十国春秋十國春秋卷六十 南漢三 後主劉鋹

南漢の第四代にして最後の君主、劉鋹(初名は繼興、?–980年)。中宗劉晟の長子で、十六歳で位を継ぎ大寶と改元した。政務を宦官の龔澄樞・李托・陳延壽や才人の盧瓊仙、女巫の樊胡子に委ね、登用を望む臣に宮刑を課したため宦官は数千人に達した。宮室と珍宝に耽り、真珠採りの媚川都を置くなど苛斂を重ね、酷刑を好んだ。宋の潘美・尹崇珂の南征に賀州から韶州まで次々と城を失い、大寶十四年に素衣白馬で降伏して南漢は滅んだ。汴京で恩赦侯に封ぜられ、のち衞國公に進んで太平興國五年に没した。

年表(19件)
  • 乾和十六年958年中宗の長子として十六歳で位を継ぎ、名を鋹と改めて大寶と改元した
  • 大寶二年959年宦官の誣告により旧僚の鍾允章と二子を殺し、龔澄樞に軍国の事を委ねた
  • 大寶三年960年宋が興り邵廷琄が備えを説いたが容れず、弟の桂王劉璇興を殺した
  • 大寶五年962年宦官の李托を内太師・六軍觀軍容使とし、国政をすべて托に諮らせた
  • 大寶五年962年鍾允章を讒殺した許彦真を、龔澄樞の逆襲により一族もろとも誅した
  • 大寶六年963年合浦県に媚川都を置いて海に潜り真珠を採らせるなど、賦斂と酷刑を極めた
  • 大寶七年964年宋の潘美・尹崇珂に郴州を奪われ、邵廷琄を招討使として洸口を守らせた
  • 大寶八年965年功を忌む者の誣告により、招討使の邵廷琄に自尽を賜った
  • 大寶八年965年交阯の丁部領が死に、その子の丁璉を交州節度使とした
  • 大寶十年967年興王府に千佛寶塔を造らせた
  • 大寶十三年970年宋の道州を侵し、帰服を勧める江南国主の書を退けて使者の龔慎儀を囚えた
  • 大寶十三年970年潘美が南郷の伏兵で伍彦柔を破って賀州を陥れ、昭州・桂州・連州も失われた
  • 大寶十三年970年李承渥の象陣が蓮花峯下で宋の強弩に崩れ、嶺南の北門である韶州が陥落した
  • 大寶十四年971年英州・雄州が陥ち、都統の潘崇徹が衆を率いて宋に降った
  • 大寶十四年971年馬逕の柵を焼かれて郭崇岳が戦死し、龔澄樞らは宮殿と府庫を焼き払った
  • 大寶十四年971年素衣白馬で潘美に降り、宗室・文武百官とともに汴京へ護送された
  • 大寶十四年971年宋太祖は澄樞・李托・薛崇譽を斬り、後主の罪は赦して恩赦侯に封じた
  • 開寶八年975年江南平定ののち左監門衞上將軍に遷り、彭城郡公に進封された
  • 太平興國五年980年衞國公として薨去。享年三十九。太師を贈られ南越王を追封された

出自と即位

  • 後主の名は鋹、初名を繼興といい、衞王に封ぜられた。中宗の長子である。
  • 乾和十六年(958年)八月辛巳、位を継いで名を今の鋹に改め、その年を大寶元年と改元した。
  • 即位時の年齢は十六歳。政務は宦官の龔澄樞・陳延壽、および才人の盧瓊仙らに委ねた。臺省の官は員数を埋めるだけの存在となり、機密の事には多くあずかれなかった。
  • 祖父・父の奢侈を受け継ぎ、萬政殿を建てた。柱一本の装飾に白金三千錠を用い、銀で殿の外装を作り雲母を交ぜた。名目のない出費が日に千萬を数えた。
  • この年、羅浮山に天華宮を建てた。もともと後主は、羅浮山の西、迎祥寺の西北に両岸が重なり一つの洞が向かい合って流れる、宮を建てるによい地がある、と神人に示される夢を見た。その地を尋ねると金沙洞であったので、そこに宮を築いた。のちに宮の場所から金龍が起つ夢を見たため、名を黄龍洞と改めた。

大寶二年(959年)

  • 秋(月次は原文欠)、中書舍人の鍾允章を尚書右丞・參政事に抜擢した。後主は允章が藩府時代の旧僚であることから厚く任用した。
  • 允章は綱紀を正すため法を乱す者数人の誅殺を請うたが、後主は容れなかった。宦官たちはこれを聞いて允章を憎んだ。
  • 冬十一月、内侍監の許彦真が鍾允章を謀反と誣告し、龔澄樞・李托がこれを裏づけた。後主は允章とその二子を殺した。
  • 辛亥、後主は圓丘を祀り大赦した。玉清宮使の龔澄樞を左龍虎觀軍容使・内大師とし、軍国の事はすべて彼の裁定を仰ぐようになった。
  • 後主は愚かで、群臣は家室を持ち子孫を顧みるから忠を尽くせない、親しく任せられるのは宦官だけだと考え、登用を望む群臣にはまず自ら宮刑を受けさせてから用いた。
  • 澄樞らが政を専らにすると、後主は宮婢の波斯女と日々淫戲にふけり、深く寵愛して「媚豬」の号を与え、自らは蕭閒大夫と称して政務に出なくなった。宦官は七千余人にのぼり、三公・三師を加えられた者も少なくなかった。女官にも師傅・令僕といった名目が置かれた。
  • 陳延壽はさらに女巫の樊胡子を引き入れた。胡子は玉皇が自分の身に降りたと称し、後主は内殿に帳幄を設け宝貝を並べた。胡子は遠遊冠をかぶり紫霞の裾を着けて帳中に座し、禍福を宣し、後主を「太子皇帝」と呼んだ。国事の多くが胡子の判断で決まり、盧瓊仙・澄樞らは争ってこれに取り入った。胡子は瓊仙・澄樞・延壽はみな天から太子を輔けに遣わされた者で軽々しく罪を加えてはならぬ、と偽った。その荒唐無稽はおおむねこの類である。ほかに梁山師・馬媪の輩も宮中に出入りし、宮中の婦人が冠帯を着けて外朝の事を取り仕切った。

大寶三年(960年)

  • 春正月甲辰、後周が宋に禅譲し、宋は建隆と改元した。
  • 内常侍の邵廷琄が、真主がすでに現れた以上、必ず天下を併呑するであろうから、兵を整えて備えるか、さもなくば珍宝を挙げて中国に献じ使者を通じるべきだと進言した。後主は暗愚で顧慮せず、その率直な物言いを憎んで深く恨んだ。
  • 三月、後主は弟の桂王劉璇興を殺した。先に陳延壽が、先帝が陛下に位を伝えられたのは弟たちを皆殺しにしたからだと献策し、後主はこれに頷いていた。璇興の死で上下はみな怨み、綱紀は大いに壊れた。
  • 夏四月、賀乾德節。
  • 驩州の牙將丁部領が交阯の事を統べ、大勝王を号した。先に呉昌文が没すると、その参佐の呂處玶が峯州刺史の喬知祐と争って乱を起こしたが、丁部領は子の丁璉を率いて處玶を破り、衆に推戴されたのである。
  • この年、茘枝の熟する時季に紅雲宴を設けて後宮を楽しませ、以後毎年の恒例とした。

大寶四年(961年)

  • 夏四月癸巳朔、日食があった。
  • この年、宮殿に野生の菌が生え、野獣が寝所の門に突き当たり、狐が鳴き鬼が哭した。また苑中の羊が珠を吐き、御井のかたわらの石がひとりでに立って百歩あまり歩いて倒れた。樊胡子はこれを偽って瑞祥とし、群臣に祝賀を勧めさせた。

大寶五年(962年)

  • 冬十二月、宦官の李托を内太師・六軍觀軍容使とした。もともと後主は托の養女を納れ、長女を貴妃、次女を美人として寵愛していた。ここに至って国政はすべて托に伺いを立ててから行うよう詔した。
  • この年、許彦真を一族もろとも誅した。彦真は鍾允章を讒殺したのち、龔澄樞が自分の上位にあるのを憎み謀って誅そうとしたが、澄樞が先手を打って彦真の謀反を告げさせたためである。
  • このころ、城内では乾亨鉛錢、城外では乾亨銅錢が流通し、禁を犯す者は死罪であった。百官の俸禄で銅錢を給されるのは多くが特別の恩恵によるものだった。

大寶六年(963年)

  • 冬十一月、宋が乾德と改元した。
  • このころ後主は、焼く・煮る・皮を剥ぐ・肉を削ぐ、刀山・劍樹といった刑を作り、罪人に虎と闘わせ象に当たらせたりした。
  • 賦斂も苛烈で、邕州の民は入城のたびに一人一錢、瓊州は米一斗につき五錢の税を課された。合浦縣に媚川都を置いて課役を定め、海に五百尺潜って真珠を採らせた。住まう宮殿は真珠と玳瑁で飾り、さらに魚英・托鏤の椰子・立壺など諸々の宝器をその中に置いた。魚英とは魚の脳骨を火であぶり加工して器としたもので、嶺海の人はこれを稀有の品としていた。
  • 宦官の陳延壽はさまざまな贅を凝らした細工を作り、動けば黄金を斗で費やした。離宮は数十に及び、後主は時を選ばず行幸して一月余りあるいは十日ほど滞在し、その都度富民に課して千人分の食事を供させた。

大寶七年(964年)

  • 春正月、宋の潭州に兵を出したが、防禦使の潘美に敗れた。
  • 二月、宮人に内殿で花を競わせた。後主は明け方に先立って後苑を開き、人を集めて選ばせ、ほどなく戸を閉じさせて宮に還り、食事のあと殿中で勝負を競わせた。宦官に関門を守らせ、樓羅の暦を置いて宮人の出入りを検めるなど法制はきわめて厳しく、これを「花禁」と呼んだ。負けた者は耍金・耍䬶を出して宴を購った。
  • 秋九月、宋將の潘美・尹崇珂が兵を率いて侵入し、郴州の戍將暨彦贇と刺史陸光圖が戦死、郴州は陥落した。残兵は退いて韶州を保った。後主は邵廷琄の言を思い出し、はじめて廷琄を招討使として舟師を率い洸口に出て宋を防がせた。

大寶八年(965年)

  • 春三月、交阯が乱れ丁部領が死んだ。詔してその子丁璉を交州節度使とした。
  • 夏六月、招討使の邵廷琄に自尽を賜った。功を忌む者が謀反と誣告したためである。

大寶九年(966年)

  • (月次は原文欠)常康縣の民の妻が、頭二つ腕四本の子を生んだ。
  • この年、博泉の神を龍母夫人に封じ、南海の神を昭明帝と尊び、その廟を聰正宮と称した。

大寶十年(967年)

  • 夏四月、興王府に千佛寶塔を造らせた。

大寶十一年(968年)

  • 春正月、宋が開寶と改元した。
  • 秋九月、興王府で多くの星が北へ流れるのが見えた。
  • 後主は銅で自分の像と諸子の像を鋳させ玄妙觀に置いたが、形が似ていないと見るや鋳工を殺し、三度作り直してようやく完成した。

大寶十二年(969年)

  • (月次は原文欠)兵が蒙州を通ったとき、黄犬を牽いて鹿を追う猟師に出会い、これを刺そうとしたところ、人も犬も鹿もみな石と化し、道端に鼎の脚のように並び立った。

大寶十三年(970年)

  • 秋九月、後主は兵を出して宋の道州を侵した。宋の道州刺史王繼勲は、南漢がほしいままに暴虐をはたらきしばしば辺境を侵していると訴え、南伐の師を請うた。
  • 宋帝は挙兵を決しかね、江南國主(李煜)に書を送って南漢を諭し、臣を称して湖南の旧地を返還させよと詔したが、後主は従わなかった。
  • そこで江南國主は給事中の龔慎儀に書を持たせて後主に送った。その趣旨は次のとおり。
  • 両家は累世の盟にあり、境を隔てていても休戚を共にする間柄だから、率直に心中を述べる。
  • 先に大朝(宋)が楚を伐ったとき、そちらの辺吏が事を構えて隙を生じた。当方の使臣が入貢した際、宋帝は「南漢が翻然と改めて使者を寄越せば百万の師を出すことはない、さもなくばやむを得ぬことになる」と告げられた。
  • 大朝の意図は土地を貪ることではなく、服従しない者に怒っているだけである。
  • 古来、強弱大小を問わず必ず戦う場合が四つある。父母宗廟の讐がある場合、双方が烏合で民心が定まらぬ場合、敵が進んで退路がなく戦っても退いても滅ぶ場合、相手に敗亡の兆しがあり自らに進取の機がある場合である。今のそちらと大朝の間にはこの四つがない。それなのに座して天下の兵を受け、一朝の命を賭けるのが国家社稷を安んじ利する道か。
  • 強ければ南面して王たり、弱ければ玉帛をもって大に事える。屈伸は自分次第で決まったかたちはない。天に逆らうのは不祥、争いを好むのは危うい。天は今、楚(宋)に味方しており、争える相手ではない。
  • 険は剣閣に勝るものはないのに蜀は滅び、兵は上黨に強いものはないのに李筠は守りを失った。
  • そちらの国には、五嶺の険は容易に越えられぬ、堅壁清野して糧道を絶ち、山河に拠って強弩で射れば百万の兵も功を成せぬ、不利なら軽舟で海に浮かべば身は全うできる、と説く智を誇る臣がいるだろうが、これは弁士の常套で口にはできても用いられない。
  • いざ王師が南伐すれば水陸並び進み百道から攻めかかるので、糧道をことごとく絶ち壁塁をすべて保つ余裕はない。あるいは呉越の舟師を用いて泉州から海路を取れば数日で国都に至る。人心が動揺すれば舟中の者すら敵となり、忠義に死ぬ士は容易には見つからない。巨海があってもともに行く者があろうか。
  • 近ごろ大国は、そちらに通好の意がなければ必ずこの秋に挙兵するとし、当方に盟を絶てと命じてきた。善隣を永く保ちたくとも、大に事える節を強いて違えるわけにはいかず、そちらに事えられなくなるのを恐れる。
  • 臣子の情でも諫めは三度までという。自分はここに三度極言した。臣たる者は逃れ、子たる者は泣き、交友の者もまた惆悵して絶交するほかない。
  • 後主は書を得ると龔慎儀を囚え、駅伝で江南國主に返書したが、その言葉は屈しない調子であった。
  • 宋帝はそこで潘美を桂州道行營都部署、尹崇珂を副として侵攻させた。宋軍が白霞に至ると、賀州刺史の劉守忠が朝廷に急を告げた。
  • このころ、旧将の多くは讒言で誅死し、宗室もほぼ絶やされ、兵権を握るのは宦官数名のみであった。中宗以来遊宴に耽ったため、城壁や濠は大半が宮館や池沼に造り替えられ、楼艦や兵器も多くが損なわれていた。宋師来襲を聞いて内外は震え上がった。
  • 後主は龔澄樞を賀州守備に、郭崇岳を桂州へ、李托を昭州へ遣わし防禦の策を立てさせたが、宋の前鋒が芳林に達すると澄樞は逃げ帰った。潘美は賀州を包囲した。
  • 諸大臣はみな旧将の潘崇徹を起用するよう請うたが、後主は従わず、伍彦柔に兵を授けて賀州を救援させた。潘美は彦柔の到来を知ると南郷の岸に奇兵を伏せた。彦柔は夜に南郷へ舟を泊め、夜明けに弾弓を携えて上陸し、牀に腰かけて指揮していたところ伏兵が急襲し、南漢軍は大混乱に陥って千人が死んだ。彦柔は捕らえられて斬られ、首は城中に晒された。翌日、賀州は陥落した。
  • 潘美らは戦艦を進め、流れに乗って広州へ向かうと宣言した。後主は策がなく、潘崇徹を都統として五萬の兵を賀江に駐屯させた。
  • 冬十月、潘美らは昭州に至り開建砦を破って砦兵数百を殺し、砦將の靳暉を捕らえた。崇徹はただ兵を擁して自守するのみで、昭州刺史の田行稠は逃亡し城は陥ちた。桂州刺史の李承進も城を棄てて走った。
  • 十一月、連州が陥落した。招討使の盧枝は衆を率いて退き清遠を保った。後主はこれを聞いて左右に「昭・桂・連・賀はもともと湖南に属する地だ。北の師がこれを取れば十分だろう。これ以上南下はしまい」と語った。
  • この月、李承渥を都統とした。十二月、潘美らが韶州を攻めると、承渥は十余萬の兵を率いて蓮花峯の下に陣を布いた。南漢軍はもともと象を訓練して陣に用い、一頭に十数人を乗せて武器を執らせ、戦のたびに陣前に置いて軍威を示していた。しかし潘美は軍中の強弩をことごとく集めて前へ出し射かけたため、象は驚いて暴れ、乗っていた者は落ち、象は返って自軍を踏みにじった。承渥は大敗しかろうじて身一つで逃れ、韶州は陥落、刺史の辛延渥と諫議大夫の卿文遠が捕らえられた。
  • 韶州はもともと嶺南の北門であり、その陥落を聞いた後主はいよいよ窮して策を失い、ようやく興王府の東の濠を掘らせた。使える将を見渡してもおらず、宮媪の梁鸞真が養子の郭崇岳を推挙したので、崇岳を招討使とし、大將の植廷曉とともに六萬を率いて馬逕に駐屯し柵を並べて防がせた。崇岳は謀も勇もなく、日々鬼神に祈るばかりであった。

大寶十四年(971年)

  • 春正月、宋將潘美らが英州・雄州を陥れ、都統の潘崇徹はその衆を率いて降った。翌日、宋軍は瀧頭に進んだ。後主は使者を送って和を請い進軍の猶予を求めたが、潘美は許さなかった。瀧頭は山水が険しく、潘美らは伏兵を疑って南漢の使者を伴わせ、速やかに険所を越えた。
  • 二月、潘美らは馬逕へ進み、興王府から十里の雙女山下に陣営を構えた。後主は舶船十余艘に金宝と妃嬪を載せて海に逃れようとしたが、出発前に宦官の樂範が衞兵千余とともに船を盗んで逃走した。
  • 宋軍が城に迫ると、後主は懼れて左僕射の蕭㴶に降表を持たせ軍門に降らせた。潘美は宋帝の意を伝え、蕭㴶を汴京へ送らせた。宋師は城外に駐留した。
  • 後主はさらに弟の禎王劉保興に文武百官を率いて出迎えさせようとしたが、郭崇岳が止めたため、再び防戦の策に転じ、保興に国内の兵を率いて拒ませた。まもなく植廷曉は戦死し、崇岳は柵へ逃げ帰った。
  • 潘美は諸将に「敵は竹木を編んで柵としている。火を放てば必ず乱れる。そこを挟撃するのが万全の策だ」と言い、風に乗じて火を放った。煙塵が立ちこめ南漢軍は大敗、崇岳は乱兵の中で死んだ。
  • 龔澄樞と李托は「北軍が来たのは我が国の珍宝が目当てだ。すべて焼いて空城を得させれば長く駐まりはすまい」と謀り、宮殿と府庫に火を放って一夜で焼き尽くした。
  • 翌朝、宋師は白田に至り、後主は素衣白馬で降った。潘美らが入城し、澄樞・李托・薛崇譽および宗室・文武九十七人を捕らえ、後主とともに龍德宮に拘禁した。保興は民家に逃れたがこれも捕らえられ、みな汴京へ護送された。
  • このとき宦官百余人が盛装して面会を請うたが、潘美は「この輩が多すぎたのだ。詔を奉じて罪を伐つとはまさにこの者どものためだ」と言い、ことごとく斬った。
  • この役で宋が得たのは州六十・縣二百四十、戸数十七萬二百六十三であった。宋帝は潘美に山南東道節度使を加えた。
  • 三月丙申、宋は広南で人の男女を買って奴婢とし転売して利を得ることを禁じ、みな解放させ、民に害ある旧政はすべて報告させて廃した。
  • 後主は宋の京師に至り玉津園に宿した。宋の太祖は參知政事の呂餘慶を遣わし、翻意を繰り返したことと府庫を焼いた罪を問うた。後主は罪を澄樞・李托・崇譽に帰した。翌日、有司は帛で後主の首を繋ぎ、その官属とともに太廟・太社に献じた。
  • 宋太祖は明德門に出御し、攝刑部尚書の盧多遜に詔を宣べさせて後主を責めた。後主は「臣は十六で僭位し、澄樞らはみな先臣の旧人で、事ごとに臣の思うようにはできませんでした。国にあったとき、臣が臣下で、澄樞らこそ国主でした」と答え、地に伏して罪を待った。
  • 太祖は攝大理卿の高繼申に命じて澄樞・李托・崇譽を千秋門外で斬らせ、後主の罪は赦して襲衣・冠帯・器幣・鞍勒馬を賜い、金紫光禄大夫・檢校太保・右千牛衞大將軍(員外置同正員)を授け、恩赦侯に封じた。朝会の席次は上將軍の下とした。
  • 禎王保興を右監門率府率、左僕射の蕭㴶を太子中允、中書舍人の卓惟休を太僕寺丞とし、その他は諸州の上佐・縣令・主簿に任じた。

亡国の予兆

  • もともと高祖は周傑に易を筮わせ「比の復に之く」の卦を得た。傑は卦に二つの土があり二・五の数を得たと述べたが、その語は傑の伝に詳しい。
  • 唐の天祐二年に烈宗が広州節度使となってから後主の大寶十四年の滅亡まで通算六十七年、高祖の乾亨元年を起点とすれば実際は五十五年である。
  • 高祖が開国して宮室を営んだとき、古篆十六字を刻んだ石讖を得た。その文は「人人有一、山山値牛、兔絲吞骨、蓋海承劉」。解する者によれば、「人人有一」は「大」、「山山」は「出」、「値牛」は高祖が漢を建てた年が丑であること、「兔絲」は中宗の襲位が卯年であること、「吞骨」は弟たちを滅ぼしたこと、越の人は天水を趙姓とするので「蓋海」は宋の国姓を指し、「承劉」は劉氏の降伏を受けることを意味するという。
  • 大寶年間、民家に貯水桶を置かせ「防火大桶」と称した。識者は、房は宋の分野であり、「防」は「房」に、「桶」は「統」に音が通じるとした。
  • また興王府の童謡に「羊頭二四、白天雨至」とあった。宋師の入城の日はちょうど辛未年二月四日で、雨とは王師が時雨のごとしという意である。
  • こうしてあらかじめ徴があったのである。

降後の事跡と人物

  • まもなく宋太祖は後主に月給として錢五萬・米麥五十斛を加増する詔を下した。
  • 宋の開寶八年(975年)、江南が平定されると、後主は左監門衞上將軍に遷り彭城郡公に進封された。太平興國初年にはさらに衞國公に進み、太平興國五年(980年)に薨去、享年三十九。太宗は朝を三日廃し、太師を贈って南越王を追封した。一説に韶州の越王山に帰葬されたという。
  • 後主は体格が豊かで眉目はまばら、弁が立ち、手先はきわめて器用であった。焼失を免れた財宝のうち美珠が四十六甕残っており、真珠を編んで鞍勒に戯れる龍の形を作らせた。きわめて精妙で「珠龍九五鞍」と名づけ、宋太祖に献上した。太祖が諸工官に示すと皆が驚嘆したので、代価として錢百五十萬を与え、左右に「鋹は工巧を好み習い性となった。もしその巧みへの熱心を治国に向けていたら、滅亡には至らなかったろう」と語った。
  • 後主は在国時、臣下にしばしば毒酒を盛っていた。ある日、宋太祖が肩輿に乗り数十騎を従えて講武池に行幸した際、従官がまだ揃わぬうちに後主が先に到り、盃を賜った。後主は毒を疑って泣き「臣は祖父の基業を承けながら朝廷に逆らい、王師を煩わせました。罪は誅に当たりますが、陛下は臣を死なせずにおいてくださいました。大梁の一布衣として太平の盛世を見たいと願います。この酒は飲めません」と言った。太祖は「朕は人の腹中に赤心を推し及ぼす。そのようなことがあろうか」と言い、その酒を自ら飲み、別に酌んで後主に賜った。後主は大いに恥じ入り頓首して謝した。
  • 太宗が晉陽を討とうとして近臣を宴に召したとき、後主も列した。後主は自ら「朝廷の威霊は遠くに及び、四方の僭竊の主は今日すべてこの座にあります。近く太原を平らげれば劉繼元もまた来ましょう。臣は真っ先に来朝した者ですから、杖を執って諸国の降王の長となりたく存じます」と述べ、太宗は大いに笑って厚く賞賜した。その諧謔ぶりはみなこの類であった。
  • 子は四人、守節・守正・守素・守通。