十国春秋卷五十三 後蜀六 列傳 侯益

要約

侯益は平遥の人。腕力と勇猛さをもって唐末の荘宗に従い、功を重ねて馬軍直指揮使に至った。荘宗が汴に入ると副都校となり、明宗に従って趙在礼討伐にも加わった。諸軍が明宗を推戴した政変の際は身を脱して洛陽に帰り、明宗からも忠節を認められ、羽林軍の都校を歴任した。

後晋では奉国都校となり光州防禦使を領し、范延光の乱に呼応した張従賓の大軍を氾水で自ら太鼓を打って鼓舞し大破した。従賓は水に落ちて死んだ。この功により河陽三城節度使、さらに節度使・同平章事に進み、郷里を「将相郷勲賢里」と改めさせた。のち河中尹・護国軍節度使となった。

契丹が汴に入ると益は僚属を率いて詣で、北伐に関与していないと弁明して鳳翔節度使を得たが、漢の高祖が即位すると、契丹に仕えた過去を憂えて城壕を深く浚って備えた。

広政十年、後蜀の後主が招くと益は帰順を請いながら様子を窺い、漢の王景崇が鳳翔に迫ると殺されかけたが、すんでの所で漢に入朝した。隠帝に問われると「敵をおびき出して殺そうとしただけ」と詭弁で答え、賄賂を贈って開封尹兼中書令・魯国公を得た。景崇は怒って益の一族七十余人を殺した。

周に入っても楚国公・斉国公と厚遇され、洛陽に致仕し、宋の乾徳年間に八十五歳で没した。情勢に応じて主を変え続けた保身の将であった。

現代語訳全文

反覆と延命

  • 侯益は平遥の人である。腕力と勇猛さをもって唐の荘宗に従い、功を重ねて馬軍直指揮使に至った。荘宗が汴に入ると、本直の副都校となり、明宗に従って鄴で趙在礼を討った。たまたま諸軍が明宗を推戴したとき、益は身を脱して洛陽に帰ったので、荘宗はその背を撫でて涙を流した。明宗が即位すると、益は自ら手を縛って罪を請うたが、明宗は「お前は忠節を尽くしたのだ、どうして罪があろうか」と言った。羽林軍五十指揮の都校を歴任し、費州刺史を領し、外に出て商州刺史となり、西面行営都巡検使を加えられた。
  • 晋の初め、奉国都校となり、光州防禦使を領した。范延光が反乱を起こし、大名の張従賓が河陽に拠ってこれと声を通じたので、晋の高祖は益に禁兵数千人を率いてこれを討たせた。従賓の軍一万余人は氾水を挟んで陣を布いたが、益は自ら太鼓を打って兵士を励まし乗じて攻め、その軍を大いに破った。従賓は水に堕ちて死んだ。河陽三城節度使を拝し、武□軍(底本欠字)節度使・同平章事に遷り、なお門戟を賜り、郷里を「将相郷勲賢里」と改めさせた。翌年、秦州に鎮を移されたが、たまたま蒲州の帥である安審琦が許下に鎮を移されたので、益は河中尹・護国軍節度使とされた。
  • 契丹が汴に入ると、益は僚属を率いて契丹主のもとへ詣で、自ら北伐の謀りごとに関与していないことを陳べたので、契丹は鳳翔節度使を授けた。漢の高祖が即位すると兼侍中を加えられたが、益は自らかつて契丹の命を受けていたことから、漢の兵が洛陽に入ったと聞くと、これを憂え、城壕を深く浚って備えとした。
  • 広政十年、後主は人を遣わして王処回の書を持たせ益を招いたので、益はその子とともに降ることを請うた。このとき後主はすでに数万の兵を分道して呼応させていた。漢の高祖はこの事情を知り、左衛大将軍の王景崇・将軍の斉蔵珍に兵を率いさせて関西を経略させた。すでに趙匡賛が使者を遣わして漢に降ったので、益もまた翻意してこれに帰属することを請うたが、たまたま景崇らはまだ出発していなかった。漢の高祖は益を寝室に召し入れ、勅して言った、「匡賛と益の心はいずれもまだ推し量れない。お前が彼の地に至って、もし既に入朝していれば問うな。もしなお引き延ばして様子を窺っているならば、便宜に従って処置せよ」と。
  • 景崇が鳳翔に至ったとき、益はまだ出発していなかった。景崇は禁兵をもって諸門を分けて守らせ、あるいは景崇に益を殺すよう勧める者もあった。このとき漢の高祖はすでに崩御しており、景崇は先朝からひそかに受けた勅旨によるものであったので、後継の主はこれを知らず、あるいは専断で人を殺すことを疑って、かなり躊躇していた。益はこれを聞くと、景崇に告げずに立ち去り、景崇は悔いて自らを罵った。十一年二月丙戌、益はついに漢に入朝した。隠帝が「何のためにわが軍を招いたのか」と問うと、益は釈明のしようがなく、でたらめに答えて「臣は誘い出して殺そうとしただけです」と言った。隠帝はかすかに微笑んだだけであった。
  • 益は漢の臣である史弘肇らに厚く賄賂を贈り、開封尹兼中書令を授けられ、まもなく魯国公に封ぜられた。景崇はこれを聞くと、鳳翔に拠って、益の親族七十余口を殺した。益は周に入ると、楚国公に進み封ぜられ、太子太師に改められ、まもなくまた斉国公に改め封ぜられ、まもなく致仕して洛陽に帰った。宋の乾徳年間に卒した。享年八十五。子の仁矩・仁宝が知られている。