十国春秋卷五十九 南漢二 本紀 中宗
要約
中宗は名を晟、初め弘熙といい晋王に封ぜられていた。力士に命じて殤帝を弑殺した翌朝、宮に入る者がない中、越王弘昌が諸弟を率いて弘熙を寝殿に迎え皇帝位に即かせ、名を晟に改めて應乾と改元、のち乾和と改めた。
即位直後、弟弘昌を太尉兼中書令・諸道兵馬都元帥に、循王弘杲を副元帥にそれぞれ処遇したが、まもなく弘杲が密かに弑逆の共犯である劉思潮らの誅殺を勧めたことをかえって讒言され殺害された。乾和二年には弟の越王弘昌を盗を使って殺し、乾和三年には弟の韶王弘雅を殺すとともに、擁立の功臣であった劉思潮らも誅に伏させ、王翷にも路上で死を賜った。乾和四年には弟の鎮王弘澤を殺し、乾和七年には陳道庠とその家族・友人まで族滅するなど、在位を通じて骨肉の粛清を繰り返した。
対外的には、楚の内紛に乗じて工部郎中鍾允章の献策により賀州・昭州を攻略し、乾和九年には内常侍呉懐恩を用いて桂州を陥落させ嶺南の地をことごとく統一した。潘崇徹による郴州攻略や湖南諸州への侵攻でも戦果を挙げる一方、宦官林延遇の献策により離宮を数千に及ぶまで修葺し、遊猟・宴会にふけって国事を顧みない日々を送った。獣を放って弓で射る猟を好み、酔って寵愛する伶人の首を刎ねてしまい、翌日酔いが醒めてから召そうとして初めて事の次第を知り嘆息するのみであったという逸話も伝わる。
乾和五年には弟の斉王弘弼・貴王弘道・定王弘益・辨王弘済・同王弘簡・益王弘建・恩王弘暐・宜王弘照の八人を一挙に殺し、その男子まで皆殺しにして娘を後宮に納れるという苛烈な粛清を行い、内外はみな懼れて自ら保つことができなかった。この時、湯鑊・鉄林・刳剔等の刑を置いて「生地獄」と号した。宮中では宦官の林延遇・龔澄樞が政治を専断し、宮女の盧瓊仙・黄瓊芝を女侍中として朝服冠帯を着せ政事に参与させ、宗室・勲旧はほとんど誅戮し尽くされた。
晩年、唐が周に度々敗れると聞き憂いの色を見せつつも、天文を占って自らの死期を悟ったとして「私自身が免れれば幸い、後世を憂える暇があろうか」と嘆じ、長夜の宴に耽った。乾和十六年、三十九歳で没し、廟号を中宗といった。
現代語訳全文
出自と即位
- 中宗は名を晟という(『五国故事』には第三主晟に作り、またその晟はもと二名で上の一字は宣祖の諱に犯れるため去ったという。これによれば名は弘晟であったことになる)。初め名を弘熙といい、晋王に封じられていたが、既に力士に命じて殤帝を弑した翌朝、百官や諸王はあえて宮に入る者がなかった。越王弘昌はそこで諸弟を率いて寝殿に臨み、弘熙を迎えて皇帝位に即かせ、今の名(晟)に改め、光天二年を改めて應乾元年とした。
應乾元年(943年)
- 春三月丁亥、弟の弘昌を太尉兼中書令・諸道兵馬都元帥・知政事とし、循王弘杲を副元帥・参預政事とした。陳道庠および劉思潮らはみな賞賚を差等をもって与えられた。
- 夏四月戊申朔、日食があった。五月、帝はその弟の循王弘杲を殺した。帝は既に兄を弑して立ったが、順ならず衆が服さないことを懼れ、そこでますます刑法を峻しくして衆を威した。まもなく弘杲がしばしば賊を討つことを請い、密かに劉思潮らを誅すことを勧めて外議を止めようとしたが、思潮らはかえって弘杲に二心があると讒言し、ついに禍に及んだ。
- この月、建武節度使斉王弘弼が入朝を求め、これを許した。秋七月、指揮使万景忻が張遇賢を循州で破り、遇賢は嶺を踰えて北に去った。冬十月、弟の韶王弘雅に致仕を命じた。十一月丁亥、天を南郊に祀り大赦し、乾和と改元した。群臣は尊号を「大聖文武玄徳大明至道大広孝皇帝」と上った。
乾和二年(944年)
- 春三月、帝は盗を使ってその弟の越王弘昌を昌華宮で殺した。時に弘昌は襄帝の陵を海曲に謁でていたが、ついに害に遭った。辛卯、戸部侍郎陳偓を同平章事とした。夏六月乙巳、斉王弘弼をその私邸に幽閉した。秋九月庚子朔、日食があった。冬十月、鳳凰が邕州に現れた。丙午、帝はその弟の鎮王弘澤を邕州で殺した。
乾和三年(945年)
- 秋八月甲子朔、日食があった。帝はその弟の韶王弘雅を殺した。九月、劉思潮・林少彊・林少良・何昌延が誅に伏した。帝は左僕射王翷がつねに越王弘昌を立てることを謀っていたとして、英州刺史に出し、まもなく路上で死を賜った。内外はみな懼れて自ら保つことができなかった。この時、恵州水東廟の二神に興祚王・泰民王の号を封じた。
乾和四年(946年)
- 春二月壬戌朔、日食があった。秋九月、陳道庠が誅に伏し、あわせてその家族とその友の鄧伸を族滅した。この時、潮州の佐郷県を割いて敬州を置いた。
乾和五年(947年)
- 春二月辛未、北平王劉知遠が自立して帝となり、天福十二年と称した。六月、晋主知遠は国号を漢と改めた。秋九月、帝はその弟の斉王弘弼・貴王弘道・定王弘益・辨王弘済・同王弘簡・益王弘建・恩王弘暐・宜王弘照を殺した。すべてその男子を殺し、その娘を後宮に納れた。帝は諸弟がその子と国を争うことを恐れたため、同日に殺されたのである。この年、湯鑊・鉄林・刳剔等の刑を置き、「生地獄」と号した。
乾和六年(948年)
- 夏六月戊寅朔、日食があった。秋八月、帝は工部郎中知制誥鍾允章を遣わして楚に求婚させたが、楚王希広は許さなかった。帝は怒って允章に「馬公はまた経略南土することができようか」と問うた。允章は「楚の兄弟はまさに争って亡ぶに暇なく、どうして我らを害することができましょうか」と答えた。帝は「そのとおりだ、希広は懦弱で吝嗇であり、その士卒は戦を忘れて久しい、これぞ我が進取の秋(好機)である」と言った。冬十二月辛巳、巨象指揮使呉恂・内常侍呉懐恩を遣わして兵を率い楚を撃たせ、賀州を攻めさせた。楚は決勝指揮使徐知新を遣わして兵五千を率いて救わせたが、着かないうちに我が師はすでに賀州を抜いた。恂は城の下に大穽を掘り、竹箔で覆って土をかぶせておいたので、楚兵が城に迫るとことごとく穽に陥り、死者は数え切れなかった。懐恩は勝ちに乗じて昭州を陥落させ、恂はまた桂州を侵し、ついに転じて全州を掠めて帰った。
乾和七年(949年)
- 夏六月癸酉朔、日食があった。冬十二月、帝は英州に行き、野人(民間の術者)から神丹を受け、御雲華石室に随って収蔵させた。
乾和八年(950年)
- 冬十一月甲子朔、日食があった。この年、宮人の盧瓊仙・黄瓊芝を女侍中とし(一に女学士に作る)、朝服冠帯を着せて政事に参決させた。宗室・勲旧はほとんど誅戮し尽くされ、ただ宦官の林延遇らが用事し、外内をもっぱら専恣にし、帝は二度と省みなかった。
乾和九年(951年)
- 春正月、郭威が大梁の崇元殿で皇帝位に即き、国号を周とし、広順と改元した。冬十一月、内常侍呉懐恩を西北招討使とし、兵を率いて桂州の境に屯させ、密かに楚を攻めることを謀った。楚は指揮使彭彦暉を遣わして龍峒に屯し我らに備えさせた。時に楚王の弟希隠が桂州を知り、密かに蒙州刺史許可瓊を召したが、可瓊は我が兵の迫るのを畏れてただちに蒙州を棄てて桂州に趣いた。懐恩は勢いに乗じて蒙州を取り、進んで兵を桂管に侵し掠め、大いに騒がせた。
- この月、帝は希隠に書を遺わし、大略「唐の兵はすでに長沙に拠り、桂林も必ずその手に落ちるだろう。本朝は世々与国であり、重ねて婚姻を結んでいる。この危うさを見て、忍びずして救いに赴かないでおれるだろうか、すでに大兵を発して水陸ともに進めている」と言った。希隠は書を得ても躊躇して決しかねたが、丙寅、懐恩が兵を率いて突然城下に至ると、希隠と可瓊は全州に奔り、桂州はついに陥落した。懐恩はこれにより方略をもって宜・連・梧・厳・富・昭・柳・龔・象等の州を定め、初めて嶺南の地をことごとく有するに至った。
- 十二月、内侍省丞潘崇徹・将軍謝貫を遣わして兵を率い郴州を攻めさせた。唐の将辺鎬が兵を発して援けに来たが、崇徹はこれを義章で破り、ついに郴州を取った。俘虜となった敗卒はことごとく一臂を減じてこれを帰した。帝はこれより志を得たとし、密かに巨艦指揮使暨彦贇に命じて兵をもって海に入り商賈の金帛を掠めさせた。離宮を作り遊猟し、ますます南宮・大明・昌華・甘泉・玩華・秀華(一に昭華に作る)・玉清・太微の諸宮を修葺し、あわせて数千に及び記し尽くせないほどであった。殿の側にはみな宮人を置いて曉(あかつき)を候たせ、これを「候忩監」と名づけた。宴会のたびに帝は独り殿廷の間に処し、侍宴の臣僚はみな綵亭を結んで殿の両隅に列坐した。宴が酣(たけなわ)になると有司は檻に入れた獣をもって進め、両旁に戈戟を翼のように配した。帝は自ら弓矢を持って殿を下り、有司が獣の檻を引いて前に進めると、しばらくして獣が出て庭に趨り上がってくるのを、帝は弓を挽いてこれを射た。両旁の戈戟がともに進み、獣はそこで斃れた。その楽しみはみなこの類であった。
- 常に夜に飲んで大酔し、瓜を伶人の尚玉楼の項(うなじ)に置いて剣を抜いてこれを斫り、あわせてその首を斬ってしまった。明日、酒が醒めるとまた玉楼を召して侍飲させようとしたが、左右が「すでに殺しました」と告げると、帝は嘆息しただけであった。この年、唐は全・道二州の刺史を除して我が師に備えさせた。
乾和十年(952年)
- 夏四月丙戌朔、日食があった。この月、唐の統軍使侯訓・全州刺史張巒が桂州に冦した。我が兵は山谷に伏せてこれを待ち、唐兵が城下に至ると伏兵が四方より起こって挟撃し、訓は敗死し、巒は全州に奔った。冬十二月、湖南の王逵が兵および洞蛮の兵五万を率いて郴州に冦した。内侍省丞潘崇徹は師を率いて救いに赴き、蠔石で遭遇した。崇徹は高きに登って望んで「湖南の兵は疲れて整っていない、破ることができる」と言い、兵を縦ってこれを大破し、伏尸は八十里に及んだ。この時、宜州の崖山・東璽の二県を省いた(宜州はもと龍水・崖山・東璽・天河の四県を領していたが、今二県に併せた)。
乾和十一年(953年)
- 春正月、兵を分けて湖南の全・道・永の三州に侵入した。秋九月、帝は疾に伏し、子の継興を衛王、璇興を桂王、慶興を荊王、保興を禎王、崇興を梅王に立てた。癸亥、大赦した。
乾和十二年(954年)
- 春正月丙子朔、周は顕徳と改元した。壬辰、周主が殂じ、丙申、晋王栄が皇帝位を嗣いだ。この月、帝は自ら藉田を耕した。呉昌文をもって静海軍節度使兼安南都護とした。初め呉権が交州に拠っており、権が死ぬとその子昌岌が立ち、昌岌が卒するとその弟昌文が立って我らに臣と称したので、この命があった。当時、給事中李璵を遣わして旌節をもってこれを招こうとしたが、璵が白州に至ると、昌文は人を遣わして璵を止めて「海賊が乱を起こし道路が通じません」と言わせたので、璵はついに行くことができなかった。夏四月戊午、帝はその弟の高王弘邈を邕州で殺した。
乾和十三年(955年)
- 春二月庚子朔、日食があった。夏六月戊午、帝はその弟の通王弘政を禎州で殺した。この時、博白県緑含村の民が自ら山谷は深邃で人跡はまれであると言い、斗米が一二銭であった。鳳(おおとり)が鵞のように大きく五色で冠があり尾が甚だ長いものが現れたので、有司がこれを聞奏した。
乾和十四年(956年)
- 春三月乙未、甘泉宮使林延遇が卒した。延遇は陰険で謀略が多く、帝が諸弟を誅滅したのはみな延遇の謀によるものであった。これに至って国人は互いに祝賀した。延遇は病が重くなったとき、内給事龔澄樞に自ら代わることを薦めたので、帝はただちに澄樞を抜擢して承宣院・内侍省を知らせた。この時、周が使いを遣わして聘に来た。帝は嶺南の強さを盛んに誇ろうとし、館接する者に茉莉の花を贈らせ、その名を「小南強」と名づけさせた。これはおおよそこれを譏ったものである。
乾和十五年(957年)
- 冬十二月、中書侍郎同平章事盧膺が卒した。この年、帝は唐の兵がしばしば周人に敗れると聞き、憂いの色を形に現した。使いを遣わして中朝(中原の周)に入貢したが、また湖南に隔てられたので、そこで戦艦を治め武備を修めた。しかしまもなく「私自身が免れれば幸いだ、後世を憂える暇があろうか」と言った。また常に自ら星を知ると称し、月食が牛女の間に会するのを予言し、書を出してこれを占い、嘆じて「私はこれに当たるだろう」と言い、これによって酒を縦にして長夜の飲を為した。この時、儋州の富羅県、万安州の富雲・博遼の二県を廃した。
乾和十六年(958年)
- 春(欠、月不明)、塟域(墓域)を興王府城の北に占い、甕を運んで壙とし、帝は自らこれを臨視した。秋八月辛巳、帝は殂じた。年三十九であった。諡して「文武光聖明孝皇帝」といい、廟号を中宗、陵を昭陵といった。