孤城百余日の堅守
- 王環は鎮州真定の人である。勇力をもって高祖に仕え、御者となり、高祖が建国するに及んで衛兵を統率させられた。広政の初め、秦・鳳・階・成の州はみな後主に属していたが、後主はさらに威武軍を鳳州に置き、環を威武節度使とした。まもなく、周の世宗が王景・向訓らを遣わして秦・鳳を侵させたが、しばしば環に敗られた。周の大臣は皆兵を罷めることを願ったが、世宗は「私は天下を一つにして家となそうとしているのに、我が声教が秦・鳳に及ばない。今、すでに兵を出したのに功なくして帰れば、私は恥じるところがある」と言い、そこで来攻することを決意した。
- 周の軍の糧道はかなり困難であった。当時、後主は李廷珪を都統に任じ、廷珪は王巒に兵五千を率いさせて唐倉に出て、黄花谷に至って糧道を争わせた。王景はあらかじめこれを知り、排陣使の張建雄に兵二千をもって谷口に当たらせ、別に裨将に精鋭の兵千人を率いさせて王巒の後方に出し、唐倉に三重の伏兵を置いて、王巒の軍が戻るのを待たせた。王巒の軍は前で張建雄と戦って勝てず、唐倉へ退却したところ、伏兵が発動し、ことごとく殲滅された。王巒は捕らえられ、これによって各城堡を守っていた別働の軍もみな潰え、秦州と成州・階州の二州は相次いで周に降った。ただ環だけが百余日堅守し、その後ようやく周に陥落させられた。
- 世宗は環を召見して、嘆いて言った、「三州はすでに降ったのに、環だけは堅守し、私は何度も書を送って招いたが環は答えなかった。力尽きて捕らえられるに至ったが、死ぬことはできなかったとはいえ、それでも自分の仕える主に忠であった。これを用いれば、主君に仕える者たちを励ますことができよう」と。そこで環を右驍衛将軍に任じた。周の軍が淮を征伐した際、環を侯章の補佐として賊城・水砦の攻取副部署に任じ、再び淮を征伐するに及んでは、環に水兵数千を率いさせて蔡河から淮に入らせたが、環は不本意な様子で、周の軍にいる間、戦功をあげることはなかった。まもなく南唐の将である許文縝・辺鎬らがみな捕らえられ、世宗はみな彼らを将軍とし、環らとともに都に邸宅を並べさせ、歳時の下賜品も非常に厚くした。まもなく、世宗が淮南に至った際、また環を従わせたが、病にかかり、泗州で卒した。