周傑
- 周傑は厯筭(暦算)に精しく、唐の開成中、進士に登り弘文館校書郎より起家し、水部員外郎に擢し司農少卿に遷った。常に大衍の暦数に差があるとし、これによってその法を敷衍して『極衍』二十四篇を著し、天地の数を究めた。当時天下がまさに乱れようとしたとき、傑は天文の占をもって「ただ嶺南のみ以て地を避けるべし」と言い、そこで弟の鼎を遣わして封州録事参軍を求めさせた。
- 天復中、傑は家を携えて南に来た。烈宗はその名を習い聞き、幕府に招いて上賔として遇し、しばしば天道の災変を問うた。傑は自ら年老いて常に名を中朝に策(かんむり)していたことをもって星術をもって人に事えることを恥じ、時に疾ありと称してこれに応じなかったが、烈宗もまたこれを罪としなかった。
- 高祖が帝位に即くに及んで、これを強いて起用し司天監事を知させ、国祚が享ける年数を占わせた。傑は周易をもってこれを筮い、比の卦が復に之(ゆ)くのに遇ったと断じ「卦に二つの土があり、土数は五を生じ十に成る。二五相比しているので、これを歳数で言えば当に五百五十であろう」と言った(一に「傑が易を筮い復が豐に之くのに遇ったといい、『およそ二卦は皆土である。応土の数は五、二五は十である。上下各々五であれば、まさに五百五十であろうか』と曰う」ともいう)。高祖は大いに喜び賜わることが加わった。後主が宋に降るに及んで、まさに五十五年を得た。これは傑が成数を挙げて忌みを避け、十をもって百と謬(あやま)り称したものであろう。
- 大有中、太常少卿に遷り、卒したときの年は九十余であった。子の茂元には別に伝がある。