十国春秋卷七十二 楚六 列傳 王環

王環

  • 王環は人となり勇猛果敢で兵法に長け、武穆王に従ってたびたび征討し功があった。乾化年間、岳州都指揮使を授けられた。
  • 当時、刺史の許徳勲が水軍を率いて辺境を巡回していたが、夜半、南風が急に起こると、環はその風に乗って黄州に赴き、縄で城壁を登り、まっすぐ州の役所に走り、呉の刺史である馬鄴を捕らえ、大いに掠奪して帰った。徳勲は言った、「鄂州が我々を邀撃してくるかもしれないが、どうする」。環は言った、「我が軍が黄州に入ったことを鄂州の人はまだ知りません。その城を突然に通り過ぎれば、彼らは自分を救うのに手一杯で、我々を邀撃する余裕などありません」。そこで旗を広げ太鼓を鳴らし帆を揚げて大いに進むと、鄂州の人はまったく思いがけなかったため、果たして怯え騒いで敢えて迫らなかった。
  • 天成三年(928年)、六軍副使に改められ、荆南と劉郎洑で戦い、荆南は大敗して和を請うた。武穆王は環がすぐに荆南を取らなかったことを咎めたが、環は言った、「江陵は中朝と呉・蜀の間にあり、四方から攻められる地です。存続させて我らの防壁とするのがよろしく、どうして一時の快さのために自ら唇歯(相互扶助)の形勢を失ってよいでしょうか」。王はこれを時勢を識る者として大いに喜んだ。
  • 環は前後合わせて六度呉の兵を破り、二度荆南の兵を破り、その名声は一時に轟いた。環は戦うたびに士卒の先頭に立ち、衆と苦楽を共にした。常に鍼薬を左右に置き、戦いが終わると帳の前で負傷者を探し求め、自ら手当てをした。麾下に属する士卒は互いに祝って言った、「我々は死に場所を得た」と。それゆえ向かう所すべて勝利を収めた。数年経たずして卒した。子の贇には伝がある。