十国春秋卷七十二 楚六 列傳 李瓊
要約
李瓊はもと孫儒の軍将であったが、儒の死後は武穆王馬殷に従って湖南に入り、帳下に隷属して驍勇と胆略で頭角を現した。武穆王が潭州で軍府を統べる間、瓊は邵州攻めを代行し、光化元年には姚彦章の推薦で嶺北七州遊奕使に任じられ、衡州で楊師遠を斬り、永州を包囲して唐世旻を敗死させ、翌年には郴州の守将陳彦謙を殺し、連州の魯景仁を自殺に追い込むなど、一年足らずのうちに連・邵・郴・衡・道・永の六州をことごとく平定した。桂管の劉士政が親校陳可璠らに全義嶺を守らせて武穆王の使者を拒むと、瓊は秦彦暉とともに討伐に赴き、耕牛を掠められて怨む県民の道案内で小径から夜襲をかけて秦城を陥落させ、王建武を捕らえた。降伏しない陳可璠の砦を攻めてその将士三千人を生き埋めにするなど苛烈な戦術で桂の人々を震え上がらせ、ついに劉士政を降して桂・宜・巌・柳・象の五州を平定した。武穆王はその功を賞して桂州刺史に遷し、まもなく静江軍節度使に表薦して同平章事を加えた。大食漢で一度の食事に肉十数斤を平らげたため軍中で「李老虎」と呼ばれ、かつて桂州の子供らが集まって遊ぶたびに「虎が来るぞ」と叫び逃げ回っていたのが、後の桂管攻略を予兆していたと語り継がれた。天祐二年に没した。
現代語訳全文
李瓊
- 李瓊は、もと孫儒の軍将であった。儒が死ぬと武穆王に従って湖南に入り、帳下に隷属して親従都副指揮使となった。驍勇で胆略に富み、当時抜きん出ていた。
- 武穆王が潭州に赴いて軍府の事を統べた際、瓊を留めて邵州攻めを代行させた。光化元年(898年)、姚彦章が瓊を大将たりうると推薦し、嶺北七州遊奕使に任じられ、兵を率いて衡州を攻め、楊師遠を斬って功を立てた。続いて永州を包囲すると、唐世旻は逃げて死んだ。翌年、また郴州を攻め、その守将である陳彦謙を殺した。進んで連州を攻めると、魯景仁は自殺した。一年足らずのうちに連・邵・郴・衡・道・永の六州はことごとく平定されたが、みな瓊の功であった。
- まもなく桂管の劉士政が軍が自国の境に入ることを恐れ、親校の陳可璠・王建武らに命じて兵を率いて全義嶺を守らせた。武穆王は使者を遣わして士政に聘問させたが、境上に至ると可璠は関を閉じて入れなかった。武穆王は怒り、瓊に秦彦暉と共に兵七千を率いてこれを攻めさせた。
- ちょうど可璠が県民の耕牛を掠めて軍をねぎらったため、県民は大いに怨み、進んで前鋒の道案内となることを願い、ひそかに言った、「西南に小径があり、秦城まで僅か五十里、単騎で通ることができます」。瓊は歩騎兵三百を統率し、枚を銜んで夜、秦城を襲い、垣を越えて入り、ついに王建武を捕らえて還った。
- 夜明けが近づく頃、絹布に文字を書いて可璠の砦の下に掲げてこれを示した。可璠はなお信じなかったので、王建武の首を斬って砦の中に投げ入れた。桂の人々はみな震え恐れた。瓊はそこで軍を整えて進撃し、可璠とその将士三千人を捕虜としことごとく生き埋めにした。
- 続いて軍を率いて桂州に赴くと、秦州の南二十余の砦は風を望んで逃げ潰れた。ついに士政に迫って降伏させ、その所属する桂・宜・巌・柳・象の五州の地をことごとく取ったのも、また瓊の功であった。
- 武穆王はその功を嘉して、すぐに瓊を桂州刺史に遷し、まもなく静江軍節度使に表薦し、さらに同平章事を加えた。天祐二年(905年)に卒した。
- 瓊は飲食を好み、一度の食事で肉十数斤を食べ、大きな塊に切って食らったので、軍中では彼を李老虎と呼んだ。これより先、桂州の子供たちは集まって遊ぶたびに「大蟲(虎)が来るぞ」と呼び叫んで逃げ回っていたが、瓊が桂管を攻略するに及んで、事情を知る者はこれを予兆だと考えた。