十国春秋卷五十八 南漢一 世家・本紀 髙祖
要約
高祖は名を龑、初め巌といい、代祖の庶子として生まれ、実母段氏を殺した武皇后に養われた。身長七尺、手を垂れれば膝を過ぎるという偉丈夫であった。日者はかつて代祖に「あなたの諸子のうち、年の若い者が最も貴い」と予言していたという。兄の烈宗の下で薛王府咨議参軍を経て副使となり、交州の曲顥、桂州の劉士政、邕州の葉広略、容州の龎巨昭、虔州の盧光稠一族ら嶺南に割拠する諸勢力を次々に平定し、烈宗の兵事を一手に担って嶺表に雄長する基盤を築いた。
乾化元年、烈宗の臨終により清海軍留後を継ぎ、名を巌に復した。中原の人士を幕府に多く招いて刺史に武人を置かせず、広州で白鹿を獲てその形を梁に献じるなど瑞祥を演出しつつ、韶州の刺史廖爽を破り楚に走らせ、容管・高州も取った。梁からは南平王・清海建武節度使兼中書令などを加えられ、楚王殷の娘を娶って婚姻友好を結んだ。梁への貢物は金銀・犀角・象牙・名香など価数十万に及ぶこともあり、梁もまた客省引進使を遣わして銀茶などを厚く返礼した。鬱林州の宝圭洞から玉宸道君・葛真人の石像を迎えて南海の石室に安置するなど、道教的な祭祀にも力を注いだ。
貞明元年、梁主に呉越王銭鏐と同じ国王の待遇と都統の加授を求めたが許されず、「今、中国は紛紛としている、誰が天子であろうか、どうして万里の梯航を渡って遠く偽庭に事えられようか」と語り、これより貢使は絶えた。乾亨元年、番禺で皇帝に即位して国号を大越とし、のちに漢と改めた。趙光裔を兵部尚書節度副使、楊洞潜を兵部侍郎節度判官、李殷衡を礼部侍郎、倪曙を工部侍郎とし、いずれも同平章事として百官を署した。祖父安仁を太祖文皇帝、父謙を代祖聖武皇帝、兄隠を烈宗襄皇帝と追尊し三廟を建て、広州を興王府と改めるなど州県を大幅に再編、峻霊山を峻霊王に封じるなど土地神も厚遇した。乾亨重宝の銭を鋳造し、玉堂・珠殿を建てるなど新王朝の威儀を整え、楊洞潜の請いで学校・貢挙を開き進士・明経を選ぶなど唐の故事に倣った制度を整え、趙光裔・楊洞潜・李殷衡・倪曙ら唐の遺臣を重用して政を助けさせた。呉に使者を送り即位を告げるとともに呉王にも称帝を勧め、閩王の子に娘を嫁がせるなど周辺国との外交も積極的に進めた。
閩・呉越・長和国などとも婚姻・外交を結び、長和国王が求婚すると襄帝の娘を娶らせたが、閩への親征はしばしば失敗し、乾亨八年には汀・漳の境で閩軍に撃たれて敗れて帰った。大有九年には楚の蒙州・桂州侵冦を蘇章に命じて撃退し、大有三年には梁克貞・李守鄘を遣わして交州の曲承美を捕らえ静海節度使を置くなど南方経営も進めたが、大有十一年には交州の呉権が海口に杙を植える計略を用いて我が水軍を大敗させ、子の万王弘操を失って大いに慟哭した。
中国では梁・唐・晋と政権が目まぐるしく交替する中、宮苑使何詞を唐に遣わして探らせ、唐主が驕淫であると聞くと大いに悦んで、みだりに朝貢することを恥じ「大漢国王」と自称して唐の天子を「洛州刺史」と呼ぶなど、独自の帝権を誇示し二度と中国と通じなくなった。誇大を好み、嶺北から南海に至る商賈をしばしば宮殿に登らせて珠玉の富を誇示し、「家はもと咸秦にあり、蛮土に王たることを恥じる」とも語った。晩年、「劉氏を滅ぼす者は龔なり」という讖書を恐れ、名を儼(龑)へと改めて『周易』の「飛龍在天」の義を採った。
晩年は南薫殿・昭陽殿など宮殿の造営に莫大な財を費やし、金銀と真珠・水精・琥珀で飾り立て、隋の煬帝の贅沢すら「かえって粗雑」と豪語するほどであった。刑罰は極めて残酷で、湯鑊・鉄牀・灌鼻・割舌・支解・刳剔・炮炙・烹蒸などの酷刑や毒蛇を用いる「水獄」を創始し、簾越しに処刑を眺めて涎を垂らすほど酷薄な性質であったと伝えられる。晩年には士人が子孫のために謀ることを猜忌して専ら宦官を任用するようになり、これが南漢における宦官専横の起点となった。
後継については驕慢な弘度・弘熙を憂え、孝謹な越王弘昌を立てようと右僕射王翷と謀ったが、崇文使蕭益が嫡子を立てる義を堅く主張したため沙汰止みとなり、大有十五年、五十四歳で病没した。陵を康陵といい、鉄で錮められて開くことができなかったという。史論では、水獄・湯鑊など創始した酷刑の数々を厳しく批判し、天が乱世の民に毒を加えるため高祖の手を借りたのではないかとまで述べ、国が三世・卜する年わずか六十で滅んだのも故なきことではないと結んでいる。
現代語訳全文
出自と即位
- 高祖(『五国故事』には先主に作る)は名を龑といい、初め名を巌といった。代祖の庶子である。母の段氏は巌を外舎で生んだが、武皇后が段氏を殺し、巌を養って自分の子とした。成長すると騎射を善くし、身長は七尺、手を垂れれば膝を過ぎた。
- 烈宗が行軍司馬となったとき、巌もまた薛王府の咨議参軍に辟かれ、まもなく名を陟と改めた。烈宗が両鎮の節度使を兼ねると、陟を表して副使とした。
- 当時、交州は曲顥、桂州は劉士政、邕州は葉広略(葉は一に華に作る)、容州は龎巨昭がそれぞれ諸管に分拠し、盧光稠は虔州に拠って嶺上を攻め、その弟の光睦は潮州に拠り、子の延昌は韶州に拠り、高州の劉昌魯、新州の劉潜および江東の七十余寨は多く制することができなかった。烈宗はそこでことごとく兵事を陟に授けた。陟は諸寨をことごとく平定し、あるいは降り、あるいは走らせ、間に官属を置き換えて嶺表に雄長した。
- 烈宗が臨終に及ぶと、陟はついに遺命を奉じて権知清海軍留後となった。時に乾化元年(911年)三月であった。夏五月甲辰、梁は陟を清海軍節度使とした。陟は名を巌に復した。
- 巌は多く中国の人士を幕府に延き、それによって刺史に武人がなかった。冬十一月、広州で白鹿を獲て、巌はその形を図して梁に献じた。耳に両欠があった。
- 十二月、巌は虔州の譚全播の病が発したと聞き、兵を発して韶州を攻めこれを破った。刺史廖爽は楚に出奔した。戊午、梁は静海留後曲承美をもって節度使とした。この月、巌はついに容管および高州を取った。この年、閩は員外郎崔(欠、名不明)を遣わして我が先王を祭った。
- 二年(912年)夏四月、梁は我が兵が楚と相攻めているとして、右散騎常侍韋戩らを遣わして潭・広の和を叶える使いとし、また巌に検校太保・同平章事を加え、南平王を襲封させた。この年、使いを遣わして金銀・犀角・象牙・雑宝貨・名香などを梁に貢ずること、価は数十万に及んだ。梁は客省引進使韋堅に命じてこれに報い、堅は帰って銀茶などをもってまた献上し、その估直はあわせて五百余万に及んだ。広州は白龍が見えたと言上した。
- 三年(913年)春正月、梁は巌に検校太傅を加えた。二月、梁主鍠が帝位に即き、巌に清海建武節度使兼中書令を除し、南平王の封を襲わせた。冬十月、楚王の娘を求めて婚を為し、楚王殷はこれを許した。
- 乾化四年(914年)春二月、王は供軍巡官陳用拙を遣わして呉越に往かせた。この時、鬱林州の宝圭洞(すなわち勾漏の正洞)で玉宸道君および葛真人の石像を迎えて、南海に置いて石室に安置した。
- 貞明元年(915年)秋八月、王は楚に往いて婦を迎え、楚は永順節度使王弟存にこれを迎えさせた。冬十一月乙丑、梁は貞明と改元した。この年、梁主は名を瑱と改め、王は呉越王鏐が国王であるのに自分だけ郡王であるとして、梁に南越王への封と都統の加授を求めたが、梁主は許さなかった。王は僚属に「今、中国は紛紛としている、誰が天子であろうか、どうして万里の梯航を渡って遠く偽庭に事えられようか」と言った。これにより貢使はついに絶えた。
- 貞明二年(916年)。
- 乾亨元年(917年)秋八月癸巳、王は皇帝位に番禺で即き、国号を大越と号し大赦し、乾亨と改元した。梁の官告使趙光裔を兵部尚書節度副使、楊洞潜を兵部侍郎節度判官、李殷衡を礼部侍郎とし、いずれも同平章事とした。また唐の太学博士倪曙を工部侍郎とし、まもなくまた尚書左丞に改めた。百官を署し、三廟を建て、祖の安仁を追尊して太祖文皇帝といい、父の謙を代祖聖武皇帝といい、兄の隠を烈宗襄皇帝といった。
- 広州を改めて興王府とし、南海を分けて咸寧・常康の二県とし、また循州の治所を龍川県に徙し、禎州を循州の帰善県に置いて、帰善・海豊・博羅・河源の四県をこれに属させ、興寧県を昇格させて斉昌府とし、常楽州を合浦県の地に立て、あわせて博電・零緑・塩塲の三県を置いて属とし、峻霊山を封じて峻霊王とし、儋州昌化県の山を鎮海広徳王とした。
- 冬十月、帝は客省使劉瑭を遣わして呉に使いさせ、即位を告げ、あわせて呉王に称帝を勧めた。この年、閩王はその子延鈞のために婦を娶りに来て、帝はその娘清遠公主を閩に嫁がせた。乾亨重宝の銭を鋳た。玉堂・珠殿を建てた。
- 乾亨二年(918年)冬十一月、帝は南郊に祀り大赦した。国号を漢と改めた。この時、国用が足りないとして、また鉛銭を鋳て十をもって銅銭一に当てた。
- 乾亨三年(919年)春正月、越国夫人馬氏を立てて皇后とした。秋九月丙寅、梁は帝の南平王の官爵を削り、呉越の兵に檄して来討させたが、呉越王は命を受けても行わなかった。
- 乾亨四年(920年)春三月、帝は兵部侍郎楊洞潜の請いに従って初めて学校を立て、選部を置いて貢挙を放ち、進士・明経十余人を、唐の故事のように選んだ。年ごとにこれを常とした。冬十二月、使いを遣わして蜀と好を通じた。この年、興王府の湞陽県を割いて英州を置き、韶州の保昌県を割いて雄州を置いた。この年、文徳殿が成り、著作郎陳光乂が賦を献じ、珠数斤を賜った。
- 乾亨五年(921年)夏六月丁卯朔、日食があった。この年、尚書左丞倪曙を同平章事とした。
- 乾亨六年(922年)夏四月、帝は術者の言に従って巡幸して災いを避けようとし、梅口鎮に行った。閩の将王延美が兵を率いてこれを襲おうとしたが、たまたま偵察者がこれを告げたので、帝は夜のうちに遁れて免れた。この時、帝は平頂帽を製してこれを冠り、国人はここに一変して、みな「安豊頂」を尚ぶようになった。
- 乾亨七年(923年)夏四月己巳、晋王李存勗が皇帝位に即き、国号を大唐とし、同光と改元した。冬十月辛未朔、日食があった。この月、また越常県を茂名県と改めた。
- 乾亨八年(924年)夏四月、帝は自ら兵を率いて閩を侵し、汀・漳の境上に屯したが、閩人に撃たれて敗れて帰った。この年、南宮を作り、王定保が「南宮七奇賦」を献じてこれを美えた。
- 乾亨九年(925年)春正月、宮苑使何詞を遣わして唐に使いさせ、大漢国王を称し書を上大唐皇帝に致して、強弱を覘わせた。二月甲申、詞が魏に至って還り、唐主が驕淫であると言上したので、帝は大いに悦び、これより二度と中国と通じなくなった。帝は誇大を酷しく喜び、嶺北から南海に至る商賈は多く召されて宮殿に登らせられ、珠玉の富を示された。自ら「家はもと咸秦にあり、蛮土に王たることを恥じる」と言い、唐の天子を「洛州刺史」と呼んだ。
- 夏四月癸亥、日食があった。冬十二月、白虹が化して白龍となり南宮の三清殿に現れた。帝は乾亨九年を改めて白龍元年とした。名を龑と改め、長和国の驃信鄭仁旻が朱鬛の白馬を致してこれを求婚し、帝は襄帝の娘増城公主(一に県主に作る)をこれに妻あわせた。長和とはすなわち唐の南詔である。
- 白龍二年(926年)夏四月、唐主が弑され殂じ、李嗣源が皇帝位に即き、天成と改元した。秋八月乙酉朔、日食があった。
- 白龍三年(927年)秋八月乙卯朔、日食があった。冬十二月、帝は康州に行った。
- 大有元年(928年)春二月丁酉朔、日食があった。三月、楚が水軍を大挙して侵冦し、封州を包囲した。帝は周易でこれを占い、大有の卦を得た。そこで大赦し、大有と改元した。左右街使蘇章に命じて戦艦百艘を率いさせ、封州を救わせ、楚兵を賀江で大破した。帝は章を封州団練使に遷した。この時、欽州の民が羅浮山で古剣を掘り当て、これを献じた。篆に「已と水と同宮す、王将耳口同尹来たりて口の上に居す、山岫護ること重重たり」とあった。この年、長和の鄭仁旻は丹薬を服して死んだ。
- 大有二年(929年)。
- 大有三年(930年)秋九月、将の梁克貞・李守鄘を遣わして交州を伐ちこれを抜き、静海節度使曲承美を執らえてその将李進にこれを守らせた。冬十月、克貞は占城に入りその宝貨を取って帰った。承美が南海に至ると、帝は儀鳳楼に登って俘虜を受け、承美に詔して「公はつねに我を偽庭とみなしていたが、今日面縛されたのはなぜか」と言った。承美は叩首して死を請うたが、そこでその罪を赦した。
- 大有四年(931年)冬十一月甲申朔、日食があった。十二月、愛州の将楊廷芸が反して交州を攻めた。これより先、廷芸は仮子三千人を養って密かに交州を復すことを図っており、守将の李進はその賂を受けて時に応じて報告しなかった。ここに至って帝は承旨程宝を遣わして兵を率い救わせたが、着かないうちに城が陥落し、進は逃げ帰ったが帝はこれを殺した。宝は交州を包囲して戦死した。
- 大有五年(932年)夏四月庚辰、熒惑が積尸を犯した。この年、帝はその子の耀樞を雍王に、龜図を康王に、弘度を賓王に、弘熙を晋王に、弘昌を越王に、弘弼を斉王に、弘雅を韶王に、弘澤を鎮王に、弘操を万王に、弘杲を循王に、弘暐を恩王に、弘邈を高王に、弘簡を同王に、弘建を益王に、弘済を辨王に、弘道を貴王に、弘照を宜王に、弘政を通王に、弘益を定王に立てた。まもなく弘度を秦王に徙した。
- 大有六年(933年)秋九月辛巳、太白が右執法を犯した。
- 大有七年(934年)春(欠、月不明)、帝は内宮に殿を作り昭陽殿といった。殿には金を仰陽とし、銀を地面とし、簷楹・榱桷はみな白金を傅せられ、殿の下には水渠を設けて真珠を浸し、また水精・琥珀を琢して日月とし、東西の玉柱の首に列ねた。自らその牓を上に題した。秋七月、左僕射何瑱を遣わして呉越国王に祭を致した。冬十二月辛巳、皇后馬氏が殂じた。この年、帝は秦王弘度に命じて六軍を判せしめたが、弘度は群小に狎れ親しみ、同平章事楊洞潜が帝に切に諫めたが聴かれず、洞潜は病と称して帰り、長らく召されないままついに卒した。
- 大有八年(935年)春三月、四星が斗に聚まった。
- 大有九年(936年)夏四月、帝は将の孫徳威を遣わして楚の蒙・桂の二州を侵させたが、楚王は自ら歩騎を率いてこれを禦いだので、我が兵は蒙州から引き返した。冬十月、宗正卿兼工部侍郎劉濬をもって中書侍郎同平章事とした。十一月丁酉、契丹主が石敬瑭を立てて天子とし、国号を晋とし、天福と改元した。
- 大有十年(937年)春三月、帝は疾が癒えたとして大赦した。交州の牙将皎公羨が安南節度使楊廷芸を殺してこれに代わった。冬十月、唐が使いを遣わして即位を告げた。
- 大有十一年(938年)春正月己酉朔、日食があった。冬十月、楊廷芸の旧将呉権(一に孫権に作る)が愛州より兵を挙げて皎公羨を攻めた。公羨は賂をもって来て援兵を乞うた。帝は乱に乗じてこれを取ろうとし、子の万王弘操を静海軍節度使とし封を交王に徙して兵を率いてこれを救わせた。帝は自ら師を率いて海門に屯し声援とした。弘操に命じて戦艦を統べ白藤江から交州に趣かせたところ、たまたま権はすでに公羨を殺しており、兵を引いて迎え戦った。先に海口に大杙を多く植え、その先を鋭くし鉄を冒せていた。まもなく軽舟を遣わして潮に乗じて挑戦させ、また偽って敗走するふりをして誘い出させた。我が兵は舟を尾行して追ったが、まもなく潮が引くと戦艦はみな鉄の杙にひっかかって帰ることができず、我が軍は大敗し溺死する者は数え切れなかった。弘操は戦死し、帝は大いに慟哭して残った軍衆を収めて引き返した。
- 大有十二年(939年)秋七月庚子朔、日食があった。(欠)月、諫議大夫李紓を遣わして楚に使いさせ、旧好を通じさせ、楚もまた使いを遣わして聘に来た。この年、門下侍郎同平章事趙光裔が卒した。帝はまたその子で翰林学士承旨尚書左丞の損をもって門下侍郎同平章事とした。
- 大有十三年(940年)冬十月、都官郎中鄭翺を遣わして唐に行き仁寿節を賀した。十一月丁丑望、月食があった。この年、同平章事趙損が卒し、寧遠節度使王定保をもって中書侍郎同平章事としたが、まもなくこれも卒した。
- 大有十四年(941年)夏五月、太尉工部侍郎盧膺・尚儀謝宜清・尚衣髙素清を遣わして呉越に往かせ、故王弟の伝璛の室であった馬氏を求婚させたが、着けなかった。十二月、帝は疾に伏し、ある番僧が「劉氏を滅ぼす者は龔なり」という讖書があると言い、上の名(龑の旧字)が甚だ不利であるとしたので、帝はそこであらためて龑の字を造ってこれを名とし、『周易』の「飛龍在天」の義を採用し、儼と読ませることとした。この年、使いの区延保を遣わして唐に聘した。
- 大有十五年(942年)春三月、帝は不予(病気)となった。子の秦王弘度・晋王弘熙はいずれも驕恣であり、越王弘昌はもっぱら孝謹であったので、右僕射兼西御院使王翷とともに弘度を邕州に、弘熙を容州に出して鎮させ、弘昌を立てることを謀った。議は既に定まったが、たまたま崇文使蕭益が問疾に来て、帝はその事を諮ったところ、益は嫡を立てて長とする義を執って甚だ堅く主張したので、ついに沙汰止みとなった。丁丑、殂じた。享年五十四であった。諡して天皇大帝といい、廟号を高祖、陵を康陵といい、興王府城の東二十里の漫山にあり、陵中は鉄で錮められて開くことができない。
- 高祖が初めて生まれた時、日者(占い師)がこれを視て代祖に言った、「あなたの諸子のうち、年の若い者が最も貴いでしょう」と。人となりは弁察に長け権数が多く、性は奢侈を好み、南海の珍宝翠羽をことごとく集めて宮室を飾り、殿閣を建てるなど、秀華の諸宮はみな瓌麗を極めた。
- 晩年には南薫殿を作り、柱はみな通透に彫刻され、礎石にはそれぞれ炉を置いて香を燃やし、気はあっても形がなかった。左右を顧みて言った、「隋の煬帝が車を焼き沈水を燃やしたことを論ずれば、かえって粗雑なものであった、どうして我が二十四具に及ぼうか。」蔵用の仙人になぞらえ、たとえ堯・舜・禹・湯に及ばずとも、風流天子となることは失わないと言った。
- また刑を用いること残酷で、殺戮を果断に行い、湯鑊・鉄牀の諸具を設け、灌鼻・割舌・支解・刳剔・炮炙・烹蒸の法があった。間には毒蛇を水中に集め、罪人をこれに投じてこれを「水獄」といい、あるいは湯鑊に投じてさらに日にさらし、塩酢を注いで肌体を腐爛させ、なお立ち歩けるほどにして、ようやく死なせた。鎚や鋸を交互に用い、血肉が飛び交い、冤痛の声は庭廡に満ち、必ず簾を垂れて便殿でこれを視た。涎を垂らし呀呷(口を開ける音)として、思わず頬をゆがめた。有司はその常に復するのを待って、罪人を引いて退いた。人々はこれをまことの蛟蜃であると言った。のちにはますます士人が子孫のために計ることを猜忌し、そこでもっぱら宦官を任用した。これにより国中に宦者が大いに盛んになった。
史論
- 論じて言う。私が南漢の逸事を採るに、先主(高祖)はつねに人を殺すのを見てその喜びに堪えなかったといい、また水獄・湯鑊・鋸解・剥炙の刑を創始したという。巻を掩じて嘆じずにおれない。『十国世家』に「牢牲は人を視るがごとく、嶺蜑は劉に遭う」という言葉があるが、これは虚語ではなかったのか。そもそも時は五代の乱世に当たり、中原はしきりに変転して民は生きるすべもなく、困窮すること既に極まっていた。区区たる広南の地にあって、徳を施すことに務めず、虐は無辜に及んだ。天がまさか乱を厭わず、特に手を仮りてこの一方の民に毒を加えたのではないか。そうでなければ、国を伝えること三世、卜する年わずか六十、私は彭城氏(劉氏)のためにこれを解くことができない。