十国春秋卷七十三 楚七 列傳 廖匡圖

天策府学士(弟匡齊は溪州の乱に殉じる)

  • 廖匡圖は、䖍州䖍化の人である。父の爽は鎮南軍留後の盧延昌に仕えて将となり、延昌は梁に表奏して爽に韶州刺史を授けさせた。武穆王の時、広南に攻められ、一族を挙げて来奔した。従ってきた部曲は数千人に及んだ。
  • 王はその一族が豪族であり衆が多いことから、拒んで受け入れまいとしたが、ある者が諫めて言った。「廖とは料(飼い葉)の意味です。馬は料を得れば必ず肥えます。これは家国が強く覇たる兆しです。どうして拒む必要がありましょうか」。王はそこで恩礼を以て遇し、爽を表して永州刺史とした。
  • 匡圖はもとより若くして文辞に巧みで、江南観察判官を授けられた。文昭王の時、選ばれて天策府学士となり、徐仲雅・李𢎞臯らとともに十八人の列に同座した。数年在って官にて卒した。文集一巻がある。
  • 匡圖の弟の匡齊は功を以て決勝指揮使に署せられた。折しも溪州蛮が乱を起こすと、匡齊は戦って死んだ。文昭王はその母を弔わせたが、母は哭かず、使者に向かって言った。「廖氏一族三百人は王の温飽の賜物を受けております。一族を挙げて死に効しても、なお報いるには足りません。まして一子だけであればなおさらです。どうか王には気に留められませんように」。文昭王は母を賢者とし、厚くその家を恤(あわ)れんだ。

史論

  • 論じて言う。拓跋恒は逆鱗に触れることを恐れず切に諫め、古の遺直(遺されし正直の士)に恥じない。仲雅は志を秉って屈せず、ついに始めから終わりまで全うした。勍の溪州の役は伏波(後漢の馬援)に譲ることなく、銅柱に銘を勒したのは盛んなことである。少敵の嗣位についての議論は利害が瞭然としており、綽々としてその父の風がある。廖氏一家のごときは彬彬として文武を兼ね、あるいはその身を文昭のために殉じ、ほとんど栄えある処遇を得たと言えよう。