十国春秋卷七十二 楚六 列傳 高郁

要約

高郁は揚州の人で、乾寧の初め武穆王馬殷の湖南留後就任に際し謀主として都軍判官に迎えられた。淮南・荆南・広南への金帛による懐柔策を退け、朝廷への恭順と富国強兵によって覇業を修めるべきだと説いてこれを実現させ、京師の要地に茶の商館を設けて専売の利を得、湖南に鉛鉄銭を鋳造して域外への品物流出を促し、養蚕・機織を奨励するなど、楚の経済的繁栄を築いた最大の功臣であった。武穆王の力が充実し諸鎮と対抗できるようになったのは郁の計略によるところが大きかったが、その功を妬む者も多かった。唐の荘宗や南平王季昌が「馬氏はいずれ郁に国を奪われる」との流言を放ち、これを信じた衡陽王希聲が郁を除くよう武穆王に強く迫った。郁は行軍司馬に左遷され、怒って漏らした言葉が仇となって、天成四年に王命を偽って誅殺され、一族党与も殺された。武穆王は郁の死を知らず大霧の異変に胸騒ぎを覚え、事後にこれを知って胸を叩いて深く嘆いた。郁は才知に富む一方でかなりの貪欲さもあり、それが妬みを招く隙となったとも伝えられる。史臣は、国を富ませた古の輔弼の臣にも比すべき功臣が理不尽に殺されたことを、鳥尽きて弓蔵まるるの喩えとして深く痛惜している。

現代語訳全文

高郁

  • 高郁は揚州の人。聡明で計略に富んでいた。乾寧の初め、武穆王が湖南留後となると、郁を謀主として都軍判官に任じ、心の通じ合う間柄であった。
  • 王ははじめ淮南・荆南・広南の強大さを畏れ、金帛でこれと結ぼうと議したが、郁は言った、「成汭は地が狭く兵が少なく、我々の憂いとするに足りません。劉龑(劉巖)の志は五管にあるだけです。楊行密は公の仇敵ですから、たとえ万金で賂を送ってもその歓心を得ることはできません。上は天子を奉じ、下は士民を撫し、兵を訓練し武器を鍛えて覇業を修めるのに越したことはありません。そうすれば誰が我らの敵になり得ましょうか」。そこで王ははじめて京師へ貢を修め、四方の境は安定した。
  • 開平の頃、郁はさらに王に勧めて、京都から襄・唐・郢・復などの州にまで遍く邸務(茶の商館)を置かせ、茶を売って利益は十倍近くにも上った。また民に自ら茶を作らせて商旅と通じさせ、その税を徴収したので、年間の収入は万万を数えるほどになった。
  • 郁はまた密かに考えるに、湖南は商旅が輻輳する地であり、地に鉛や鉄が多い。そこで王に鉛鉄銭を鋳造させ銅銭と併用させることを進言した。商旅が国境を出れば鉛鉄銭は使い道がなく、ことごとく他の品物に換えてから去るので、あらゆる品物が流通し国は日ましに豊かになった。さらに税を納める民には帛を銭の代わりに用いさせることを命じた。湖南の民は元来養蚕・桑作を習わなかったが、これに至って機織りがついに呉・越に匹敵するようになった。武穆王の領地が大きく力が充実し、封爵を得て諸鎮と対抗できるようになったのは、郁の計略によるところが多かった。しかし内外で郁の功を妬む者もまた、みな彼を恨みに思うようになっていた。
  • これより先、唐の荘宗が洛陽に入った際、武穆王は子の文昭王を派遣して入貢させた。荘宗はその機敏さを愛し、わざと言った、「近頃聞くところでは、馬氏はいずれ高郁に国を奪われるという。このような子がいるのに、郁がどうしてそれを得られようか」。南平王の季昌もたびたび流言を作って郁を離間しようとしたが、うまくいかなかった。そこで衡陽王希声に書を寄せ、郁の功名を盛んに称え、兄弟になりたいと願った。これは衡陽王が当時、節度副使として実権を握っていたためである。さらに間諜に語らせて言わせた、「高公は楚が郁を用いていると聞いて大いに喜び、馬氏を滅ぼす者は必ず郁だろうと言っている」。
  • 衡陽王は元来愚かだったので、たちまちこれを信じ、しかも文昭王もまた荘宗の言葉を疑わしく思い、大いに郁を除きたい心を抱くようになった。天成年間、たまたま国戚である楊昭が郁に代わろうと謀ってから日数が経ち、たびたび郁の短所を讒言していた。衡陽王はそこで機に乗じて武穆王に会い、郁を誅殺するよう請い、さらに郁が奢侈で法を犯し、外は隣藩と結んでおり、除かなければ将来尾大の患いとなるだろうと言った。王は言った、「私の大業を成したのは郁である。お前はやめよ、そのようなことを言うな」。衡陽王はなおも強く請い、その兵権を罷免することを願ったので、郁は行軍司馬に左遷された。
  • 郁は怒って言った、「私は君王に長く仕えてきた。急いで西山に営みを構え、そこで老いよう。猘子(狂犬の子)が次第に大きくなり、いずれ人を噛むだろう」。衡陽王はこれを聞いていよいよ怒り、天成四年(929年)七月、王命を偽って府舎で郁を殺し、郁が謀反を企てたと誣告する布告を中外に掲げ、あわせてその一族党与を誅殺した。
  • 武穆王は老いて政務を省みなくなっており、郁の死をまったく知らなかった。その日、大霧が四方を塞いだので、王はこれを怪しみ、左右の者に語って言った、「私は昔、孫儒に従っていたが、儒はいつも罪のない者を殺すたびに、こうした異変を多く招いた。もしや馬歩獄(軍法の獄)で冤罪の死者が出たのではないか」。まもなく役人が事の次第を王に報告すると、王は胸を叩いて大いに嘆き悲しんで言った、「私は老いぼれて、政事はもはや自分の手から出ていない。功臣・旧臣が理不尽な冤罪の酷刑に遭ってしまった」。側近を顧みて言った、「私もこの世に長くはいないだろう」。
  • 郁は才能があったが性は貪欲で、かなり奢侈を好んだ。常に自分が食べる井戸水が不潔であるとして、銀の葉でその四方を覆わせ、これを拓裏(すきばり)と名付けていた。それゆえ彼を妬む者はその機に乗じて彼を陥れることができたのである。
  • また、辰州の民である向氏という者が、火を焚いた際に一匹の竜が起き上がり、四方に風雷急雨を起こして消し止められず、やがて焼け尽きたが、その角だけは燃えず、玉のように瑩白であった。向氏はこれを宝として蔵していたが、郁は無理に価をつけてこれを奪い取った。ある術士が言った、「高司馬に禍があるだろう。どうしてこのような不祥の物を用いて災いを速めるのか」。まもなく果たして誅殺された。郁はその後、陰晦の日にたびたび姿を現して祟りをなしたという。

史論

  • 論じて言う。楚は蛮地の間に位置し、北は呉会に臨み、南は嶺表に迫り、その中間には江陵があって征討・防禦の要となっている。それゆえ諸臣がいなければ功は成し得なかった。許(徳勲)・李(瓊)・秦(彦暉)・王(環)はみな勇猛な虎のごとき臣であり、まことに千城に択ばれるにふさわしい人物であった。高郁は幕中で補佐し、国を富ませ財を豊かにした点では、古の善き輔弼の臣であっても、これに何を加えられようか。それなのに理不尽に殺戮に遭い、自ら忠良を棄てるに至った。鳥尽きて弓蔵まるるの喩え通りであり、痛ましさは道行く人の心をも深く傷めた。哀しいことである。