十国春秋十國春秋卷六十三 南漢六 蘇章・梁克貞ら將臣文臣列傳
収録される人物
- 武将の部に蘇章・梁克貞(李守鄘を附す)・程寶・孫德威、文人の部に王宏・梁嵩・王詡・張瀛、使臣の部に何瑱・劉瑭・何詞・李紓・鄭翺、諫臣の部に侯融・蕭益・王翷、末尾に蕭規・孫惠・滕紹英・萬景忻を立てる。
蘇章
- 牙校として高祖に仕え、功を積んで左右街使に至った。
- 大有初年、楚が水軍を挙げて封州を侵した。蘇章は神弩三千と戦艦百艘を率いて救援に向かった。
- 賀江に至ると、水中に鉄の綱を沈め、両岸に巨大な轆轤を据えて堤を築いて隠した。そのうえで軽舟で迎え撃ち、偽って敗走した。楚人は臆病と見て追撃したが、章が巨輪を回して綱を引き上げ楚の舟を鎖でつなぎ止めたので、楚の舟は進退できなくなった。そこへ川の両岸から強弩を射かけ、楚軍は大敗して囲みを解き逃げ去った。
- 高祖は章を封州團練使に改任した。章は驍勇で戦上手なうえ、その用兵は多く古の兵法にかなっており、当代の名将となった。
- 子は五人でみな中郎將となり、豪侠で気概があったので、世に「五郎將」と呼ばれた。
梁克貞(附・李守鄘)
- 蘇章と同時代に用兵にあたった。すべてに巧みというわけではなかったが、勇略は章に次いだ。
- 大有三年(930年)、交州が乱れると高祖は克貞に征討を命じ、節度使の曲承美を捕虜とした。
- ついで占城に入って宝貨を奪って帰った。これによって南蛮は大いに恐れ兵威に服したが、実に克貞の力によるものである。
- このとき事を共にした李守鄘の功も克貞と肩を並べた。
程寶
- 出自は不明。高祖のとき承旨の官にあった。
- 大有四年(931年)、楊廷藝が交州を包囲した。寶は兵を率いて救援に赴いたが、到着前に城は陥落した。そこで交州の廷藝を攻めたが、ついに敗戦して死んだ。
孫德威
- 勇敢で膂力があり、しばしば高祖の征伐に従い、戦えばつねに軍中第一であった。
- 大有九年(936年)、兵を率いて楚の蒙州・桂州を侵したが、やがて楚の文昭王に圧迫され、蒙州から兵を退いた。数年後に没した。
史論
- 蘇・梁・李の三将はいずれも嶺表の勇臣である。将を斬り旗を奪う功では蘇章が最も大きく、梁克貞・李守鄘がこれに次ぐ。
- 程寶と孫德威は一方は戦死し一方は生還し、その用いどころを全うできなかったが、敗軍の帰趨がすべて戦いの罪といえようか。
王宏
- 出身地は原文欠。若くして聡明で詩賦に巧みであった。乾亨年間に進士から翰林學士承旨となり、側近に筆を執って厚く信任された。
- 白い虹が白龍に変じて三清殿に現れたとき、宏は「白虹化白龍賦」を作って献じた。文采は雄大華麗で辞旨も伸びやかであったため、高祖は喜んで白龍と改元し、深く賞賛した。
- のちに「昭陽殿賦」も撰し、これも当時称賛された。
梁嵩
- 潯州平南の人。白龍元年(925年)に進士の首席となり、翰林學士に至った。
- 当時の政治が虐政に傾いているのを見て、母を養うため帰郷したいと願い、「倚門望子賦」を献じて志を示した。高祖は憐れんで許した。賜物はすべて辞退して受けず、本州の一年分の丁賦を免除するよう請い、これは容れられた。
- 没後、州の人々はその徳を慕い、毎年の祭祀が絶えなかった。一説には、嵩は白馬に乗って東壕の墟に遊び、渡し場で溺死したといい、今も白馬廟がその遺跡として残るという。
王詡
- 「王翃」に作る本もある。南海の人。高祖が県名を改めたのち咸寧の人となった。
- 乾亨初年に進士に及第し、中書舍人を拝した。白龍が南宮に現れたとき「白龍頌」を献じ、その文采は見事であった。
- 大有七年(934年)に昭陽殿が完成すると、詡はまた「昭陽殿賦」を著して献じた。
- このとき賦を献じた者は数十百人にのぼったが、詡が第一と称された。賜与が少しでも遅れると、詡は必ず「私の賦は一字一字が金の響きを立てる。なぜ賜与がこう遅いのか」と公言した。その自負ぶりはこの通りであった。
張瀛
- 出身地は原文欠。父の張碧は詩名の高い人であった。瀛はその学を受け継ぎ、累進して戸曹郎に至った。
- かつて長歌を作って琴棋の僧に贈り、同僚たちは「あの父にしてこの子あり」と称えた。
何瑱
- 高祖に仕えて左僕射となった。堂々たる風采と容貌を備え、文才も豊かであった。
- 大有年間、呉越の武肅王が薨去すると、命を承けて呉越に赴き祭を致した。言論も挙措も嗣王の心にかない、高祖は大いに喜んだ。
劉瑭
- 乾亨年間に客省使の官にあった。高祖が自ら帝位に即くと、瑭に命じて呉に使いさせ即位を告げ、あわせて呉王楊隆演に皇帝を称するよう勧めさせた。
- まもなく江南から帰って復命したが、その後の消息は不明である。
何詞
- 累進して宮苑使に至った。後唐の荘宗が梁を滅ぼしたと聞いて高祖は恐れ、詞を遣わして中原の強弱を偵察させた。
- そのとき「大漢國主より大唐皇帝へ」と称して書を送り、対等の礼をかなり主張して屈しなかった。
- 詞は帰って「唐主は驕り淫らで政治がなく、恐れるに足りません。まもなく乱れましょう。遠くまで及ぶはずがありません」と報告した。高祖はこれ以後、中国と通交しなくなった。
- 一年余りで荘宗は弑され、人々はみな詞の先見の明を称えた。
李紓
- 大有年間に諫議大夫となった。風采が優れ、文辞も応対も見る者を感服させた。
- 宰相の趙光裔が「楚はもともと婚姻の国で旧交を忘れてはならない。李紓には才があり使命を担わせられる」と述べたので、紓が楚への使者となった。
- 楚の文昭王は紓に会って大いに喜び、手厚くもてなし、使者を送って報聘し、二国の交誼を回復した。
- この使行によって隣国と睦み、旧来の婚姻を継ぎ、辺境を安んじ、敵兵をやめさせた。策は趙光裔から出たが、実際に成し遂げたのは紓であった。
鄭翺
- 出身地は原文欠。累進して都官郎中に至った。
- 大有年間、高祖は江南と和好し使者の往来が絶えなかった。当時、南唐の烈祖は誕生日を仁壽節としていたので、翺を遣わして祝賀させた。翌年帰り、その職で没した。
史論
- 信義を守り睦みを修めて隣国と通じるには、ひとえに使臣の働きが頼りである。ここに挙げた諸臣はみな颯爽たる使者の人選であった。
- 康陵(高祖)の時代、使節の往来が絶えず聘問に努めたおかげで、わずかな嶺外の地が平穏で小康を保った。これもまた使者の力によるものである。
侯融
- 出身地は原文欠。高祖に仕えて著作佐郎となった。人柄は気概があり直言を好んだ。
- 高祖の初年、しばしば兵を窮め武を濫用して征伐にあけくれたので、融は機を見て兵をおさめ民を休め南方の地を安んじるよう勧め、高祖もしだいにこれに従った。
- のち交州の乱で交王弘操が戦死した。高祖は国の兵が振るわないのは融の「兵を退けよ」という進言のせいだとした。融はすでに没して数年たっていたが、追って咎め、棺を割いてその屍を晒した。
蕭益
- 唐の元宰相蕭倣の孫。大有初年に累進して崇文使となった。
- 当時、交州が乱れて皎公羨と呉權が争っていた。高祖はその乱に乗じて交州を取ろうと、子の弘操を交王として兵を率い公羨を救わせようとした。
- 益は「呉權は凶猾で軽んじてはなりません。今は長雨が十日も続き海路は険しく遠い。大軍は慎重に構え、案内人を多く用いてから進むべきで、そうでなければ兵は収まりません」と諫めたが、高祖は聞かず、弘操は果たして敗死した。
- まもなく高祖の病が篤くなり、右僕射の王翷と謀って秦王・晉王の二王を外に出し、第五子の弘昌を立てようとした。詔命が下ろうとしたところへ益が見舞いに参内したので、高祖はその事情を告げた。
- 益は「嫡子を立てるには年長者をもってします。これに背けば必ず乱れます。年少の者を立てれば禍はここから始まります」と諫めた。こうして殤帝がついに立つことになった。
王翷
- 大有の末年に累進して右僕射兼西院御史に至った。
- 高祖の病が篤いとき、越王弘昌が賢明であることから順序を越えて立てようと考え、翷に相談した。翷は「秦王を邕州に、晉王を容州に鎮せしめ、そのうえで越王を太子に立てるのが万全の計です」と策を立てた。秦王が殤帝、晉王が中宗である。
- しかし蕭益が強く止めたため、この事は行われなかった。
- 中宗のとき左僕射に進んだが、乾和三年(945年)、長を廃して少を立てようとした罪を追及され、英州刺史に出され、まもなく道中で死を賜った。
史論
- 論者は、越王には賢い行いがあり殤帝・中宗はいずれも淫暴の主であったから、王翷の計が実行されていれば国の幸いであったかもしれない、という。
- しかし嫡子を立てるには年長者をもってするのが大いに正しい道であり、蕭益の主張は動かしがたい。
- 侯融が力を尽くして兵をやめるよう勧めたのは、乾亨の当時にあって時宜にかなっており、(唐の)蕭俛が兵を削減した例とは事情が違う。棺を割かれる横死に遭ったのは、彼もまた人に恵まれなかったというべきか。
蕭規
- どこの郡県の人か未詳。光天元年(942年)、殤帝の命を奉じて南唐に喪を告げた。その後の事跡は原文欠。
孫惠
- 高祖父子に仕えて法物使となった。光天元年(942年)、蕭規に続いて金陵に即位を告げに赴き、使臣としての体面をよく保ったので、当時の人はその才を称えた。
滕紹英
- 出身地は原文欠。当時、南唐の烈祖の仁壽節には高祖が使者を送って祝うのが毎年の恒例となっていた。
- 殤帝が位を継いで先例どおり使臣を選ぼうとしたとき、朝臣はみな紹英に応対の才があると推薦し、紹英が命を受けて赴いた。
萬景忻
- 若くして驍勇により牙校となり、大有年間に功を積んで指揮使に至った。
- 殤帝の即位当初、循州の賊張遇賢が乱を起こし、殤帝は越王弘昌・循王弘杲に討伐を命じたが、軍は敗れ、二王は包囲されて脱出できなくなった。
- 当時、景忻は王の麾下にあり、指揮使の陳道庠とともに弓弩を携えて馬を駆り敵陣を突き、力戦して二王を救い出した。
- 應乾元年(943年)、景忻は再び循州で遇賢を破った。遇賢は嶺を越えて北へ去り二度と戻らなかった。循州平定の功では景忻が第一であった。