十国春秋卷六十三 南漢六 列傳 王翷

王翷

  • 王翷は大有の末、積官して右僕射兼西院御史に至った。高祖が病篤(あつ)くなったとき、越王𢎞昌が賢であることをもって次を踰えてこれを立てようとし、翷に謀った。翷は高祖のために策を画し「まさに秦王を邕州に出し晉王を容州に出してから越王を立てて太子とすべきです、これは万全の計です」と言った。秦王とはすなわち殤帝であり、晉王とはすなわち中宗である。まもなく蕭益がこれを力めて止め、事はついに行われなかった。
  • 中宗の時、左僕射に進んだ。乾和三年、翷が長を廃して少を立てようとした罪を追及され、英州刺史に出され、まもなく道中で死を賜った。

史論

  • 論じて曰く、論者は越王には賢行があり、殤帝・中宗はみな淫暴の主であったとして、もし王翷の計が行われていたら未だ必ずしも国の福とならなかったとは言えない、と言う。しかし嫡を立てるに長をもってするのは大居正(たいきょせい、正統を重んずる)の義である。益の持議は要するに易(か)うべからざるものであった。侯融は乾亨のあいだに兵を弭めることを力めて勧めたのは切に機宜に中(あた)っており、固より蕭俛(唐の蕭俛、汰兵を説いた)が兵を汰(へら)そうとしたのとは殊なるものがある。棺を斵(き)られる横難に遭ったのは、その人を得なかったことによるのであろうか。