十国春秋十國春秋卷五十四 後蜀七 列傳(幸寅遜・章九齡ほか、孝行の士、武臣)
巻の構成
- 後蜀七。呉任臣(検討官)の撰。列伝として幸寅遜・章九齡・李起・陳及之・田淳、続いて張元・范文通・程崇雅、さらに孫欽・王環・趙崇溥・高彦儔を収める。
幸寅遜
- 夔州雲安監の人。雲安は古くは湯谿といい、唐末に湯谿の幸希玄が上柱国に至った。これが寅遜の先祖である。
- 生まれつき聡明で文章を得意とし、後主に仕えて茂州録事参軍から出仕した。
- 後主は即位当初、打毬を好んで酷暑でもやめず、側近は諫めようとしなかった。明徳二年(935年)、寅遜は上疏して諫めた。
- その趣旨は次の通り。召公の言に、人を弄べば徳を失い物を弄べば志を失う、無益を作って有益を害さなければ功は成る、珍奇な物を貴ばず実用の物を軽んじなければ民は足りる、遠方の産物を宝とせねば遠人も帰服し、賢を宝とすれば近しい者が安んじる、とある。心は火のようなもので、放てば自らを焼く。だから文王は周公・召公・太公・畢公に交代で太子を輔けさせた。太子が塩漬け魚を好んだとき太公が供さず、「鮑魚は祭器に載せるものではない、非礼で太子を養えようか」と言った。飲食ですら礼に従うのだから、まして日常の遊びはなおさらである。高祖皇帝は衣食を節し民を養い、家を国に化して陛下に伝えた。陛下は賢俊に親しみ佞人を退け、前代の書を読んで歴代の興廃を究め、端正な士を側に置いて時政の得失と天下の利害を尋ねるべきである。それなのに博打や打毬で政務を怠り、車を駆り馬を躍らせて宗廟社稷を軽んじてよいものか。陶侃は藩臣の身でさえ博打道具を江に投げた、まして万乗の主なら。前蜀王氏の覆轍は遠い昔ではない。
- さらに続けて、君の禄を食む者は君の憂いを憂える、自分は地方官だが陛下が功に賞し罪を誅すると聞くたび、唐の貞観の風を再び見る思いで奮い立った。しかしいま陛下は打毬に興じておられる。宮中に事がなく気晴らしなら一、二か月に一度なら許されようが、習慣となれば聖体を疲れさせるばかりか政務を妨げ、諸司の再審査も滞る。さらに馬が暴走して制御を失えば落馬の危険もある。陛下がご自身を軽んじても宗廟社稷はどうなるのか、と。
- 後主は全面的には従わなかったが、寛容に受け止めて罪としなかった。
- 新都令に遷り、のち司門郎中・知制誥・中書舎人となり、武信軍府の知事として出て史館修撰を加えられ、給事中に改まり、『前蜀書』の編纂に参加した。
- 寅遜はかつて掌中から筆を抜く夢を見、占者が「必ず学士になる」と言った。まもなく翰林学士に遷り、工部侍郎を加えられ、吏部三銓の事を判じ、簡州刺史を領した。
- 国が滅びると後主に従って宋に降り、右庶子を授かった。まもなく狩猟を諫める上疏をし、宋の太祖はこれを嘉して召見し絹を賜った。
- 開宝五年(972年)、鎮国軍行軍司馬となった。職を辞したとき九十余歳であったがなお仕官の意欲があり、旅装を整えて都へ向かおうとしたが、出立前に没した。著書に『王氏開国記』(巻数は欠字)がある。
- 寅遜は六、七十歳の頃、青城山の道院に住んでいた。院にあった黄姑の塑像がある夜夢に現れ、「杏仁を食べれば聡明になり、老いてますます壮健になる。おまえは道の素質があるが、この山で終わるべきではなく、山を出て当代を輔けよ」と告げた。寅遜は夢の中でその法を拝して請い、それは『怡神論』の記載とほぼ同じであった。目覚めてその処方を調べ、毎日服用して長寿に至ったという。
章九齡・李起・陳及之
- 章九齡は後主に仕えて右補闕に至った。気概があり直言を好み、権貴を憚らなかった。広政年間に「政治が治まらないのは奸佞が朝廷にいるからだ」と言上した。後主が奸佞とは誰かと問うと、九齡は宰相の李昊と知枢密使の王昭遠を名指しした。後主は大臣を誹謗したとして怒り、維州録事参軍に左遷した。
- 李起も剛直な性格で、広政年間に右補闕を務めた。後主が李昊に武信節度使を領させたとき、起は「先例では宰相が方鎮を領することはない」と繰り返し論じてやまなかった。昊は「君の才なら慎んで黙っていれば翰林学士になれる」と言ったが、起は「私の喉に古(口をふさぐもの)がないので黙っていられないのだ」と答えた。
- 陳及之は広政年間に新津県令。後主が良家の子女を大量に選んで後宮に入れようとし、郡邑が騒然として婦女が逃げ隠れた。及之は上疏して厳しく諫め、選抜の令を止めるよう請うた。後主は言に従わなかったが、及之の率直さを嘉して白金百両を賜って表彰した。
田淳
- 成都の人。広政年間に龍游県令となり、治乱の大略を論じるのを好み、しばしば朝廷の得失を陳べた。当時、後主は後周の世宗と対立し、たびたび出兵していた。淳は上疏して論じた。
- その趣旨は次の通り。この三年来、民は怨嗟し、陛下は賢を求める道を誤り政治は公平を欠き、織物を重んじて女工の手を奪い、彫刻を貴んで農事を損ない、法令は信を失い賞罰に誠意がなく、諫言を納れる心が薄れて自ら満足に安んじ、朽ちた綱を御するような慎みが初めと終わりで違ってきた、と民は言う。舟を載せる水は舟を覆しもする。まして北に大敵があり、その防禦を頼む身で人心を失えば何をもって切り抜けるのか。
- 続けて、たびたび士卒を徴発して辺境に遠く戍らせるので人心が動揺し、理由が分からず家々に異論が生じて湯火に臨むようで、人々は憂え驚いている、どう安んじるのか。挙兵にはまず利害を明らかにすべきで、大事にかかわる以上は軽々しく決めてはならない。ひとたび鼓を鳴らして前鋒が動けば、勝敗は掌を返すほど早く決する。事に先んじて計り、後患を残さないでほしい。今の動きは因循としており、発した兵が辺境防備のためか敵を討つためか分からない。防備なら急な徴発は不要であり、敵を討つならまず方針を決めねばならない。名分なく出兵すれば三軍は怨み、怨めば功は成らない。
- さらに国力を比較して、我が朝の甲兵は柴氏(後周)の士馬に、我が将領は柴氏の師帥に、我が国庫は柴氏の蓄えに、いずれも及ばず、法律・刑名・制度文物も彼が優れ我が方は大まかで等しくない。奇策を用いて防ぐほかない。二国が正面から戦えば万全とはいかない。しかし我が国は天険の地であり、一人が隘路を守れば万の軍も進めない。柴氏の軍は野戦・攻城・砦の奪取に長け平地で有利だが、険しい道に入れば手も足も出ない。陛下は短兵で自らを固め要衝を塞ぎ、腹心を配して細道を断ち、号令を厳しくして敵軍を疲れさせるがよい。柴氏が親征しても深入りはできまい。日を月に、月を年に継いで持久すれば、敵の勢いは自ずと衰え我が軍は鋭さを増す。戟一本も折らず兵一人も失わずに柴氏は疲弊する。これこそ「彼竭わり我盈つ、逸をもって困を待つ」であり、上策であって天機にかなう、と。
- まもなく後主が鉄銭を鋳造し、また使者を分遣して諸路の長年の滞納税を取り立てた。淳は重ねて、民を騒がせ財を集めるのは天意に背き君の道を損なうと言上した。その言葉はいずれも痛切であった。
- また常々、王昭遠・伊審徴・韓保貞は大任に堪えないと述べ、みな朝臣から深く恨まれた。ある人が言葉を和らげて高位を得よと勧めると、淳は「大丈夫たる者、犬や鼠に取り入って出世できようか」と答えた。その率直さはこの類が多かった。
史論
- 論に曰く。幸寅遜の明徳年間の上疏一篇は、微を防ぎ漸を杜ぐ意にかなって慎み深い。章九齡・李起の直言、陳及之・田淳の正論は、いずれも広政年間の諍臣である。路振の『九国志』はこれらの人物にわずかしか触れず、田淳や章九齡の上疏を採録しなかった。君子はこれを遺憾とする。
張元・范文通・程崇雅(孝行)
- 張元は江原県の人。母が死ぬと土を背負って墓を築いた。白兎が庵のまわりに馴れて回り、烏の群れが土をくわえて墓に置いた。県令が異とし朝廷に上奏した。明徳二年(935年)、後主は金帛と酒米を賜ってその孝を表彰し、史館に記録させた。
- 范文通は、父の范羲が西水県令であった。羲が没すると文通は喪に服して孝で知られた。羲の墓を暴く盗人があったとき、虎の群れが追い払った。文通が墓の傍らに庵を結んでいたので、虎は彼を見ると耳を伏せて去った。広政年間に羊・酒・束帛がその家に賜わった。
- 程崇雅は蓬州の人。父が重病のとき自分の股の肉を割いて食べさせ、また冬に母が病んだとき竹林で泣くと筍を得て母を療した。人々は孝子と称した。後主はこれを聞き、広政二十年(957年)、有司に命じてその里に旌表を立てさせた。
孫欽
- 幽州安次の人。果断で権謀に富み、高祖と後主に仕えて左奉聖都指揮使に至った。
- 広政年間、郭延鈞が武徳軍を判じていたが監押の王承丕と折り合いが悪く、承丕はひそかに反乱を謀った。折しも欽が部下の兵を率いて辺境を戍るため暇乞いに承丕を訪ねると、承丕は欽を伴って延鈞のもとへ赴き、着くなり詔命と称して側近に延鈞を撃ち殺させ、その一家を皆殺しにした。
- 欽が急ぎ詔の文書を出して衆に示すよう求めると、承丕は「お前を富貴にしてやれる。詔書など何になる」と言った。欽は反乱と察し、偽って「いま内外が安定していないので、私が部下の兵で貴殿のために巡察しましょう」と言い、鞭を振るって馬を躍らせ出て行った。承丕が続けて呼んでも戻らなかった。
- 欽は営に至って部下に「承丕は道に外れ、府公を不当に殺した。反逆でなくて何か。皆で誅そう」と諭し、兵を率いて府に攻め入った。承丕の側近が防ごうとしたが、欽が真正面から叱りつけると皆武器を捨てて逃げた。承丕を捕らえて階下で斬り、その一党とともに首を成都へ送った。
王環
- 鎮州真定の人。武勇によって高祖に仕えて御者となり、高祖が国を建てると衛兵を統率した。
- 広政年間の初め、秦・鳳・階・成はみな後主に属した。後主は鳳州に威武軍を増置し、環を威武節度使とした。
- まもなく後周の世宗が王景・向訓らを遣わして秦・鳳を侵したが、たびたび環に敗れた。周の大臣はみな撤兵を請うたが、世宗は「天下を一つにして我が家としたいのに、教化が秦・鳳に及ばない。すでに兵を出して功なく帰るのは恥だ」と言い、攻撃を決意した。
- 周軍は糧道に苦しんだ。後主は李廷珪を都統とし、廷珪は王巒に兵五千を率いさせて唐倉から黄花谷に至り糧道を争わせた。王景はこれを察知し、排陣使の張建雄に兵二千で谷口を守らせ、別に副将に精兵千人で巒の背後に出させ、唐倉に三つの伏兵を置いて巒軍の帰りを待った。
- 巒の兵は前方で建雄と戦って勝てず、退いて唐倉へ走ったところで伏兵が発し、全滅した。巒は捕らえられた。これにより諸城堡を守っていた別働隊もみな潰え、秦州と成・階の二州は相次いで周に降った。
- 環だけが百余日堅守し、その後ようやく周に落とされた。世宗は環を召見して「三州が降ったのに環だけ堅守した。私は何度も書を送って招いたが環は答えず、力尽きて捕らわれた。死ななかったとはいえ、仕える所に忠であった。用いれば臣たる者を励ませる」と嘆じ、右驍衛将軍に任じた。
- 周軍の淮南征討では、環は侯章を輔けて敵城・水砦の攻取副部署となった。再度の淮征では水兵数千を率いて蔡河から淮に入った。環はふさぎ込んで気が晴れず、周軍にあって戦功を挙げたことがなかった。
- やがて南唐の将、許文縝・辺鎬らが捕らえられると、世宗は皆将軍とし、環らと並んで京師に邸を与え、年ごとの下賜も厚かった。まもなく世宗の淮南行に従い、泗州で病没した。
趙崇溥
- 家系は不明。広政年間に威武軍都監となった。
- 当時、周将の王景らが陣営を連ねて鳳州を囲み、韓通は兵を分けて固鎮に城を築き、西川からの援兵を絶った。
- まもなく城が陥ち、節度使の王環は捕らえられ、崇溥と将士五千はことごとく周兵に捕虜とされた。崇溥は頑として降らず、数日絶食して死んだ。
高彦儔
- 太原の人。父の高暉は宣威軍使。彦儔は高祖に従って蜀に来て軍校を歴任し、昭武軍監押となった。
- 後主が即位すると邛州刺史に遷り、馬歩軍使に改まった。漢兵が大散関に入り安都砦を陥れたとき、彦儔は部下を率いて先に進み、漢人が砦を焼き桟道を壊して退いたので追撃し、砦を回復して帰った。
- まもなく趙州刺史を領し、やがて奉鑾粛衛都指揮副使、右驍鋭馬軍都指揮使に改まり、匡聖馬軍都指揮使を加えられ、正式に武定軍節度使となった。
- 後周の顕徳年間の初め、王景・向訓が鳳州を攻めた。後主は彦儔に出兵して囲みを解かせたが、到着前に唐倉での敗戦を聞いて潰走して帰った。観察判官の趙玭は関を閉ざして彦儔を入れず、城を挙げて周に帰した。彦儔は逃れて成都に戻ったが、後主は罪とせず右奉鑾粛衛都指揮使とし、のち功徳使に改めた。
- 広政二十二年(959年)、寧江軍都巡検制置招討使として出され、宣徽北院事・昭武軍節度使を加えられた。
- 宋軍が夔州に至ると、彦儔は副使の趙崇済・監軍の武守謙に「北軍は遠来だから城壁を固めて待つのが上策だ」と言った。守謙は従わず、単独で部下を率いて出戦した。宋将の劉光義・曹彬は白帝廟の西に兵を止め、騎将の張廷翰らに兵を率いさせて猪頭舗で守謙と戦わせた。守謙は敗走し、廷翰らは勝ちに乗じて城壁に登り、光義が大軍を率いて続いた。
- 彦儔は部下を率いて防戦に出ようとしたが、宋軍は既に城壁を越えて侵入していた。彦儔は狼狽して手立てを失った。判官の羅済が単騎で成都へ帰るよう勧めると、彦儔は「私は昔すでに天水を失い、いままた夔州を守れない。たとえ主君が殺すに忍びなくとも、私はどの面下げて蜀の人に会えようか」と言った。済がさらに降伏を勧めると、「老いも幼きも一族百人が成都にいる。私一人が生き延びれば一族に何の申し訳が立つか。今日はただ死ぬのみだ」と答えた。
- そこで符印を解いて済に授け、衣冠を整えて西北を望んで再拝し、楼に登って火を放ち焼身して死んだ。
史論
- 論に曰く。孫欽は果敢で謀に長け、急変のさなかに乱を討った社稷の功臣である。王環は節に殉じなかったとはいえ、孤城を堅守し力尽きて縛についたのは五代の中でも際立つ。趙崇溥の餓死と高彦儔の焼身は、孟氏の国において忠烈の第一に推すべきものである。後主の母は常々「危急のときは彦儔にこそ任せられる」と言っていた。太后はまことに人を知る人であった。