王定保
- 王定保は南昌の人である。唐の光化三年、進士第に挙げられ、南のかた湖湘に逰んだが馬氏に礼せられなかった。まもなく唐の容管廵官となったが乱に遭って還ることができず、烈宗はこれを招いて礼を尽くし幕属に辟した。
- 高祖が帝を称そうとするに及び、定保が従わないことを憚り、先んじて定保を荊南に使いに出させた。即位に及んで定保が帰ってきて、その心がまだ善くないことを知ると、倪曙を遣わして先んじて迎え労わせ、かつ建国の事を告げさせた。定保は「建国にはまさに制度あるべきです、私が南門に入ればまだ清海軍額はなお存しています、四方に笑われないでしょうか」と言った。高祖は笑って「朕は定保を備え置くこと久しいが、まだこれを思わなかった、その譏りは尤(もっと)もである」と言った。
- 大有の初め、寧遠軍節度使の官についた。十三年冬、趙損に代わって中書侍郎同平章事となり、年を踰えずに卒した。定保は文辞を善くし、高祖はかつて南宮を作って土木の盛んなること極まりなかったが、定保は「南宮七奇賦」を献じてこれを美め、一時絶論と称された。著すところの『摭言』十九巻がある。定保の妻の呉氏は唐の侍郎子華の女であった。定保はすでに北に帰る意なく、呉はそこで緇服(僧衣)を纏い、身を終えるまで改嫁しないと誓った。