十国春秋卷六十八 楚二 世家 文昭王
要約
文昭王馬希範は武穆王馬殷の第四子で、はじめ鎮南節度使であったが、兄希聲が没すると六軍使の袁詮・潘約らに朗州から迎えられて長興三年に楚王の位を継いだ。後唐・後晋にたびたび朝貢して馬・銀・茶などを進上し、武安・武平両軍節度使、扶風郡侯、楚王、天策上将軍などの称号や封を重ねて受けた。天福四年には天策府を開き、唐の太宗の天策府文学館にならって拓跋恒・李弘臯・廖匡図ら十八人を天策府学士に任じて厚遇する一方、渓州の蛮酋彭仕然の反乱には劉勍・廖匡斉を派して山寨を攻略させ、廖匡斉の戦死という犠牲を払いつつこれを降した。伏波将軍馬援の故事にならって銅五千斤で銅柱を鋳造し、学士李弘臯に境界を誓う碑銘を刻ませて溪州の彭仕然を刺史に復し、周辺の諸蛮蛮酋の内附を招いた。契丹が晋に代わって興る際には、かつて壺関で得られていた石中の六字の讖を朝廷に献じて信を得、諸道兵馬都元帥、さらに契丹から尚父に冊せられ、ますます驕り喜んだと伝えられる。
しかし治世後半は驕奢に流れ、順賢夫人彭氏の死後は初めて声色を縦にして長夜の酒宴にふけるようになり、天策府に九龍殿・会春園・嘉宴堂・金華殿などの壮麗な宮殿を次々に造営して財を蕩尽した。九龍殿では沈香で作った八龍に囲まれ自ら「わが身は一龍なり」と称するほどの奢侈ぶりであった。用度が不足すると使者を派して田畝を巡らせ頃畝を偽って増税し、逃田を籍して民を新田に駆り立て、財を納めれば官を得られる売官の風を許し、匿名の密告を府門の函で受け付けて互いに告訐させたため、富者は財で罪を免れ強者は兵役で贖い、貧弱な者のみが刑を受ける有様となった。切諫した学士拓跋恒を終生二度と会わず遠ざけ、風刺の詩を作った処士戴偃を投獄し、上書して諫めた副都軍使丁思瑾の官を削り、また嗣位の際に恨みを抱いた同母弟希旺を幽閉し、さらに弟希杲を疑って開運二年に殺害するなど骨肉の争いも招いた。晩年、かつて讒言により死に至らしめた功臣高郁の亡霊にたびたび苛まれたと伝えられ、開運四年、江上で競渡見物の最中に「高郁が来た」と叫んで急死した。享年四十九、文昭と諡された。史臣は、頴敏の資質を持ち書を読み士を礼したものの、驕り奢りに溺れて義を滅ぼし、九龍殿の壮麗を競うに至ってその志は卑しく、馬氏没落の端緒をここに開いたと厳しく評している。
このほか、渓州銅柱の建立に象徴される溪州彭氏との関係、寧州蛮莫彦殊・都雲蛮尹懐昌・牂牁蛮張万濬らの内附、後漢や後晋・契丹への相次ぐ朝貢と度重なる封爵の授受、長沙城修築の際に現れたという異形の土龍の伝承なども併せて伝えられ、文昭王の治世が武功と繁栄の絶頂から急激な衰亡へと転じていく過程が詳しく描かれている。
また王は先王の妾媵にも多く無礼を加え、尼僧に命じて士庶の家の容色ある娘をひそかに捜させて強いて婚を委ねさせ、前後数百人に及んでもなお足りず「軒轅が五百人の女を御して天に昇った故事に近づけるだろうか」と嘯いたという。ある商人の妻を奪おうとして夫を殺した際には、その妻が辱めを受けまいと自ら首をくくって死んだという凄惨な逸話も伝えられ、王の色好みと専横ぶりを物語っている。さらに長沙城の修築に際して壕を開いた時、長さ十余丈で頭尾手足のない一物が北から現れ水上を泳いで南岸に没したとされ、人々はこれを土龍と呼んだが、まもなく王は死に楚もまた大いに乱れたと伝えられている。
現代語訳全文
文昭王 出自と即位
- 文昭王は名を希範、字を寶規といい、武穆王の第四子である。希範は初め鎮南節度使であったが、希聲が没すると、六軍使の袁詮・潘約らが希範を朗州に迎えてこれを立てた。
- 長興三年(932年)秋八月、希範は長沙に至り、辛酉の日に位を継いだ。九月、後唐は希範を武安軍節度使兼侍中とした。
- 冬十月癸酉、後唐に銀・茶を進上し、戦馬の頒賜を請うたところ、後唐の明宗は馬五十匹を賜り、貢物の返礼とした。
- 四年(933年)春正月乙卯、後唐は希範に武安・武平等軍節度観察等使、検校太尉兼中書令、行潭州大都督府長史を加え、扶風郡侯に封じた。
- この年、衡陽王が嗣位の際に譲らなかったことを追って怨み、その同母弟の希旺を幽閉し、兄弟の数に預からせなかった。
- 応順元年(934年)春正月壬辰、後唐の閔帝は希範を楚王に封じた。
- 夏四月、後唐の潞王従珂がその主従厚を廃してみずから即位し(まもなくこれを殺した)、清泰と改元した。
- この年、後唐は正使に兵部尚書李鏻、副使に馬承翰を遣わして来聘した。
- 清泰三年(936年)春三月、王の弟希杲が桂州を鎮め、善政を行ったが、監軍の裴仁煦がその衆心を得ていることを言上したため、王はこれをかなり疑った。
- 夏四月、後漢(南漢)の将孫徳威が蒙・桂の二州に侵寇したので、王は弟の武安節度副使希広に命じて軍府事を権知させ、みずから兵を率いて桂州を巡り、漢兵は蒙州から退走した。弟の希杲を移して朗州を知らしめた。
- 秋七月庚寅、王は桂州から北へ帰った。
- 冬十一月、契丹主は石敬瑭を立てて大晋皇帝とし、天福と改元した。この時、黄陵廟を修めて祭を致すよう命じた。
天福二年(937年)
- (闕。月)、王は壺関の裂けた木にあった六字の讖を朝廷に表聞した。実に大晋開基の讖であった。先に梁の開平年間、潞州軍前の李思安が、壺関県庶穣郷の人が木を伐って両片に分けたところ、内に六字あり、「天十四載石進」とあったと上奏し、その状を図して献じ、史館に付した。後唐の荘宗が晋王より即位するに及び、みずから応じたものと称した。この時に至って石氏が国号を晋とし、朝廷と本文が符合するので、これを解釈して進上したのである。
- 夏五月、晋は青草湖廟の安流侯を広利公に改封し、洞庭湖廟(闕 )を霊済公に改封し、磊石廟の昭霊侯を広利威顕公に改封し、黄陵二妃の懿節廟を烈廟に改封する勅を下した。王の奏に従ったものである。
- 冬十二月、晋は詔して王に江南諸道都統制置武平静江等軍事を加え、功臣号を改め賜り、食邑を増すこと差があった。
- この年、義寧鎮を霊川県の地に置き、まもなく義寧県と改めた。
天福三年(938年)
- 冬十月、順賢夫人彭氏が薨じた。夫人は家を治めるに法があり、王は大いにこれを憚っていた。没した後、王は初めて声色を縦にし、長夜の飲を為すようになった。
- 十二月乙酉、王は晋に御輦一乗を貢いだ。金漆の栢木に鏤金の花版、銀装の真珠、車渠、紅絲網囊、悉く備わっていた。また江南諸道都統に除せられた恩を謝して絹二千疋を進め、また功臣を改め食邑を加えられたことを謝して銀鑼四十面(重さ二千両)、土絹・土紬・吉貝布あわせて三千疋、麩金五十両を進めた。
天福四年(939年)
- 夏四月、晋は王に天策上将軍を加え、印綬を賜り、府を開いて官属を置かせた。
- この月、王は湘川県を改めて清湘県とすることを上奏した。あわせて全州を置き、清湘に治所を置いた。灌陽県を割いてこれに隷属させた。
- 秋八月、黔南巡内の溪州刺史彭仕然が、錦・溪州蛮万余人を引いて辰・澧の二州に寇し、焼き掠め鎮戍を犯し、使者を遣わして蜀に援軍を乞うたが、蜀主は道が遠いことを理由に許さなかった。
- 九月辛未、王は左静江指揮使劉勍、決勝指揮使廖匡斉に命じ、衡山の兵五千を率いてこれを討たせた。
- 冬十一月、王は初めて天策府を開き、護軍中尉・領軍司馬等の官を置き、諸弟および将校をその職に充てた。また唐の太宗の天策府文学館に倣い、学士の員を立て、武安軍節度判官拓跋恒、都統掌書記李弘臯、江南観察判官廖匡図、昭順軍観察判官徐仲雅、都統判官李鐸、静江府節度判官潘起、嶺南軍節度掌書記衛曮、鎮南軍節度判官李荘、昭順軍節度判官徐牧、澧州観察判官彭継英、(闕)裴頏、桂管観察推官何仲挙、武安軍節度巡官孟玄暉、容管節度推官劉昭禹、静江府掌書記鄧懿文、武平軍節度掌書記李松年、武平軍節度推官蕭洙、昭順軍観察度支使彭継勲、以上十八人をこれに充てた。
- この月、劉勍らは溪州に進攻し、彭仕然の兵は敗れて州を棄て、山寨に逃げ守った。石崖は四方が絶壁であったので、勍は梯棧を作ってこれを囲んだ。廖匡斉は戦死した。
- 十二月、後漢の諫議大夫李紓が来聘し、続いて使者を遣わして報聘した。
天福五年(940年)
- 春正月、劉勍は彭仕然の寨に進攻し、火箭でこれを焼いた。仕然は麾下を率いて溪・錦の深山に逃げ入った。乙未、その子師暠を遣わして諸蛮を率いさせ、溪・錦・奨三州の印を納めて降伏を請うた。
- 二月、勍は師を班して長沙に還った。王は溪州を便利な地に移し、仕然を表して溪州刺史とし、勍を錦州刺史とした。
- 溪州は西は牂牁・両林に接し、南は桂林・象郡に通じる。王は常々みずから漢の馬援の苗裔と称し、伏波将軍の故事にならって、銅五千斤を鋳て柱を立てた。溪州柱は高さ一丈二尺、地に入ること六尺であった。学士李弘臯に命じてこれに銘を刻ませ、誓状を上に刻んだ。
- これより寧州蛮の莫彦殊はその部下の温那等十八州を率い、都雲蛮の尹懐昌はその昆明等十二部を率い、牂牁蛮の張万濬はその彜播等七州を率い、皆前後して来附した。
- 戊申、王は晋に臥輦一乗、御衣一襲、鳳文の靴、龍文の帯各一具を貢いだ。
- 三月、晋の山南東道節度使安従進が貢物を襄陽で邀えとった。
天福六年(941年)
- 秋八月甲寅、晋に金銀器および方物を貢いだ。
- 冬十月、使者を遣わし諸色の香薬・蝋面・含膏茶を晋に貢いだ。
- 十一月、晋の安従進が兵を挙げて反した。丁酉、使者を遣わし晋に吉貝等三千疋、白蝋一万斤、朱砂五百斤を貢ぎ、別に漆器万余事を進めた。
- 十二月、晋は高行周に襄州行府事を知らしめ、王に詔して師を出して襄州を討たせた。王は天策都軍使張少敵を遣わして舟兵で漢陽に赴かせ、なお米五万斛を漕運して軍に饋わした。
- この年、蜀主は七宝の鐘を王の寿として贈った。王はこれを岳州君山寺に賜った。
天福七年(942年)
- 夏五月、使者を遣わし晋の重午節を賀し、白金・茜緋簟扇等の物を貢いだ。
- 夏六月、晋主が殂じ、斉王重貴が立った。
- 冬十月、王は大いに土木を興し、天策府を長沙城の西北に功建し、天策・光政等十六楼、天策・勤政等五堂を作り、棟宇の盛を極め、欄檻は皆金玉で飾り、壁を塗るには丹砂を用い、数十万斤に及んだ。地衣は春夏には角簟、秋冬には木綿でこれを作った。先に王は丹砂が急に得られる物ではないので憂色があったが、まもなく東境の山が崩れ、丹砂が丘陵のごとく涌き出たので、これを収用して大いに足りた。殿に上る僚吏はただ丹砂の気が藹然として人を襲うのを覚えるほどであった。
- この年、晋は勅して道州延唐県を延喜県と改めた。高祖の諱を避けたためである。
天福八年(943年)
- 夏四月戊申朔、日食があった。(闕)月、王は銀槍都八千人を置いた。楚地は金銀・茶・穀を多く産し、近年財貨は豊殖していたので、王は奢りの欲が止まらず、みずから誇大となり、長槍・大槊を作って白金で鋳飾し、富民の年少の者を募ってこれに充てた。
- この年、九龍殿を作り、沈香を刻んで八龍とし、金宝で飾り、それぞれ長さ百尺、柱を抱いて相向かい趨り捧げる勢いを作り、王はすでにその中に居て、みずから「わが身は一龍なり」と言った。幞頭の脚の長さ丈許りのものを作って龍角に象り、朝が近づき殿に御そうとするときには、まず香を焚くと、龍の腹中から煙気が鬱然と出て、口から吐くかのようであった。
- また会春園・嘉宴堂・金華殿を建て、その費えは巨万に及んだ。時に子弟・僚属を率いて会春園に遊宴し、学士徐仲雅らは詩を賦して觴を上げ、昼夜節度がなかった。
- 用度が足りなくなったので、国中に賦を加え、王は毎に使者を遣わして田を巡らせ、頃畝を増やすことを功とさせた。民は租賦に耐えられず逃げ出したが、王は「田さえあれば穀の心配などない」と言った。まもなく営田使鄧懿文に命じて逃田を籍し、民を募って耕作させたが、民は古い田を捨てて新しい田に就いても、ようやく自存できる程度で、西から東へと各々その業を失った。また人が財を入れて官を拝することを聞き入れ、財の多少で官の高卑の差とした。富商大賈が位に布列し、外官として遷る者は必ず貢献を責められて殿最とされた。民に罪があれば、富者は財を輸し、強者は兵となり、刑を受けるのはただ貧弱な者のみであった。また府門に函を置き、人に匿名の書を投じさせて互いに告訐させ、また孔目官周陟の議を用いて、常税の他に大県は米三千斛、中県は千斛、小県は七百斛を貢がせ、米のない者は布帛を輸してこれに抵てさせた。天策学士拓跋恒は切諫して不可とするも、王は大いに怒り、終身二度と恒に会わなかった。
開運元年(944年)
- 秋七月辛未朔、晋は大赦を行い改元した。
- 九月庚午朔、日食があった。
開運二年(945年)
- 秋七月、王はその弟希杲を殺した。
- 冬十月、使者を遣わして供御紬絹六千疋、白羅百疋、筒巻白羅十疋、錦綺褥面十牀、錦綺背十合を晋に献じた。
- 十二月、湘陰の処士戴偃を囚え、天策副都軍使丁思瑾の官を削った。偃は詩が刺譏に渉ったためであり、思瑾は上書して切諫したことで罪を獲た。
- この時、廖法正を遣わして後唐に聘せしめ、還るに及んで人に語って言った、「東朝の天子は珠玉のように粋であるが、南嶽の真君はおそらくこれには及ばないだろう」と。
開運三年(946年)
- 春三月、桂州全義県を昇格させて溥州とし、なお全義県を改めて徳昌県とし、あわせて桂州の霊川・広明・義寧等三県を割いてこれに隷属させた。王の奏に従ったものである。
- 秋九月、王は晋主が奢侈を好むことを知り、しばしば珍玩を献じて都元帥を加えることを求めた。甲辰、晋は王を諸道兵馬都元帥とする詔を下した。
- 冬十二月、契丹は晋主重貴を捕えて北へ連れ去った。
- この年、晋の客省使王筠が来聘したが、国の乱により帰らなかった。
開運四年(947年)
- 春二月丁巳朔、契丹主は大遼と称する制を下し、会同十年の大赦を行い、使者を遣わして王を尚父に冊した。王は契丹に推奉されたことで、ますます自ら矜り喜んだ。
- この月辛未、劉知遠が皇帝位に即き、天福十二年と改称した。
- 夏五月、王は母弟の武安節度副使天策府都尉領鎮南節度使希広に、内外諸司の事を判ぜしめるよう命じた。
- 壬辰、王は薨じ、年四十九、諡して文昭といった。先に己丑、王はまさに酒を臨江に置いて競渡を観ていたところ、忽然と驚き起きて「高郁が来た」と言った。王の弟希広は「郁は死んで久しいものを、大王、妄りに言うことなかれ」と言ったが、急いで駕を趣らせて帰ると、血が鼻端から迸り出た。臨終の際、郁は再び昼に現れ、ついにこれで起き上がることができなかった。ある者は言う、武穆王の時、王が洛京から帰り、荘宗が「馬家の社稷は必ず高郁に取られるであろう」と言ったことを詳しく述べて武穆王に告げたところ、武穆王は笑って「主上は戦争によって天下を得たので、すべて機数によって人を馭している。郁がわが覇業を助けているのを、必ずこれを離間させようとし、我が国を梁が王彦章の兵権を罷免したのと同じようにさせようとしているのだ。今もし郁を去らせれば、まさに彼らの術中に陥ることになる」と言った。王はこれを信じず、退いて衡陽王をそそのかし、ついに郁を死に至らせた。それゆえ郁はしばしば祟りをなしたという。
文昭王 人となりと最期
- 王は学を好み詩に善く、文士をかなり優遇していたが、性は剛愎でかつ奢靡であり、みだらを好んだ。先王の妾媵にも多く無礼を加え、また尼僧に命じて士庶の家の容色のある娘をひそかに捜させ、強いて婚を委ねさせた。前後数百人に及んでもなお足りない色があり、「軒轅が五百人の女を御して天に昇ったと聞く、吾もほぼこれに近づけるだろうか」と言った。ある商人の妻が美しく艶があったので、たちまちその夫を殺してその妻を奪ったが、妻は辱められまいと誓って自ら首をくくって死んだ。
- 初め、王は長沙城の修築を命じ、壕を開いたところ、工事が終わると、たちまち一物を得た。長さ十余丈、形は土山のようで、頭尾手足がなく、北から出て水上を泳ぎ、しばらくして南岸に入って没した。ある者はこれを土龍と言った。まもなく王はついに歾じ、楚もまた大いに乱れた。
史論
- 論じて言う。文昭は頴敏の資質をもって、書を読み士を礼し、天策の群英はほとんど梁苑・鄴下の選に及ぶほどであった。しかるに驕り僭る性が生じ、侈に怙り義を滅ぼし、情を土木に肆にし、九龍において靡を競うに至った。何とその志の卑しいことか。馬氏の子が群を離れれば、禍はここに由来して始まる。またどうして牆にせめぎ合って国を争う時を待とうか。悲しいかな。