嗣位を巡る諫言
- 張少敵は、永順節度使の佶の子である。文昭王の時、都指揮使の官にあり、袁友恭とともに王に親しく信任された。安州の李金全、襄州の安從進が叛くと、晋の高祖は王に出兵を詔した。王は少敵に舟兵を率いて漢陽に趨かせ、米五万斛を漕して軍に饋(おく)らせた。金全らが敗れると、少敵はそのまま帰還した。
- まもなく文昭王が世を去り、将吏が誰を立てるべきか議論した。この時、恭孝王(希萼)は永州事を知っており、諸弟の中で年齢が最も長かった。少敵はこれを迎えるよう請うたが、劉彦瑫・李𢎞臯らはあくまで天策府都尉の希廣を立てようとし、しかも「都尉こそ嫡嗣であり、位を襲うべきである」と言った。
- 少敵は言った。「国家の大事は一つの道理に拘るべきものではない。変じてよく通じてこそ、久しきを持することができる。嫡庶などどうして論ずるに足ろうか。永州(希萼)は年長でしかも性格が剛強であり、必ず都尉の下に甘んじることはあるまい。それは明らかである。しかも武陵の九溪蛮と往来して意気投合しているから、必ず蛮軍を引き入れて乱を起こすであろう。もし都尉を奉ずるなら、長策を思案して永州を制し、帖然として動かぬようにしなければならない。そうでなければ社稷は危うくなるであろう」。
- 彦瑫らはこれに従うことができなかった。少敵は退いて言った。「禍いはここから始まるのではないか」。そして病と称して出仕しなかった。