十国春秋十國春秋卷六十八 楚二 衡陽王馬希聲・文昭王馬希範
楚の第二代・衡陽王馬希聲(字は若訥、?–932年)と、第三代・文昭王馬希範(字は寶䂓、?–947年、享年四十九)の記。希聲は武穆王馬殷の次男で、母の袁德妃の寵によって嗣立し、遺命と称して建国の制度を廃して藩鎮の旧制に戻した。鶏肉を好んで喪中も食を絶たず、在位わずか二年で没した。第四子の希範は学問を好んで文人を礼遇し、天策府を開いて十八学士を置き、溪州の彭仕然を降して銅柱を建て、諸蛮を帰服させた。一方で剛愎かつ奢侈で、九龍殿の造営や苛斂誅求により拓跋恒の諫言を退け、楚の乱の端緒を作った。
年表(22件)
- 長興元年930年武穆王の没後に位を継ぎ、遺命と称して建国の制度を廃し藩鎮の旧制に戻した
- 長興元年930年後唐から武安・靜江等軍節度使に進められ、兼中書令を加えられた
- 長興二年931年武穆王を衡陽に葬る出棺の日にも泣かず、鶏の羹を数器たいらげて席を立った
- 長興三年932年大旱魃に諸神祠の門を閉じさせたが雨は降らず、まもなく薨去して衡陽王を追封された
- 長興三年932年袁詮・潘約らに朗州から迎えられて希範が襲位し、後唐は武安軍節度使兼侍中とした
- 長興四年933年後唐から検校太尉兼中書令を加えられ、扶風郡侯に封ぜられた
- 應順元年934年後唐の閔帝から楚王に封ぜられた
- 清泰三年936年南漢の孫德威が蒙州・桂州を侵すと、自ら兵を率いて桂州を巡視し退けた
- 天福二年937年壺関の木に現れた六字を大晋開基の讖として晋に上表した
- 天福二年937年晋から江南諸道都統・制置武平靜江等軍事を加えられた
- 天福三年938年家政を律していた順賢夫人彭氏の薨去を境に、声色と夜通しの酒宴に耽り始めた
- 天福四年939年晋から天策上将軍を加えられ、府を開いて官属を置くことを許された
- 天福四年939年全州を置いて清湘を治所とし、灌陽県を分けて属させた
- 天福四年939年辰州・澧州を侵した溪州刺史の彭仕然を、劉勍・廖匡齊に討たせた
- 天福四年939年はじめて天策府を開き、拓跋恒・李弘臯ら十八人を学士に置いた
- 天福五年940年彭仕然が降り、伏波将軍の故事に倣って銅五千斤の柱を鋳て溪州に立てた
- 天福六年941年晋の詔に応じ、張少敵に水軍を率いさせて安從進の乱の討伐に出兵した
- 天福七年942年長沙城の西北に天策府を造営し、十六の楼と五つの堂を建てた
- 天福八年943年銀槍都八千人を置き、沈香の八龍を据えた九龍殿を造った
- 開運二年945年弟の希杲を殺し、諷刺の詩を作った処士の戴偃を投獄した
- 開運三年946年たびたび珍宝を献じて求めていた諸道兵馬都元帥に、晋から任じられた
- 開運四年947年契丹主に尚父として冊立されたが、五月に薨去した。享年四十九、諡は文昭
衡陽王馬希聲の出自と即位
- 衡陽王は名を希聲、字を若訥といい、武穆王(馬殷)の次男。武穆王には数十人の子がいた。
- 嫡子の希振は年長で賢明だったが、その次の希聲は希範と同じ日に生まれた。希聲の母は袁德妃、希範の母は陳夫人。德妃が美貌だったため、希聲は母の寵愛によって後継に立てられた。
- 長興元年(930年)11月丙戌、位を継いだが、遺命と称して建国の制度を廃し、藩鎮としての旧制に戻した。
- 同年12月、後唐は希聲を武安・靜江等軍節度使に進め、兼中書令を加えた。
鶏肉への執着と喪中の失態
- 希聲は喪に服しながら悲しむ様子がなく、かつて梁の太祖が鶏肉を好んだと聞いて心中これに憧れ、料理人に命じて毎日五十羽を調理させ食膳に供させた。
- 長興二年(931年)冬、武穆王を衡陽に葬ろうとして出棺の段になっても、希聲は入って泣くこともせず、鶏の羹を数器たいらげて席を立った。
- 朝臣の潘起がこれを皮肉り、晋の阮籍が喪中に蒸し豚を食べた故事を挙げて、世間が彼を賢者と認めないのはこういうわけだ、と評した。
旱害と死
- 長興三年(932年)秋7月、湖南が大旱魃に見舞われ、希聲は南嶽および領内の諸神祠の門を閉じるよう命じたが、ついに雨は降らなかった。
- 同年辛卯、希聲が薨去。追封されて衡陽王とされた。
犀帯の逸話
- 希聲は性質が悪く財貨を好んだ。海商が数百万の値打ちの犀角の帯を売りに来た。昼夜光を放ち一室を照らすほどだったので、希聲は商人を殺して奪った。ひと月あまりでその光は消えた。
文昭王馬希範の出自と襲位
- 文昭王は名を希範、字を寶䂓といい、武穆王の第四子。はじめ鎮南節度使を務めた。
- 希聲が没すると、六軍使の袁詮・潘約らが朗州から希範を迎えて擁立した。
- 長興三年(932年)秋8月、希範は長沙に到着し、辛酉に襲位。9月、後唐は希範を武安軍節度使兼侍中とした。
- 冬10月癸酉、後唐に銀と茶を献じ軍馬の下賜を請うたところ、明宗は馬五十匹と貢物の返礼を与えた。
- 長興四年(933年)春正月乙卯、後唐は希範に武安・武平等軍節度観察等使、検校太尉兼中書令、行潭州大都督府長史を加え、扶風郡侯に封じた。
- この年、衡陽王が嗣位を譲らなかったことを恨み、その同母弟の希旺を幽閉して兄弟の列に加えなかった。
後唐の政変と使節往来
- 應順元年(934年)春正月壬辰、後唐の閔帝は希範を楚王に封じた。
- 同年夏4月、後唐の潞王從珂が主の從厚を廃して自立し(まもなく從厚を殺害)、清泰と改元した。
- この年、後唐は正使に兵部尚書の李鏻、副使に馬承翰を立てて聘問に訪れた。
桂州をめぐる南漢との攻防
- 清泰三年(936年)春3月、王の弟の希杲が桂州を鎮めて善政を布いたが、監軍の裴仁煦が「人心を集めている」と讒言したため、王は彼を疑うようになった。
- 夏4月、南漢の将の孫德威が蒙州・桂州の二州を侵した。王は弟で武安節度副使の希廣に軍府の事を代行させ、自ら兵を率いて桂州を巡視した。南漢兵は蒙州から退却した。希杲は朗州の知事に移された。
- 秋7月庚寅、王は桂州から北へ帰還した。
- 冬11月、契丹の主が石敬瑭を大晉皇帝に立て、天福と改元した。このころ黄陵廟の修築と祭祀を命じた。
壺関の讖と晋への従属
- 天福二年(937年)(月次欠)、王は壺関で割った木に現れた六字が大晋開基の讖であると上表した。
- もともと梁の開平年間、潞州の軍前で李思安が「壺関県庶穰郷の人が木を伐って二つに割ったところ中に『天十四載石進』の六字があった」と奏上し、図に写して献上、史館に付されていた。後唐の莊宗が晋王から即位したときは自らこれに応ずると称したが、ここに至って石氏の国号が晋となり本文と合致したため、解釈を添えて奏進した。
- 天福二年夏5月、晋は勅して青草湖廟の安流侯を廣利公に、洞庭湖廟を(欠字)靈濟公に、磊石廟の昭靈侯を廣利威顯公に、黄陵二妃の懿節廟を烈廟に改封した。いずれも王の上奏によるもの。
- 同年冬12月、晋は詔して王に江南諸道都統・制置武平靜江等軍事を加え、功臣号を改め賜り、食邑をそれぞれ増した。
- この年、靈川県の地に義寧鎮を置き、まもなく義寧県と改めた。
順賢夫人の死と奢侈の始まり
- 天福三年(938年)冬10月、順賢夫人の彭氏が薨じた。夫人は家政に規律があり王も憚っていたが、亡くなってのち王は声色に耽り、夜通しの酒宴を始めた。
- 同年12月乙酉、王は晋に御輦一台を献上した。金漆の柏木、鏤金の花板、銀装飾、真珠・車渠・紅絹の網嚢を備えたもの。あわせて江南諸道都統に任じられた謝礼として絹二千疋、功臣号改称と食邑加増の謝礼として銀の鑼四十面(重さ二千両)、土絹・土絁・吉貝布あわせて三千疋、麩金五十両を進上した。
天策上将軍と全州の設置
- 天福四年(939年)夏4月、晋は王に天策上将軍を加え、印綬を賜り、府を開いて官属を置くことを許した。
- この月、王は湘川県を清湘県と改めるよう上奏した。あわせて全州を置いて清湘を治所とし、灌陽県を分けてこれに属させた。
溪州の彭仕然討伐
- 天福四年(939年)秋8月、黔南巡内の溪州刺史の彭仕然が錦州・溪州の蛮一万余人を率いて辰州・澧州を侵し、鎮戍を焼き掠奪した。王は蜀に援兵を乞うたが、蜀主は道が遠いとして許さなかった。
- 9月辛未、王は左靜江指揮使の劉勍、決勝指揮使の廖匡齊に衡山の兵五千を率いて討伐させた。
- 冬11月、王ははじめて天策府を開き、護軍中尉・領軍司馬などの官を置いて諸弟や将校を充てた。さらに唐の太宗の天策府文学館に倣って学士を置き、武安軍節度判官の拓跋恒、都統掌書記の李弘臯、江南観察判官の廖匡圖、昭順軍観察判官の徐仲雅、都統判官の李鐸、靜江府節度判官の潘起、嶺南軍節度掌書記の衞曮、鎮南軍節度判官の李莊、昭順軍節度判官の徐牧、澧州観察判官の彭繼英、(欠)裴頏、桂管観察推官の何仲舉、武安軍節度巡官の孟玄暉、容管節度推官の劉昭禹、靜江府掌書記の鄧懿文、武平軍節度掌書記の李松年、武平軍節度推官の蕭洙、昭順軍観察度支使の彭繼勲の十八人を学士とした。
- この月、劉勍らが溪州を攻めると彭仕然は敗れて州を捨て、山寨に逃げ込んだ。石崖が四方に切り立っていたので、劉勍は梯と桟道を作って登り包囲した。廖匡齊は戦死した。
- 12月、南漢の諫議大夫の李紓が聘問に来たので、返礼の使者を派遣した。
銅柱の建立と蛮族の帰服
- 天福五年(940年)春正月、劉勍が彭仕然の寨に進攻し火矢で焼いた。彭仕然は手勢を率いて溪州・錦州の山奥に逃げたが、乙未、子の師暠に諸蛮を率いさせて溪・錦・奨の三州の印を納め降伏を請わせた。
- 2月、劉勍は軍を還して長沙に戻った。王は溪州を便利な土地に移し、上表して彭仕然を溪州刺史とし、劉勍を錦州刺史とした。
- 溪州は西は牂牁・両林に接し、南は桂林・象郡に通じる。王はかねて漢の馬援の後裔と称していたので、伏波将軍の故事に倣い、銅五千斤で柱を鋳て溪州に立てた。柱は高さ一丈二尺、地中に六尺埋めた。学士の李弘臯に銘を作らせ、誓約の文を刻ませた。
- これ以降、寧州の蛮の莫彦殊が配下の温那など十八州を、都雲の蛮の尹懷昌が昆明など十二部を、牂牁の蛮の張萬濬が彝・播など七州を率いて、相次いで帰属した。
- 戊申、王は晋に臥輦一台、御衣一襲、鳳文の靴と龍文の帯を各一具献じた。
- 3月、晋の山南東道節度使の安從進が襄陽で貢物を横取りした。
安從進の乱と出兵
- 天福六年(941年)秋8月甲寅、晋に金銀器と方物を献じた。冬10月、諸種の香薬・蝋面・含膏茶を晋に献ずる使者を送った。
- 11月、晋の安從進が挙兵して反乱を起こした。丁酉、晋に吉貝など三千疋、白蝋一万斤、朱砂五百斤を献じ、別に漆器一万余点を進上した。
- 12月、晋は高行周に襄州の府事を掌らせ、王に襄州討伐の出兵を詔した。王は天策都軍使の張少敵に水軍を率いて漢陽に向かわせ、あわせて米五万斛を漕運して軍に供給した。
- この年、蜀主が七宝の鐘を王の長寿祝いに贈った。王はこれを岳州の君山寺に施した。
天策府の造営と奢侈
- 天福七年(942年)夏5月、晋の端午節を祝う使者を遣わし、白金・茜緋・簟・扇などを献じた。6月、晋主が没して齊王重貴が立った。
- 同年冬10月、王は大規模な土木工事を起こし、長沙城の西北に天策府を建て、天策・光政など十六の楼、天策・勤政など五つの堂を造った。建物の壮麗さは極まり、欄干はすべて金玉で飾り、壁は丹砂で塗って数十万斤を費やした。床の敷物は春夏は角の簟、秋冬は木綿を用いた。
- これに先立ち、王は丹砂が容易に手に入らないことを憂いていたが、まもなく東方の境で山が崩れて丘のように丹砂が湧き出したので、これを採って十分に足りた。殿に昇る官吏は丹砂の香気が身にまとわりつくのを感じたという。
- この年、晋は勅して道州の延唐県を延喜県と改めさせた。高祖の諱を避けたもの。
銀槍都と九龍殿
- 天福八年(943年)夏4月戊申朔、日食があった。(月次欠)、王は銀槍都八千人を置いた。楚の地は金銀・茶・穀物を多く産し、近年財貨が豊かだったので、王は奢侈な欲望が尽きず、自らを誇示して長い槍と大きな矛を作り、白金でめっきし、富裕な家の若者を募ってこれに充てた。
- この年、九龍殿を造り、沈香を刻んで八匹の龍を作り金宝で飾った。それぞれ長さ百尺で、柱を抱いて向かい合い、駆け寄って捧げる姿勢をとらせた。王自身がその中に座り、「自分がもう一匹の龍だ」と称した。頭巾の脚を一丈ほどの長さに作って龍の角に見立てた。早朝に殿に出る前には香を焚き、煙が龍の腹の中から立ち上って口から吐くように見せた。
- さらに會春園・嘉宴堂・金華殿を建て、費用は巨万に上った。折々に子弟や僚属を會春園に連れて遊宴し、学士の徐仲雅らが詩を賦して杯を献じ、昼夜の別なく興じた。
苛斂誅求と拓跋恒の諫言
- 費用が足りなくなると国中に増税した。王は使者を派遣して田を巡検させ、頃畝を増やした者を功績としたので、民は租税に耐えられず逃亡した。王は「田さえあれば穀物の心配はない」と言い放った。
- やがて営田使の鄧懿文に命じて逃亡した田を帳簿に登録させ、民を募って耕作させた。民は旧地を捨てて新地に移り、かろうじて自活するありさまで、西から東へと移るうちにそれぞれ生業を失った。
- また財を納めて官を買うことを許し、額の多寡で官の高低を決めたので、富商大賈が官位に列した。地方官の異動には貢献の多寡で優劣を付けた。民に罪があれば、富める者は財を出し、強い者は兵にとられ、刑を受けるのは貧弱な者だけだった。
- さらに府の門に箱を置いて匿名の投書をさせ、互いに告発させた。孔目官の周陟の議を用い、通常の税のほかに大県は米三千斛、中県は千斛、小県は七百斛を貢納させ、米のない者は布帛で代納させた。
- 天策学士の拓跋恒が不可であると強く諫めたところ、王は激怒し、生涯二度と拓跋恒に会わなかった。
開運年間
- 開運元年(944年)秋7月辛未朔、晋が大赦して改元した。9月庚午朔、日食があった。
- 開運二年(945年)秋7月、王は弟の希杲を殺した。冬10月、晋に御用の紬絹六千疋、白羅百疋、筒巻白羅十疋、錦綺の褥面十床、錦綺の背十合を献じた。
- 同年12月、湘陰の処士の戴偃を投獄し、天策副都軍使の丁思瑾の官を削った。戴偃は詩に諷刺があったため、丁思瑾は上書して直言したためである。
- このころ廖法正を南唐に遣わし、帰国後に人に「東朝の天子は珠玉のように美しい。南嶽真君でもかなうまい」と語った。
- 開運三年(946年)春3月、桂州の全義県を溥州に昇格させ、全義県を德昌県と改め、桂州の靈川・廣明・義寧の三県を分けて属させた。王の上奏によるもの。
- 同年秋9月、王は晋主が贅沢を好むことを知り、しばしば珍宝を献じて都元帥の位を求めた。甲辰、晋は詔して王を諸道兵馬都元帥とした。
- 冬12月、契丹が晋主重貴を捕らえて北へ連れ去った。この年、晋の客省使の王筠が聘問に来たが、晋の国が乱れて帰国できなかった。
契丹の冊命と王の死
- 開運四年(947年)春2月丁巳朔、契丹主が制を下して大遼會同十年と称し、大赦して使者を派遣し王を尚父に冊立した。王は契丹に推奉されたことでますます得意になった。
- この月の辛未、劉知遠が皇帝に即位し、年号を天福十二年と改めた。
- 夏5月、王は同母弟で武安節度副使・天策府都尉・領鎮南節度使の希廣に内外諸司の事を判じさせた。
- 壬辰、王が薨去。享年四十九、諡は文昭。
- これに先立つ己丑、王は江に臨んで酒宴を張り競渡を見ていたが、突然驚いて立ち上がり「高郁が来た」と叫んだ。弟の希廣が「高郁は死んで久しい、妄言をなさるな」と言い、急いで車を出して帰ると、鼻から血が噴き出した。臨終の際にも高郁が昼間に現れ、ついに起き上がれなかった。
- ある説では、武穆王のとき、王が洛陽から帰って「馬家の社稷は必ず高郁に奪われる」という莊宗の言葉を武穆王に伝えたところ、武穆王は笑って「主上は戦って天下を得た方で、権謀で人を操る。高郁を頼りにわが覇業があるのに、これを離間させて我が国を、梁が王彦章の兵権を解いたような状態にしようというのだ。いま高郁を除けば、まさにその罠にはまる」と答えた。王は信じず、退いて衡陽王をそそのかし、ついに高郁を死に至らしめた。それゆえ高郁がたびたび祟ったのだという。
王の性格と最期の異事
- 王は学問を好み詩をよくし、文人を厚く礼遇した。しかし性格は剛愎で、奢侈と淫蕩を好んだ。
- 先王の妾たちの多くに無礼を働き、また尼僧に命じて士庶の家の器量の良い娘を密かに探させ、無理やり納采の礼を送って娶った。前後で数百人に及んだが、なお満足せず「軒轅氏は五百人の女を御して天に昇ったと聞く。私もそれに近づけようか」と言った。
- 美貌の妻を持つ商人があると、その夫を殺して妻を奪った。妻は辱めを受けまいと誓って首を吊って死んだ。
- 当初、王は長沙城の修築を命じ、堀を掘り終えたとき、長さ十余丈の物体が現れた。土の山のような形で頭も尾も手足もなく、北から出て水上を泳ぎ、しばらくして南岸に入って消えた。人はこれを土龍と呼んだ。まもなく王は没し、楚も大いに乱れた。
史論
- 論に言う。文昭王は聡明な資質で書を読み士を礼遇し、天策府の英才たちは梁苑・鄴下の人選に迫るほどだった。
- しかし驕慢僭上は生まれつきで、奢侈に頼って義を滅ぼし、欲のままに土木を興して華美を競い、九龍の飾りに至っては何と志が卑しいことか。
- 馬氏の子らが群れを離れる禍いには始まりがあったのであり、兄弟が垣内で国を争う時を待つまでもなかった。悲しいことである。