十国春秋十國春秋卷六十四 南漢七 陳偓・呉懷恩ら列傳
収録される人物
- 陳偓・盧膺・鄧伸・李璵、呉懷恩・呉恂・謝貫、簡文會・鍾允章、劉博古・曾芳・謝傑を立てる。
陳偓
- 系譜は史書に伝わらない。歴任して戸部侍郎に至り、乾和二年(944年)に知政事となった。
- 越王弘昌が殺害されたのち、中宗は朝臣から宰相を選び、偓を同平章事とした。偓は在職中これといった長所も短所もなく、席を埋めるだけであった。
盧膺
- 高祖に仕えて工部侍郎となり、大有年間に太尉を加えられた。謝宜清らとともに呉越へ使いし、錢傳璛の娘を継室の后に迎えたいと求めたが、成果なく帰った。
- 膺は文才が優れ、格式をよくわきまえていた。中宗のとき中書侍郎・同平章事を拝し、乾和十五年(957年)冬に在官のまま没した。
鄧伸
- 乾和年間に特進に至った。父の鄧璫は指揮使の陳道庠の旧友であった。
- 道庠は力士の劉思潮らを引き入れて殤帝を弑した。思潮らが誅されると、道庠は恐れて落ち着かなかった。伸は父の友人であることから荀悦の『漢紀』を贈って諷した。
- 道庠がその理由を問うと、伸は「無粋な男よ、この書には韓信を誅し彭越を醢にした話がある。よく読んでおくがよい」と答えた。
- 中宗はこれを聞き、道庠を一族もろとも誅し、伸にも罪を及ぼした。
李璵
- 中宗に仕えて給事中となった。乾和年間、交州の呉昌文が臣を称してきたので、中宗は靜海の節鎮と安南都護を与え、璵に旌節を持たせて招かせた。
- ところが昌文の心変わりがあり、璵が白州の地に着いたところで急に人を遣わし「海賊が蜂起して道が塞がっている」と言って止めた。璵はそのまま帰った。数年後に没した。
呉懷恩
- 番禺の人。光天年間に内常侍となった。殤帝が驕り淫らで節度がないのをしばしば強く諫めたが聞き入れられなかった。中宗が即位すると開府儀同三司に進んだ。
- 乾和年間、楚王馬希廣が庶兄と国を争ったので、中宗は懷恩を西北面招討使として楚を撃たせ、賀州を抜き、続いて昭州も陥れた。
- まもなく兵を率いて北征し、蒙・桂・宜・連・梧・嚴・富・昭・柳・象・龔の十一州の地をすべて得た。当時、戦上手といえば皆が懷恩を筆頭に挙げた。同時代にはほかに呉恂・謝貫がいた。
呉恂
- 「呉珣」に作る本もある。将として奇計を出すのに巧みで、乾和年間に歴任して巨象指揮使に至った。
- 呉懷恩とともに賀州を抜いたのち、楚人が救援に来た。恂はあらかじめ城下に大きな落とし穴を掘り、上を簀で覆って土をかぶせておいた。楚將の徐知新らが城に迫ると、恂は穴の中から仕掛けを外させ、楚人はことごとく穴に落ちて数知れず死んだ。知新らは逃げ帰った。
- 恂はさらに桂州の境を侵し、全州を掠めて帰った。
謝貫
- 功を積んで将軍となった。もとより胆力と勇気があり、激戦を好んで当時に名を得た。
- 乾和九年(951年)、潘崇徹とともに郴州を攻め、唐兵の来援に遭ったが、その将の邊鎬を義章で破り、ついに郴城を陥れた。これによって嶺表の領域はいっそう広がった。
史論
- 呉懷恩の攻城略地は枯木を折るような勢いで、熊のごとく羆のごとしという評にも恥じない。
- 呉恂は機を見て計画を立て、その神算に遺漏なく、将としての器量があった。
- 謝貫は勇烈の名を負い、郴陽の一戦で疆土を定めた。要するに昭陵(中宗)の武を奮って向かうところ敵なしであったのは、この諸臣の功が第一である。
簡文會
- 南海の人。乾亨元年(917年)に南海を咸寧・常康の二県に改めたので、咸寧の人となった。
- 幼くして聡明で詩に巧みで、性格は剛直であった。高祖が初めて進士科を開いたとき、首席で及第し、累進して尚書右丞に至った。
- 乾和年間、中宗の残虐を強く諫めたため、中宗は激怒して禎州刺史に左遷した。文會は民政に心を尽くし、在官のまま没した。
- 住んでいた里には「簡狀元井」がある。
鍾允章
- 先祖は邕州の人で、番禺に移り住んだ。博学で文辞に富み、剛直で権勢を恐れなかった。
- 高祖が科挙を設けて士を取ったとき進士に及第し、累進して中書舍人に至った。とくに中宗に認められ、詔勅や碑記の多くは允章に起草させた。允章は文思が敏捷で筆を執ればたちどころに成ったので、名声は高かった。
- しばしば羅浮山への行幸に従い、勅に応じて詩を作るたびに称賛を受け、工部郎中・知制誥を拝した。
- 乾和年間、楚に使いして婚を求めたが、楚王馬希廣は許さなかった。中宗は怒って「馬公はまだ南の地を経略できるつもりか」と允章に問うた。当時、楚の恭孝王が武陵で挙兵して湖南は大いに乱れていたので、允章は楚の兄弟が争っており攻め取れる状況にあることを詳しく述べた。
- 中宗は決然と兵を出して賀州・昭州などを抜き、行く先々で勝利を収めた。これは実に允章の一言の力である。中宗はその功を嘉し、賞賜は数え切れなかった。
- しばらくして有司が「允章は名儒であり儲貳(皇太子)の傅とすべきだ」と奏し、命を受けて後主の輔導にあたった。
- 中宗が崩じ後主が帝位を継ぐと、允章は藩府時代の旧僚として厚く礼遇され、尚書左丞・參知政事に抜擢された。
- 允章はもとより宦官の専権を憎み、また生来の愚直さから遠回しな物言いができず、そのまま法を乱す者数人を誅して綱紀を正すよう請うた。後主は従えず、宦官たちは皆すでに歯噛みしていた。
- 大寶初年(959年)、後主が圜丘を祀ろうとし、その三日前に允章が礼官とともに壇に登り、四方を見渡して指図し神位を設けた。内侍監の許彦真はこれを遠望し、允章を誣告して殺す好機だと考え、「これは謀反だ」と声を上げ、剣を抜いて壇に登った。允章が迎え撃って彦真を叱ると、彦真はただちに駆けて允章の謀反を告げた。
- 後主は「朕は允章を厚遇している。そんなことがあろうか」と言ったが、龔澄樞・李托らがそろってこれを裏づけたので、允章を獄に下し、宦官と禮部尚書の薛用丕に共同で取り調べさせ、ついに一族もろとも誅した。
- その日は空が暗く陰り、国人は允章が日ごろ忠直であったことから皆涙をぬぐった。彦真が殺されてからようやく遺骸が葬られた。
- 自後、宦官はますます横暴となり、国もこれによって滅んだ。
- 允章の詩文はきわめて多い。乾和七年(949年)に撰した「碧落洞天雲華御室記」は文士に大いに称えられた。その大要は次のとおりである。
- 大漢建国三十三年、己酉の年の冬、政務に余暇があり四海も波静かであったので、冬狩に事寄せて九卿・百司が鑾駕に従い、英州を巡って閬石に宿った。
- 翌日、儀仗を整え羽衞・旗幢を連ね、山の神霊が先払いし風伯が塵を払うなか、龍章の絳袍・鳳文の翠綬を着け、流黄鏤金の剣を佩び、崖を越える輿に乗って盤龍石室に行幸した。
- 皇帝の聖徳は天授で功は帝堯に及び、道を味わい玄を探って真元の化を奉じ、垂拱して淳朴の風を返し、諸事は正しく天下は法に従っている。そこで清虚の境を訪い、悠遠の遊を求めたのである。
- この山の勝景は、造化の霊が知恵を運んだものというべく、丹臺・璿室はまことに上帝の居、乳竇・芝房はまさに長生の境である。白犬が吠えて壺中の天は昼が長く、幽鳥が語って洞壑には雲が深い。神草は花を含み玄泉は瑞を注ぐ。
- 石牀を払って御座を設け玉輦をとめて佇むと、亀鶴が祥を呈し河宗が宝器を献じた。
- ほどなく短い褐衣の道士が現れ、容を正して「野人であり本来姓名はない」と称し、次のように語った。昔、葛先生がこの石室で丹砂を煉り、薬が成ると炎を鎮め雲を踏んで昇天し、野人に火を守って霊府に秘丹を保たせた。そして五百年後に真人がここに降るから、その還丹を献ずるようにと言い残した。
- 概算すれば重光単閼の歳から屠維作噩の年まで四百九十年、果たして金德の主が来臨されたのだから、あの方の言葉が確かだったのは明らかである、と述べ、這うようにして進み出た。
- 皇帝は喜んでこれを聞き、仙人の霊丹はどこにあるかと問うた。野人は「すぐそこです」と答え、絶壁の蔦をかき分けて小さな石函を取り出した。函には金文字の古篆で「九蛻之丹」の四字が題され、中には黍粟ほどの大きさの神丹七粒があり、人を射るほど輝いていた。
- 仙人が函を開いて丹を取り自ら献じると、野人はたちまち踵を返して石の裂け目に隠れ、行方が知れなくなった。
- このとき近臣が「聖上の徳は玄微に契い、この霊異を感じ得られました。しかしなお兆民を心にかけ四海を思われる身であれば、還丹を得てもみだりに服されるべきではありません」と奏した。皇帝はこれを容れ、左右を退け、従臣の呉懷恩を召して丹を捧げさせ、石室の奥深いところに石を穿って秘蔵させた。そのありかは誰も知らない。
- 日を選んで道士たちに壇場を設けさせ、斎醮を行って霊験に感謝を告げた。
- こうして帝顔は晴れやかとなり、瑶琴を撫でて流泉の響きを奏で、自ら宸筆を揮って睿思を縦横に走らせた。九成の簫韶を奏でれば煙霞は縹渺とし、百獣が率いて舞い洞府はにぎわい、群臣はそろって禹の会盟のごとく朝し、衆仙も集まって堯の長寿を競い祝した。
- 自分は紫垣(中書省)の末席を汚し鑾輅に従うことができた。仙霊秘奥の事を記すには美辞に乏しく、聖朝の輝かしい功を頌するには麗藻もない。詔旨を承って恐懼にたえない。
- そのほかの文は多く散逸して伝わらない。
史論
- 簡文會と鍾允章はともに文辞によって高第に及第して身を起こしたが、剛直は生まれつきで、堂々として屈しなかった。松柏の姿は霜を経てますます茂るというのは、まさにこのことであろう。
- しかし一方は外郡に左遷されて死に、一方は妻子まで族誅された。衰乱の朝廷にあって、殺戮や辱めを免れる者は少ないのである。
劉博古
- 家系は不明。乾和年間に潯州刺史となり、恵み深い政治を行って民に慕われた。
- 博古はかつて陸公井のほとりに橘を植えたので、潯州の人は「橘井」と呼び、その遺沢を記念した。
曾芳
- どこの人か未詳。後漢のとき廣州刺史となった者があり、芳はその後裔である。
- 南漢に仕えて程郷令となり、政は清く刑は簡素で、仁愛をもって知られた。
- 当時、程郷の民は瘴癘に苦しんでいたので、芳は薬を配って救った。遠近から求める者が日に千百を数え、列をなして絶えなかった。そこで芳は大きな袋に薬を入れて井戸に沈め、病人に汲んで飲ませたところ、皆たちまち回復した。
- 後世の人はその井戸を「曾井」と名づけ、井戸のかたわらに祠を立てた。邑の人が祀って水を飲むと、初めと同じように病が癒えた。
謝傑
- (年代は原文欠)高州刺史となった。管内に虎が多く、夜に城中に入って荒らし、人々は安心して住めなかった。
- 傑はある日、沐浴して城隍の神のもとに詣で、杯を挙げて「愚かな民に何の罪があって虎に害されるのか。これは刺史に徳化がないためだ。願わくは虎は刺史だけを食い、民を傷つけないでほしい」と祈った。そして左右を退け、独りで社殿の庭に宿った。
- その夜、三更のころ廟の東南の隅で何かが雷のような声で吼え、しばらくして止んだ。夜明けに見ると、数頭の虎がことごとく死んでいた。