十国春秋卷七十五 楚九 列傳 孟賓于

詩才と不潔な操行

  • 孟賓于、字は国儀、連州の人である。若くして孤児となり、学に力めて母に孝を尽くすことで聞こえた。折しも中朝の工部侍郎李若虚が湖南に来ると、賓于は詩数百章を「金鼇集」と名づけてこれを献じた。若虚は善しと称え、朝廷に誉め伝えた。これにより声名はますます振るった。晋の天福中、進士第に登った。まもなく離乱により郷里に帰った。折しも文昭王が府を開くと、辟されて零陵従事となったが、また顕用されなかった。
  • 恭孝王が金陵に入るに及び、賓于は自ら南唐に帰し、豊城簿を授けられ、塗陽令に遷った。賄賂を貪ったことに座して死罪に論ぜられた。時に宋の翰林学士李昉は賓于と同年の進士であり、彼に詩を遺った。唐の後主はその詩を見て死を貸し、その官を復した。まもなく致仕し、玉笥山に隠れて自ら「群玉峯叟」と号した。年を踰えて水部員外郎を以て金陵平定の後に官を起こし、連州に帰って老い、年八十七にして卒した。文集一巻がある。
  • 賓于は詩才を負い、後進を奨拔することを喜んだので、士林の多くはこれを慕った。しかし操行は頗る不潔で、世に譏られた。当初、江南に帰って一子をもうけ、名を「帰唐」といい、これもまた詩に巧みであった。廬山国学に肄業(学修)していたところ、隣室の生徒と同じ佳句を得て、ついに江州で訴え合った。宋の開宝の時、累進して大理丞に至った。時の人はなお彼を指して「これぞ詩を訟えた生(学生)である」と言った。