十国春秋卷五十四 後蜀七 列傳 田淳

要約

田淳は成都の人。広政年間、龍游県令として治乱の大略を語ることを好み、後主が周の世宗と関係を悪化させ交互に軍を興していた情勢を憂えて上疏した。三年来、賢者を求める道を誤り、政治が不公平で法令・賞罰に誠実さがなく諫言を軽んじていることへの民の怨みを述べ、北方の大敵に備えるべき時に人心を失えばどうして事を成せるかと説いた。頻繁な発兵で家々に異論が起き人々が熱湯に臨むように恐れている様も指摘し、名分なく軍を出せば三軍は必ず怨むと諫めた。

さらに、蜀の甲兵・将領・財貨の蔵を柴氏(後周)と比べれば劣ると認めた上で、天府の要害の地を頼みに自ら固め、要衝を扼して腹心を配し、彼が疲弊するのを待つ持久策こそ上策であると論じた。

その後も鉄銭鋳造や未納租税の厳しい取り立てを、天意に反し君主の道を損なうと諫め、王昭遠・伊審徴・韓保貞を大任に当たるべきでないと公言したため朝臣から深く恨まれたが、権貴への迎合を拒み続けた。

史論では、幸寅遜の疏が微を防ぎ漸を杜ぐ意を得ていることに続けて、章九齢・李起の直言、陳及之・田淳の正論をいずれも広政年間の諍臣として並べ、路振の『九国志略』が田淳の上疏を記録しなかったことを君子は遺憾とすると評している。

現代語訳全文

対周策を説く

  • 田淳は成都の人である。広政年間、龍游県令の官にあり、治乱の大きな方略を語ることを好み、たびたび朝廷の得失を陳べた。このとき後主は周の世宗と関係を悪化させ、代わる代わる軍を興していた。淳は上疏して言った、「密かに見ますに、この三年来、民はかなり怨み嘆いております。それは陛下が賢者を求める道を誤り、政治を行うのが不公平で、纂組(華美な織物)を重んじて女子の労働を奪い、彫刻を尊んで農事を損ない、法令が信用されず、賞罰に誠実さがなく、諫言を受け入れる心が薄れているからだと申しております。おごり高ぶって朽ちた手綱を馭するかのような有様が次第に乖離を深め、始めと終わりでは舟を浮かべることも覆すこともできるという道理を、恐れずにはいられません。まして北には大敵があり、まさにこれに対抗する備えを頼みとしているのに、もし人心を失えば、どうして事を成し遂げられましょうか。臣はまた、頻繁に兵士を発して辺境に遠く戍らせているために、人心が動揺し、その理由が分からず、家々では異論が持ち上がり、まるで熱湯や火に臨むかのように人々が憂え恐れている様を見ております。これでどうして安撫し落ち着かせることができましょうか。
  • そもそも軍を興し行動を起こすには、利害を明らかにする必要があり、まして大事に関わることであれば、なおさら軽々しく行うべきではありません。もし太鼓や鉦が一度鳴れば、前鋒がやや後退し、一敗と一勝はたなごころを返すほどたやすく入れ替わるものです。願わくは陛下は事に先立って計を立て、後患を残さぬようにしていただきたく存じます。今の動静は、かなり因循(旧習に流されること)に渉っております。臣は発せられた兵が、辺境を防ぐためのものか、敵に赴くためのものか分かりません。もし辺境を防ぐためというのであれば、にわかに徴発すべきではありませんし、もし敵に赴くというのであれば、まず便宜(適切な方策)を決すべきです。名分なく軍を出せば、三軍は必ず怨むでしょう。三軍がすでに怨んでいれば、どうして功を成すことができましょうか。
  • わが朝の甲兵を柴氏(後周)の士馬に比べ、わが朝の将領を柴氏の将帥に比べ、わが朝の財貨の蔵を柴氏の穀倉に比べますと、法律・刑名や、儀礼・文物の点においては、彼は勝り我は劣り、その等差は同じではありません。権謀奇策を用いて防ぎ拒む必要があります。もし両国が交戦すれば、十分な勝算があるとは思われません。まして我が国は天府の邦(自然の要害の地)であり、用兵に適した地であって、一人の男が険隘を守れば、万の軍勢も進むことができません。仮に柴氏の軍が野戦に頼って城を攻め塁を奪おうとすれば、その利は平地にありますが、もし険隘の道に入れば、手足がないも同然です。願わくは陛下は短兵をもって自ら固め、要衝を扼し、腹心の将を配置し、細い道を塞ぎ、精緻に号令を行い、彼の敵軍を疲弊させれば、たとえ柴氏が自ら来襲しても、あえて深く侵入することを謀ろうとはしないでしょう。日を重ね月を重ね、月を重ね年を重ねれば、敵の勢いは自然に弱まり、我が軍はますます鋭くなり、一本の戟も折らず一人の兵も失わずに、柴氏は自ら疲弊するでしょう。まことにいわゆる『彼は竭き我は盈つ、逸をもって困を待つ』というものであり、これこそ上策であり、天の道理にかなうものです」と。
  • まもなく後主は鉄銭を鋳造し、また使者を分けて遣わし、諸路の年来の未納の租税を徴収させたが、淳はまた、民を騒がせ財を集めることは実に天意に反し君主の道を損なうものであると述べ、その言葉は多くが痛切であった。また常々、王昭遠・伊審徴・韓保貞は大任に当たるべきでないと言っていたので、みな朝臣から深く恨まれた。ある人が謙遜な言葉を述べて高い官位を得るよう勧めたが、淳は「大丈夫たる者、どうして犬や鼠のような輩に取り入って出世を求めることができようか」と言った。その率直で正しい態度は、多くこの類であった。

史論

  • 論じて言う。幸寅遜の明徳年間の一疏は、兢々として微を防ぎ漸を杜(ふさ)ぐ意を得ている。章九齢・李起の直言、陳及之・田淳の正しい議論は、いずれも広政年間の諍臣(諫める臣)である。路氏の『九国志略』はこれに言及しているが、田淳の上疏を棄てて記録しなかった。君子はこれを遺憾とするものである。