十国春秋卷五十六 後蜀九 列傳 文谷

生涯と逸話

  • 文谷は成都温江の人で、漢の文翁の裔である。龜年という者がおり、唐の乾符年間(874-879年)に明経に及第し、彰明令に任じられた。谷はその孫にあたる。
  • 谷は篤学博聞で、詞章をもって世に顕れた。後主に仕え、員外郎・侍御史・山南道節度判官を歴任した。
  • 広政末年、王昭遠に随って辺境を巡り、文州に至って唐の都虞候文和の墓を見た。谷は昭遠の命により文を作ってこれを手厚く葬った。人々はみなこれを陰徳のあることとした。
  • 谷が撰した『備忘小抄』十巻は、子・史の書から雑ろに一千余事を鈔し、遺忘に備えたもので、世に多く伝写された。
  • これより先、谷はつねに中書舎人劉光祚を訪ねていたが、たまたま青城の道士劉雲と、雲昇宮の客沈黙という者が相継いで来た。光祚が桃核の盃を出して見せたところ、盃の広さは尺余、文采燦然として、蟠桃の実であった。光祚は言った、「若い時に華嶽に遊び、道士に出会って、この核で瀑泉を取って口をすすいだところ、ついに半片を授けられた、それがすなわちこの盃である」と(一説には陳搏より得たという)。
  • まもなく雲は一つの白石を出して、「麻姑洞の石穴で得た」と言った。形は雞卵に絶似し、紋様は絵のようで、二人の童子が節を持ち、仙人を引く姿があり、眉目・毛髪・冠履・衣被まで細やかに具足していた。沈黙もまた石を出したが、広さ一寸五分、長さ二寸五分で、上に隠れて盤龍の鱗・角・爪・鬛が現れ、周備しないところがなく、「巫峡の山間で得た」と言った。谷は一日にしてことごとく奇物を見た、これもまた一つの異事である。
  • 谷の兄弟は五人おり、一人は漢州に、一人は梓州に、一人は綿州に、一人は卭州に、一人は温江に居した。再伝して大章という者があり、官は宋の国子祭酒に至った。