十国春秋卷七十三 楚七 列傳 龎巨昭

容州から楚へ帰順

  • 龎巨昭は、もと唐末の邕・容等州防禦使で、累進して寧逺節度使となった。開平の末、南平王劉隱が弟の劉陟を遣わして容州を攻めさせたが、巨昭はこれを力戦して拒み、囲みを解かせることができた。そこで小吏を間道に遣わして武穆王に款を納れた。
  • 王は澧州刺史の姚彦章に命じ、馬歩軍八千人を率いてこれを迎えさせた。この時、容南指揮使の莫彦昭が巨昭に説いて言った。「湖南の兵は遠くから来て疲弊しているので、城を棄てて山谷に潜みこれを待つべきです。彼らが城に入ったところを、我らが全軍でその不備を襲えば、楚将を生け捕りにできましょう」。
  • 巨昭は言った。「私は真夜中に独り気象を占ったが、馬氏は合わせて五十余年、湖外に覇を興すであろう。今たとえ勝ったとしても、後には必ず仇讎となる。むしろ牛酒を用意してこれを迎える方が良い」。彦昭はこれに従わなかった。その夜、巨昭は彦昭を私邸で斬り、以て降った。
  • 彦章は高州に至ると、兵を遣わして巨昭の一族と士卒千人を護衛させ、長沙に帰した。巨昭は星緯の学に長じており、ある人が湖南・淮南の国祚の長短を問うと、巨昭は言った。「今より以後、馬氏はまさに五主を、楊氏はまさに三主を経るであろう」。これは童謡から得たものだという。後にはみなその言葉の通りになった。

史論

  • 論じて言う。彭玕は呉を捨てて楚に奔り、国の姻戚となった。これはまことに天意の存するところがあったのであろう。世旻は城に殉じて屈せず、玕と比べれば異なるが、防衛の功はまた多とするに足るものであるようだ。昌魯・巨昭は去就を断然として、よくその主を選んだ。あるいはいわゆる「廃を知り興を知る」者ではないか。