十国春秋卷七十五 楚九 列傳 李觀象

宋への降伏を勧める

  • 李観象は桂林の人である。初め劉言に事えて掌書記となった。この時、恭孝王の弟希崇が王を衡山に幽閉すると、言は兵を遣わして潭州に趣き、その簒奪の罪を討とうとした。観象は言に説いて言った、「希萼の旧将はなお長沙に在ります。これは必ず公と隣り合うことを欲しないでしょう。まず希崇に檄してその首を取らせ、しかる後に潭州を図るのが、坐してこれを得られる道ではないでしょうか」。言はその計に従った。そこで希崇は楊仲敏らの首を軍前に送り、言はすでに駸駸として湖南を得る勢いとなった。
  • 言が死ぬと、また周行逢に事えて節度副使となった。行逢は性が厳酷で、禍が及ぶことを懼れ、そこで偽って楮(紙)の幕に寝、楮の被(ふすま)に臥して行逢の心を結ぼうとした。行逢は果たしてこれを信用した。およそ軍府の事は軽重となく皆彼に取り決めさせた。病が革(あらた)まった時、子の保権に命じて師の礼を以て事えさせた。
  • まもなく張文表の乱が起こり、文表は滅んだが、宋の軍は引き続き至って止まらなかった。保権は観象を召してこれを議した。観象は言った、「そもそも師を請うたのは文表を討つためでした。文表はすでに破れましたのに、師は還りません。これはどうして朝廷がまさに南土に事を起こそうとしているのではないでしょうか。我が国が恃みとするところは江陵が北境にあることだけです。今、江陵はすでに束手(無抵抗)で自ら救うことができません。これに相拒もうとするのは、いわゆる魚が沸く鼎に入りながら、さらに鬣(ひれ)を鼓し尾を掉るようなもので、免れることができましょうか。ただ公はよくこれを図られ、子孫万世の利を失わないようにしてください」。保権はやむを得ず、そこで郊外に出て宋の太祖を迎えた。太祖は観象の勧降の功を嘉して、大いに超擢した。
  • 観象は才略に富んでいたが、性格は嫉忌が多く、人の善を蔽い隠すことを好んだ。零陵の儒士蔣密は吟詠を喜び、風騒(詩経・楚辞)の旨を得ていた。かつて桑を題して「綺羅は片葉に因り、桃李は漫(そぞろ)に同時なり」と詠み、作者に許された。観象はこれを聞いて謬(いつわ)って驚いて言った、「これは私の詩である。密にどうしてこれができようか」。士林はこれを以て彼を薄んじた。