十国春秋卷六十四 南漢七 列傳 鍾允章

要約

鍾允章は先祖が邕州の人で家を番禺に移した。博学で文辞に富み、剛直で強権を畏れない性格であった。高祖の代に科挙で進士に及第し、官を重ねて中書舎人に至り、詔勅・碑記の草稿を多く任され文思敏捷で名声を高めた。羅浮山に随行して詩を作れば称賛を受け、工部郎中知制誥を拝した。

乾和年間、楚に婚姻を求める使者となったが、楚王馬希廣に拒絶されると、怒った中宗に問われ、允章は楚の兄弟が内紛で争っていると述べて攻め取れると説いた。中宗はこれを容れて出兵し、賀州・昭州等を攻め抜いて勝利を収めた。允章の一言の力によるもので、中宗はその功を厚く賞し、後主の輔導役に選ばれ、後主即位後は尚書左丞参知政事に抜擢された。

允章はもとより宦官の政事専断を憎み、頑固で隠語を用いなかった。法を乱す者数人の誅殺を請い綱紀を正そうとしたが後主は従わず、宦官らの恨みを買った。大寶初年、圜丘祭祀の準備中、内侍監許彦真が謀反と誣告し剣を抜いて迫ったが、允章はこれを迎え撃って叱りつけた。しかし彦真は馳せて謀反を告げ、龔澄樞・李托らも証言に加わったため允章とその一族は誅殺された。国人は忠実剛直を惜しんで涙を流し、後に許彦真が誅され遺骸が葬られた。これより宦官はますます横暴となり、国もこれによって滅んだ。

允章の詩文は豊富で、乾和七年に撰した「碧落洞天雲華御室記」は当時の文士に称賛された。その内容は、帝が英州の碧落洞に行幸した際、野人と称する道士が現れ、葛先生が煉丹しこの地に秘め五百年後の真人に献じよと言い残した神丹七粒を捧げたという奇瑞を綴ったものであった。

現代語訳全文

鍾允章

  • 鍾允章は、その先祖は邕州の人であったが、家を番禺に移した。博学で文辞に富み、人となりは剛直で強権を畏れなかった。高祖の時、科挙を設けて士を取り、鍾允章は進士に及第した。官を重ねて中書舎人に至り、とりわけ中宗に知られ、およそ詔勅・碑記の類は多く允章に命じて草稿を作らせた。允章は文思敏捷で筆を執れば即座に書き上げ、これによって名声が大いに高まった。かつて羅浮山に随行して遊び、詔に応じて詩を作ると、たびたび称賛を受け、工部郎中知制誥を拝した。乾和年間、楚へ使いして婚姻を求めたが、楚王の馬希廣はまだこれを許さなかった。中宗は怒って允章に問うた、「馬公(楚王)はなお南方の地を経略できるだろうか」と。この時、楚の恭孝王が武陵で兵を起こし、湖南は大いに乱れていた。允章は具(つぶさ)に楚の兄弟がまさに争っており、攻め取ることができる情勢を述べた。中宗はそこで毅然として兵を発し、賀州・昭州等の州を攻め抜き、至る所で勝利を収めた。実に允章の一言の力であった。中宗はその功を嘉して賞賚(褒賞)は数え切れないほどであった。しばらくして、有司(担当官)が允章は名儒であり儲貳(皇太子)を輔導すべきであると奏上し、允章は命を受けて後主を輔導することとなった。まもなく中宗が崩御し、後主が帝位を継ぐと、允章が藩府以来の旧臣であることから、かなりの敬礼を加え、尚書左丞参知政事に抜擢した。允章はもとより宦官が政事を専断することを憎み、かつ性格は頑固で隠語を用いることを好まなかった。ここに至って直接、法を乱す者数人を誅すべきことを請い、綱紀を正そうとしたが、後主はこれに従うことができず、宦官の輩はすでに人々に切歯(歯ぎしり)されるほど恨まれていた。大寶初年、後主がまさに圜丘に祀りを行おうとし、その三日前、允章は礼官とともに壇に登り、四方を見渡して指図を行った。内侍監の許彦真がこれを望み見て、これは允章を誣告して殺すことができる機会だと考え、大声で「これは謀反である」と言い、剣を抜いて壇に上った。允章はこれを迎え撃ち、彦真を叱りつけた。彦真はすぐさま馳せて允章が謀反したと告げた。後主は言った、「朕は允章を厚く待遇している。どうしてこのようなことがあろうか」と。しかし龔澄樞・李托らが共にそれを事実だと証言したため、後主はついに允章を獄に下し、宦官と礼部尚書薛用丕を遣わしてこれを雑治(合同審理)させ、ついに允章一族を誅殺した。この日、天色は惨澹とし、国人は允章がもとより忠実で剛直であったことから、皆涙を流した。許彦真が誅殺されるに及んで、ようやく遺骸を収めて葬った。これより宦官はますます横暴となり、国もこれによって滅んだ。允章の詩文は甚だ豊富であった。乾和七年(949年)四月十日、「碧落洞天雲華御室記」を撰し、大いに文士に称賛された。その辞に曰く、

  • 「大漢が国を享(う)けて三十三年、歳次は己酉に当たり、季冬(十二月)、蓂莢(暦を示す瑞草)は十四葉を開いた。上(皇帝)は万機の暇があり、四海は波風なく、時はちょうど厳寒の頃、季節は冬狩に当たっていた。九卿は御駕に扈従し、百官は鑾輿に随い、英州を巡幸し、閬石に宿った。翌日、僊仗(儀仗)を並べ、翠華・羽衞を整え、旗幟は星の如く連なり、雲のごとく嶽霊が布かれ、風伯が警蹕(先払い)し、塵を清めた。上は龍章の絳袍を身にまとい、鳳文の翠綬を曳き、流黄鏤金の剣を佩び、霊飛凌崖の輿に乗り、この盤龍石室に行幸されたのである。伏して思うに、大聖文武玄德大明至道大廣孝皇帝陛下は、聖は天から賦与され、功は帝堯に等しく、道を味わい玄を探り、真元の教化を奉じ、端座して衮衣を垂れ、淳朴の風に返し、あらゆる制度は正しく、九囲(天下)はその範を承けている。そこで清虚の景を訪ね、汗漫(無限の境地)の遊を追い求めた。この山の絶景たるや、元化(造化)が機を興し、巨霊(山川の神霊)が智を運らし、丹台・璿室はまことに上帝の居であり、乳竇・芝房はまさに長生の境地のようである。白犬が吠えて壺中天は昼永く、幽禽が語らって洞壑には雲が深く、神草は華を含み、玄泉は瑞祥を注ぐ。そこで石牀を払って御座を設け、玉輦を停めて旒を凝らすと、ついに亀鶴が瑞祥を呈し、河宗(黄河の神)が器(宝物)を捧げるほどの感応があった。にわかに一人の道士がおり、短褐を着て、姿を整えてやって来た。自ら「野人」と称し、もとより姓名はないという。かつて葛先生がこの石室で丹砂を煉り、薬が完成すると炎を鎮めて雲に乗って昇った、その際、野人に火を守って神気を延ばし、丹をこの霊府に秘めさせ、あわせて「今より五百年の後、真人がここに降臨するはずであるから、お前はその還丹を献上せよ」と言い残したのだという。今おおよそこれを数えれば、重光単閼の歳から屠維作噩の年に至るまで、およそ四百九十年、はたして金徳の主がここに行幸することとなり、その言葉の正しさが証された。野人はそこで這いつくばって進み出た。上はその述べるところを喜んで聞き、「仙人よ、霊丹はどこにあるのか」と問うた。野人は「すぐ近くにございます」と答え、そこで峭壁の中で蔦を手繰り寄せ、小さな石函を取り出した。函の上には金文字の古篆で「九蛻之丹」の四字が記され、中には神丹七粒があり、大きさは黍粟のようで、光を放って人を射るほどであった。仙者は函を開いて丹を取り、自らこれを捧げ持って献上した。野人はたちまち踵を返して石の隙間に隠れ、その行方は知れなくなった。時に近臣が奏上して言った、『聖上の徳は玄微に契(かな)い、この霊異に感応されましたが、なお万民のことを心にかけ、四海を思いとされ、還丹を得られたとはいえ、軽々しくお召しになるべきではございません』と。上はその奏上をもっともとされ、左右を退け、そこで従臣の呉懷恩を召してこの丹を捧げ持たせ、御に随って石室の奥深い所へ行き、石を穿ってこれを秘め、群衆にはそれと知られないようにした。日を選んですぐさま道士たちに壇場を設けさせ、斎醮(祈祷の儀式)を行わせ、これによって霊験への謝意を申し述べた。これにより龍顔(帝の顔)は晴れやかに開き、円蓋(天)は思いを伸びやかにし、ゆるやかに瑶琴を撫でて流泉の激しい音色を奏で、自ら宸翰(御筆)を揮って睿思(叡智)を縦横に奮い、九成の簫韶(舜の音楽)を奏でると、煙霞は縹緲とし、百獣が相率いて舞う様に感応し、洞府はにぎやかに満ち、諸侯は子のように来朝し、皆禹の会に朝するがごとくであり、多くの仙人が集まり来て、競って堯の長寿を祝うがごとくであった。微臣は栄えて紫垣(朝廷)に列し、鑾駕に随行することができ、仙霊秘奥の事を記そうとしても、良い辞句に乏しいことを恥じ、聖朝の輝かしい功を頌えようとしても、麗しい辞藻がないことを慚じる。綸旨を拝承し、ひたすら恐懼するばかりである。」(残りの文の多くは散逸して伝わらない)

史論

  • 論じて言う。簡文會・鍾允章の立身は、いずれも文辞によって高第に選ばれ、剛直な性質が生まれつき備わっており、撓むことのない様はほとんど「松柏の姿は霜を経てますます茂る」と言われる類であった。しかしながら、あるいは外郡に謫死し、あるいは一族と妻子までも及んで、衰乱の朝廷にあってその戮辱を免れることができた者は少なかった。