣一枚で通した。
- 文昭王のとき、みずから丹壇と丹竈を修めて大薬一丸を得てこれを服し、百四十余歳を経たと語った。のち行方は知れない。
伊用昌 — 木の獺で魚を捕る道士
- 伊用昌は南嶽の道士で、不思議な術を持っていた。
- 学士の廖匡図の母が病んで魚のなますを食べたがったが、折しも川が増水して魚が手に入らなかった。伊用昌は懐から三寸ほどの木の獺を取り出して川に投げ入れた。たちまち波が沸き立ち、大魚を一尾捕らえて出てきた。これでなますを作って食べさせると、廖匡図の母の病はまもなく癒えた。