十国春秋卷六十六 南漢九 列傳 龔澄樞

龔澄樞

  • 龔澄樞は広州南海の人である。乾亨の初め、南海を分けて咸寧・常康の二県とし、これによって咸寧の人となった。
  • 性は廉謹で、みだりに交遊しなかった。幼くして髙祖に仕えて内供奉官となり、官を重ねて内給事となったが、名を顕すことはなかった。
  • 中宗が位を襲うと、甘泉宮使の林延遇がかなり政事に関与していたが、病んで死のうとする時、中宗に「臣が死んだ後は、ただ龔澄樞だけが用いるに足ります」と言った。即日、澄樞は擢んでられて承宣院を知り内侍省を兼ね、まもなく徳陵使に改められ龍徳宮使を兼ね、玉清宮使に進んだ。
  • 後主が位を嗣ぐと、群臣の多くは自ら家室を持ち子孫を顧みるので、ただ宦者だけが親近して任せるに足ると言い、遂にその政事を澄樞らに委ねた。澄樞に特進開府儀同三司・万華宮使・驃騎大将軍を加え、上将軍・左龍虎軍観軍容使・内太師に改めた。軍国の務めはことごとく澄樞から出た。
  • 澄樞は陳延寿とともに女巫の樊胡子を引き入れ、内外で奸悪をなし、凡そ大小の事は多く彼女に諮って決した上で行った。胡子はまた後主にしばしば「澄樞らは天の使いとして遣わされ天子を輔けているのだから、罪があっても問うてはならない」と言った。
  • 澄樞はこれによって李托・薛崇譽とともに酷法の道具を置いて国中を震え上がらせ、民は甚だこれに苦しんだ。
  • 宋軍が国境に入ると、澄樞は李托と謀って「北の軍が来るのはわが国の宝貨を利するためだ。これを焼いて空城にすれば、軍は駐まることができず自ら還るであろう」と言った。これにより火を放って府庫・宮殿をほとんど焼き尽くした。
  • 宋の将、潘美が至ると澄樞を捕らえて龍徳宮中に繋ぎ、まもなく汴京に送り、千秋門外で斬った。
  • 初め、髙祖が名を「龔」に改めようとしたとき、ある僧人が讖書をもって不利であると進言した(『宋史』にはまた、術者がいて「龔」と名づけるのは不利だと言ったとある)。しかし遂に名を「龔」と改めた。後主に至って澄樞を用いたところ、ついにその「龔」の姓によって国を亡ぼすこととなり、識者はこれを先兆があったと考えた。