十国春秋卷六十六 南漢九 列傳 陳延夀

陳延夀

  • 陳延寿は、その家系については詳らかでない。宦官として後主に仕え、龔澄樞らの輩と一緒になって法を弄び、様々な淫らな技巧を作り出し、日に数万金を費やして後主の心を蠱惑した。桂王の璇興が死んだのは、実に延寿が唆した結果である。
  • これより先、髙祖は中官を寵任していたとはいえ、その数はわずか三百余位で、掖庭の諸局の令・丞に過ぎなかった。中宗の時にはさらに広がり千余人に至り、ほぼ内常侍・謁者の称号を増やした。
  • 後主に至って宦者を信任するに及んで、およそ群臣に才能のある者、進士の状頭(首席)、あるいは僧道でともに語れる者は、みな先に蚕室(去勢の刑を行う部屋)に下されてから後に進用された。また自ら宮(去勢)を施して用いられることを求める者もあり、また死を免れるために宮にされた者もあった。これにより宦人は漸く乾和の時の十倍にもなった(『通鑑綱目』には宦者はほぼ二万人にのぼったとある)。
  • 諸使の名は二百を超え、三師・三公などの官には次第に「内」の字を加えて区別した。これにより士人を「門外人」と呼ぶようになり、ついにこのために国を亡ぼした。