興国大王を称す
- 全師雄は成都の人である。広政の末、文州刺史の官にあった。両川がすでに宋に滅ぼされると、宋の帥である王全斌は軍務を顧みず、昼夜酒に耽り、部下たちも際限なく略奪をほしいままにしたので、蜀の人々はその苦しみに堪えられなかった。たまたま宋の太祖が檄をもって蜀の兵を汴に赴かせ、詔をもって糧食を優遇して支給するよう命じたが、全斌はすぐにこれを奉じなかった。蜀の兵は憤りを含みながら出発したが、道が綿州を通るとき、属邑を襲って乱を起こし、衆は十余万に達し、「興国軍」と号し、師雄を得てこれを帥に推した。
- 師雄はそこで兵を率いて彭州を攻め、これを占拠し、自ら「興国大王」と称し、要害を分けて守らせた。両川の民は争って師雄に呼応し、日々絡繹として絶えなかった。全斌はちょうど出撃していたが、師雄に敗られ、退いて成都を保った。これによって師雄の勢いはますます盛んになり、綿州・漢州の間を分かって扼し、江に沿って砦を置いて持久の計とした。そして卭州・蜀州など十六州および成都の属県はみな次第に兵を挙げてこれに呼応し、両川はまた乱れた。時に宋の乾徳三年三月であった。
- まもなく、宋の太祖は客省使の丁徳裕に兵を率いさせて討伐に赴かせ、さらに康延沢を東川七州招安使とした。師雄はこのときちょうど新繁に屯していたが、劉光義・曹彬らはすでに兵を麾いて進撃し、まもなくまた灌口へ走ると、全斌がまたこれを迎え撃ってその軍を破った。師雄はついに金堂へ走り、病死した。師雄が兵を起こしてから走って死んだ日まで、およそ九か月余りであった。両川はまた平定された。