十国春秋十國春秋卷五十三 後蜀六 列傳(歐陽彬・李如實ほか二十四人)
巻の構成
- 後蜀六。呉任臣(検討官)の撰。列伝として歐陽彬・李如實・何瓚・賈鶚・范禹偁・毋守素・劉暠・多岳・劉保乂・李匡遠・韋嘏・王歸・王藻・劉璵・何隨・王賁・卞震・掌聿修を収め、続いて孫漢韶・張虔釗・何重建・石奉頵・侯益・趙匡贊を収める。
歐陽彬
- 字は齊美、衡州衡山の人。家は代々県の下級役人で、彬の代に至って学問を好み、辞賦を得意とした。
- 楚の武穆王(馬殷)が湖南を領有していた頃、自作を携えて府に面会を求めたが、取次ぎの掌客吏が賄賂を要求した。彬は私的な口利きで進むのを恥じて拒み、吏は名刺を地に投げ捨てて「役人の子が王侯に取り入ろうとするのか」と罵った。彬はこれを深く恨んだ。
- 以後、湖南の市中で落ちぶれ、歌姫や酒徒と交わった。歌妓の瑞卿が才を慕って家に迎え入れ、瑞卿はもともと年中行事で武穆王に奉仕していたので、彬は「九州歌」を作って与え、宴席で演奏させた。しかし王はついに顧みなかった。彬は「天下分裂の時代には雑兵や下働きでさえ身を起こせるのに、自分は何の落ち度でこの有様か」と嘆いた。
- まもなく西川へ向かう物資輸送の一団が出発するのに際し、歌妓から分けてもらった資金で輸送の下役の下僕に雇ってもらい、成都に入った。「万里朝天賦」を献じたところ前蜀の後主(王衍)が大いに喜び、翰林学士に抜擢した。
- 乾徳年間の初め、聘問に来た唐(南唐に先立つ後唐)の使者への応対にあたり、両国の歓心をよく得た。王氏が滅びると後蜀の高祖(孟知祥)のもとに帰した。
- 広政年間の初め、後主(孟昶)が嘉州刺史に任じると、彬は「青山緑水の中で二千石を務め、詩を作り酒を飲んで風月の主人と称する、これに勝るものがあろうか」と喜んだ。
- 累進して尚書左丞となり、寧江軍節度使として出された。夔州に着任すると楚の文昭王(馬希範)に手紙を送り、かつて蜀へ移った経緯を述べ、あわせて一族の面倒を頼んだ。文昭王は手紙を読んで大いに恥じ入り、彬の親族・友人の賦役をすべて免除した。以後、楚では士人であれば賢愚を問わず面会者を賓客の礼で遇するようになったが、これは彬の力である。
- 彬は風格があり、文章は簡潔で筋が通っており、そのために遇された。広政十三年(950年)に没した。
李如實
- はじめ後梁の末帝に東宮時代から仕え、清廉実直で知られた。末帝が即位すると賢良を遠ざけ小人を近づけたため、如實はしばしば諫めた。
- ある日、末帝が「天子は誰が任じるものか」と問うと、如實は「臣下が支えるのです」と答えた。末帝は「朕は三河の地を占め万民の上に立つ。天が授けたのであり、臣下が主君を作れるものか」と言った。
- 如實は反論した。太祖(朱温)は行伍から身を起こし、九死に一生を得てようやく四鎮を領し一人の位に就いた。陛下は深宮に育ち富貴に慣れ、余沢を受けて天下を継いだだけで、王業の困難も臣下の支えの重さも知らない。治にあって乱を忘れず、安きに居て危うきを思い、深淵に臨み薄氷を踏む思いで自らを責め過ちを省みるべきである。まして呉は強盛、蜀は繁栄し、太原には兄を殺された恨み、秦にも国を負う怨みがある。得失は一瞬で決まるのに、どうして天が授けたなどと言えようか、と。
- 末帝は怒って「頑固じじいとは話にならぬ」と言い、翌日鄭州へ左遷し、二泊の後に汝州副使へ落とした。
- 汝州に至ると自ら寝台付きの車を作り、車中に酒一瓢・琴一張・書数巻を置き、十数人の少年に引かせて大通りに乗り入れ、四方を眺めて朗々と吟じた。見る者の多くは陰で笑った。
- 長く召還の意向がないので不平を抱き、「落韻詩」を作って諷刺した。梁が滅びると成都に入り、高祖はその賢を知って戸部侍郎に任じた。在職のまま没した。
何瓚
- 閩の人。唐末に進士に及第した。後唐の荘宗が太原節度使であったとき召し出されて判官となった。
- 荘宗が出征するたび張承業が太原を守っていたが、承業が没すると瓚が代わって留守事を取り仕切った。明敏で吏務に通じ、外見はおおらかだが内実は緻密であった。
- 荘宗が即位すると諫議大夫に任じられ、やがて北京(太原)留守を願い出た。瓚は明宗と旧交があり、明宗が帝号を称すると召還されて内殿で長く慰労を受け、まもなく僕射に進んで西川節度副使とされた。
- ところが当時、高祖は副使の趙季良を腹心としていたので、瓚が代わると聞いて急ぎ季良の留任を奏請し、瓚は行軍司馬に改められた。瓚はやむなく成都に来た。
- かつて高祖が北京で馬歩軍都虞候であったとき瓚は太原留守で、高祖は軍礼をもって瓚に仕えたが、瓚はいつも法を厳しく適用したので高祖は快く思っていなかった。それでも司馬となった瓚をつとめて厚遇した。高祖が挙兵すると瓚の司馬職を解いて私邸に置き、瓚は恨みを呑んで死んだ。
- 瓚には「蜀城書事」の詩があり、「結局は林泉に隠棲するほかない、臥龍の跡を継ぐ才のないのが恥ずかしい」と詠んだ。この詩を作って百日後、重病を得たという。
賈鶚
- 青社の人。高祖に仕えて御史となり、剛直厳正で、私的な面会を家に受け付けなかった。
- 明徳元年(934年)、彭州刺史の田敬全に招かれて州の次官となり、やがて刺史の職務を代行した。政治は清廉公正で、人々は敬い憚った。
- 当時、彭州に「醋頭」と号する僧がいた。長い髭と垂れ髪で、功徳の灯と仏像を三衣代わりに掛け、狂気を装いながら予言を的中させることが多かった。鶚を恐れて州境に入ろうとしなかった。
- 彭州の人々が鶚のもとに願い出て、醋頭を呼び戻すよう請うた。鶚は判決文で厳しく退けた。出家しながら髪を伸ばして煩悩を断たず、像を衣に掛けて慈尊を敬わず、禅室で邪淫にふけり、妖言を発して衆を惑わし、勝手に暦数を論じて朝廷を侮り、みだりに災厄を説いて愚俗を迷わせている。いまだ悟りも得ないのに功徳を名目として私財を蓄え商いをしている。正しい人が事を荒立てず君子が寛容であったために、ここまで増長した。俗人どもが妖言を競い、連名で役所に来て迎え入れを望むとは嘆かわしい。厳しく取り締まってこの風潮を絶つべきである。境内に入り次第捕らえ、到着したら背を打って上奏せよ、と。醋頭はこれを聞いて隣の境へ逃げ去った。
范禹偁
- 九隴の人。父の范虔は衙吏。禹偁は若い頃は身を持ち崩し、生業に就かず、闘鶏や犬を走らせて遊び暮らした。
- 父の死後、母が張氏に再嫁したのに従って姓を冒し、張諤と名乗った。ある道士が「君の骨相は尋常でない。頭を下げて学問を受ければ後日必ず大貴となる」と言ったので、丹景山に入り師について苦学した。
- 天成年間に及第すると本姓名に復し、州の刺史に「昔の及第では誤って張禄の名を掲げたが、今日、故郷に帰って范睢の裔に戻りました」と申し出た。
- 高祖は蒙陽令とし、太子(後主)の侍読に入れた。後主が即位すると累進して翰林学士となった。
- 禹偁は吝嗇で蓄財に熱心であり、地方官を望んだが後主は都を離れさせず、簡州刺史を兼ねさせて毎年州から数千緡の銭を禹偁に納めさせた。
- まもなく科挙の貢挙を掌ると、賄賂の多い者を上位で及第させ、その値段を面と向かって評定して恥じる様子もなかった。挙子の馮賛堯は布衣時代からの友人だったが、家が貧しく金がないため最後まで及第させなかった。
- 後に後主に従って宋に降り、鴻臚卿を授かった。門下の士である白陽城が訪ねて来たとき、歓談して一日中議論した末に「近ごろ井戸を掘ったところ水が実に甘い。各自一杯どうぞ」と言い、食事も出さずに散会した。
毋守素
- 字は表淳、宰相の毋昭裔の子。二十歳で秘書郎から出仕し、累進して戸部員外郎・知制誥、正式に中書舎人、工部侍郎となり、雲安榷監使として出た。
- 後主は守素の二子、克温・克恭を召見してともに緋衣を賜り、克恭を鑾国公主に娶わせるなど恩礼が厚かった。
- 広政二十年(957年)、守素は工部尚書に任じられた。当時、昭裔が塩鉄を判じていたが老衰して職務に堪えず、実務を判官の李匡遠に委ねたため決裁が滞りがちだった。後主は守素に父に代わって使務を判じさせた。父子が職を継いだことを世人は栄誉とした。
- まもなく度支判に改まり彭州刺史を領し、さらに塩鉄を判じた。守素は親孝行に篤く、酷暑の夕方でも必ず朝服を着け笏を持って就寝の挨拶の礼を行った。
- 国が滅びて宋に入ると工部侍郎を授かり、成都の荘園と茶園を登録して献上した。宋の太祖は詔して銭三百万緡をその代価として与え、あわせて汴京に邸宅を賜った。
- 年末、兄の子の正已から、父の喪中に妾を娶ったと訴えられて免職となった。正已は当時、岳州司法であったが、これも一官を奪われた。
- 開宝年間の初め、国子祭酒として起用された。太祖の河東征討に際して趙州の知事を代行し、やがて容州の知事に移って本管の水陸転運使を兼ねた。
- それ以前、管内の民で租税を滞納する者は、県吏が立て替えるか有力者から借りるかし、しばしば妻子を質に入れていた。守素がこれを上表すると、その日のうちに禁止の詔が下った。五十三歳で没した。
- 大中祥符三年(1010年)、末子の克勤が、昭裔が刻した『文選』『初学記』『白氏六帖』の版木を献上し、三班奉職に補された。
劉暠・多岳
- 劉暠は(出身地は欠字)の人。王昭図とともに年齢も徳望も高く、当時の人は二人を「宿儒」と呼んだ。
- 多岳は天彭の人。後主が使者を遣わして召したが応じず、普州へ入り、鉄峰に寓居して生徒を教授した。門下からは名の知られた士が多く出た。
劉保乂
- 青州の人。『尚書』と『春秋左氏伝』の家学を修めた。広政年間の初め、戸部郎中として諸王の侍読を務め、金紫を賜った。後主が経義を問うと答えがしばしば意にかなった。
- 性格は厳格で気短く、日ごとに笞(夏楚)で諸王を課し、学業の進まない者を打った。王宮の乳母がひそかに、諸王のために少しは手加減してほしいと諭したところ、保乂は「良家育ちの性質は、厳しく督励しなければ後日みな豚や犬になる」と答えた。その端正で屈しない態度はこの類が多かった。
- 広政十年(947年)八月に没した。
李匡遠
- 後主に仕えて塩亭令となった。当時は盗賊が各地に満ちていたが、匡遠は日を空けず捕らえ、当時の人は「健令」と呼んだ。
- やがて塩鉄判官に遷り、宰相の毋昭裔に代わって使務を処理した。
- 匡遠は気短で、一日でも刑を執行しないと不機嫌になり、笞打つ音を聞くと「これは一部の肉の鼓吹(音楽)だ」と言った。八十二歳で没した。後に墓を暴かれ、四肢を切り分けられた。
韋嘏・王歸・王藻
- 韋嘏は唐の宰相韋(名は欠字)範の子。後主に仕えて御史中丞まで昇ったが、態度がどっちつかずで、当時「軟餅中丞」と呼ばれた。
- 王歸は簡州の人。若くして聡明で文章に巧みだった。広政年間に状元で及第したが、その後の消息は不明。
- 王藻は後主に仕えて翰林使となった。当時、安思謙が将として兵卒を多く殺し威を示していたため、後主は藻と密かに誅殺を謀った。ところが辺境の役人から急を告げる上奏があったのに藻がすぐ奏聞しなかったので、後主は怒り、安思謙とともに藻も殺した。
劉璵
- 唐の御史であった劉再思の孫。再思は僖宗に従って蜀に入り、蜀から長安へ戻る際に子の孟温を成都に留めた。孟温は成都で儒学を教授し、璵はその長子である。
- 璵は経学に精通し、広政十年(947年)に石室の教授に補されたが、まもなく没した。門人は私諡して「宝中先生」と呼んだ。
何隨・王賁・卞震・掌聿修
- 何隨は郫の人。後主のとき安漢令。国が滅びると官を辞した。当時、巴の地は飢饉で、人を送る役人の多くは民の芋を取って自分の食料にしていたが、隨は取った場所に綿を結び付けて代価を償った。民は芋のところに綿を見て「清廉と聞く何安漢とはきっとこの人だ」と語り合った。
- 王賁は後主に仕えて雅州刺史となり、廉潔な官吏と称された。子の王著は広政年間に進士及第し隆平主簿を授かって治績を挙げた。国が滅びて宋に降り、累進して殿中侍御史となり、書法で名を知られた。
- 卞震は成都の人。進士に及第し、広政年間に渝州判となって評判が高かった。宋に帰してからも旧職のままであった。賊が州城を囲んだとき、震は士卒を率いて防戦し、刺史とともに挟撃して賊を平定した。
- 掌聿修は魯の党氏の後裔。豪放不羈な性格で、太子左賛善大夫を歴任した。同僚の家述と親しく、二人ともに滑稽であった。ある日、聿修は述の酒甕が尽きかけているのを見計らって戸を叩き酒を求め、案の定、樽が空になった。聿修は壁に「酒客は喉が渇いて去る、残るは呷大夫のみ」と書きつけた。宋の掌禹錫は聿修の後裔だと伝えられる。
孫漢韶
- 振武の人。父の孫重進は後唐の太祖(李克用)の養子となり、李存進の姓名を賜った。荘宗のとき張処球と戦って陣没した。
- 漢韶は明宗に仕えて武定軍節度使となり、本姓に復した。潞王李従珂の乱では、漢韶は張虔釗らとともに討伐を上奏した。
- 虔釗が官軍に合流して鳳翔を攻める間、漢韶は興元を守った。虔釗が敗れて帰ると、二人はそろって両鎮を挙げて高祖に降った。
- 明徳元年(934年)七月、永平軍節度使に任じられた。広政年間に山南西道節度使に改められ、兵を移して固鎮を攻め散関を押さえた。後主が秦・鳳・階・成の地をすべて領有できたのは漢韶の功による。
- まもなく左匡聖都指揮使を授かり、さらに捧聖控鶴都指揮使に遷って中書令を兼ねた。広政十八年(955年)、武信軍節度使を加えられ楽安郡王に封ぜられ、軍職を退いた。七十余歳で薨じた。
張虔釗
- 後唐に仕えて山南西道節度使となった。護国の安彦威らの兵と合流して鳳翔を攻めた。鳳翔は城壕が浅く、城中は危機感に包まれた。
- 潞王李従珂は城壁に登って号泣し、「私は元服前から先帝に従い百戦し生死をくぐり、全身傷だらけで今日の社稷を立てた。いま朝廷は讒臣を信じ骨肉を猜疑する。私に何の罪があって誅されるのか」と訴えた。聞く者は哀れんだ。
- 虔釗は気短で、白刃を振るって士卒を城壁に追い立てた。士卒は怒って罵り、反転して虔釗を攻めた。虔釗は逃れて成都へ走った。
- 当時すでに興元は高祖のものであったが、高祖は改めて虔釗を同軍の節度使・同平章事としたが、虔釗は固辞して赴任しなかった。広政年間の初め、中書令を兼ねた。
- まもなく侯益が鳳翔にいたため、北面行営招討安撫使に充てられ、鳳翔を攻めて圧力をかけた。侯益は後主に帰順を申し出たが、虔釗が宝鶏に至って兵を止め進まないうちに、益は再び翻意して漢に付き、虔釗の軍を拒んだ。虔釗は孤立し、ついに退却して興州まで戻り、恥辱と憤りのうちに死んだ。広政十一年(948年)二月のことである。
何重建
- 後晋に仕えて雄武軍節度使。晋が滅びると秦・階・成の三州を挙げて後主に降った。
- 当時、北平王の劉知遠はこれを聞いて「中原に主がなく、藩鎮が外に付くとは。方伯たる自分は恥じ入るばかりだ」と嘆いた。
- 重建はさらに宮苑使の崔延琛を遣わして鳳州を攻めさせた。後主は重建に同平章事を加えた。
- まもなく張虔釗が鳳翔を征討する際、重建は招討安撫副使に任じられ、虔釗は散関から、重建は隴州から出た。軍容は盛んであったが長く成果がなく、韓保貞らとともに兵を引いて西へ戻った。まもなく成都に来て、数年後に没した。
石奉頵
- 一名は頵。後晋の高祖の一族。出帝のとき鳳州防禦使。
- 広政十年(947年)、鳳州を挙げて後主に降り、蜀の名将となった。
- 広政二十八年(965年)、宋軍が境内に入ると、後主が群臣に策を問うた。頵は「東軍は遠来で長くは持たない。兵を集め城壁を固めて疲弊させれば、敵はたちまち退く」と述べたが、後主は従わなかった。頵の行方はついに分からない。
侯益
- 平遥の人。武勇をもって後唐の荘宗に従い、功を重ねて馬軍直指揮使に至った。荘宗が汴に入ると本直副都校となり、明宗に従って鄴の趙在礼を討った。諸軍が明宗を推戴すると、益は身をもって洛陽に帰り、荘宗はその背をなでて涙した。
- 明宗が即位すると益は自ら縛って罪を請うた。明宗は「お前は忠節を尽くしたのだ、何の罪か」と言った。羽林軍五十指揮の都校を歴任し費州刺史を領し、商州刺史として出て西面行営都巡検使を加えられた。
- 晋の初め、奉国都校となり光州防禦使を領した。范延光が反し、張従賓が河陽に拠って呼応すると、晋の高祖は益に禁兵数千を率いて討たせた。従賓の軍一万余が氾水を挟んで陣を敷いたが、益は自ら太鼓を打って攻めかかり大敗させ、従賓は水に落ちて死んだ。河陽三城節度使に任じられ、武(欠字)軍節度使・同平章事に遷り、門戟を賜り、郷里を「将相郷勲賢里」と改めさせた。
- 翌年、秦州に鎮を移した。蒲帥の安審琦が許下へ移鎮したため、益を河中尹・護国軍節度使とした。
- 契丹が汴に入ると、益は僚属を率いて契丹主のもとへ行き、北伐の謀議に加わっていないと弁明した。契丹は鳳翔節度使を授けた。漢の高祖が即位すると侍中を加えられた。
- 益は契丹の任命を受けた身であったから、漢の兵が洛陽に入ったと聞いて憂え、城濠を浚えて備えた。広政十年(947年)、後主が王処回の書状を持たせた使者を送って誘うと、益は子とともに降伏を請うた。後主はすでに数万の兵を出して分道して応じさせていた。
- 漢の高祖はこれを知り、左衛大将軍の王景崇と将軍の斉蔵珍に関西経略を命じた。ところが趙匡贊が使者を送って漢に降ると、益もまた翻意して漢に付くことを請うた。景崇らがまだ出発しないうちに、漢の高祖は寝所に召して「匡贊と益の心はいずれも読めぬ。着いたとき既に入朝していれば問うな。なお引き延ばして様子を窺うようなら、臨機に処置せよ」と命じた。
- 景崇が鳳翔に至っても益はまだ出発していなかった。景崇は禁兵で諸門を分守させ、益を殺すよう勧める者もあった。だがこのとき既に漢の高祖は崩じており、景崇は先帝の密旨を受けた身で新帝はそれを知らないため、専殺を疑われることを恐れて決しかねた。益はこれを聞き、景崇に告げずに去った。景崇は悔いて自らを罵った。
- 広政十一年(948年)二月丙戌、益は漢に入朝した。隠帝が「なぜ我が軍を招いたのか」と問うと、益は釈明できず、でたらめに「誘い寄せて殺すつもりでした」と答えた。隠帝はかすかに笑っただけであった。
- 益は漢の重臣である史弘肇らに厚く賄賂を贈り、開封尹兼中書令を授かり、まもなく魯国公に封ぜられた。これを聞いた景崇は鳳翔に拠り、益の親族七十余人を殺した。
- 益は後周に入って楚国公に進み、太子太師に改まり、さらに斉国公に改封された。まもなく致仕して洛陽に帰り、宋の乾徳年間に八十五歳で没した。子の仁矩・仁宝が世に知られた。
趙匡贊
- 字は元輔、本名は美、のちに改名した。幽州薊の人。祖父の趙徳鈞は後唐の盧龍節度使で北平王に封ぜられ、父の趙延寿は明宗の娘を娶り忠武軍節度使に至った。
- 匡贊は幼くして聡明で、神童の挙に応じ、明宗の詔で童子及第を賜り、礼部の春の合格榜に附された。
- 清泰年間の末、晋の高祖が并州で挙兵すると、延寿は兵を率いて上党に駐屯し、徳鈞は本軍を率いて幽州から合流した。晋の高祖が契丹の援けを得て南下すると、徳鈞父子は晋に降ったが、契丹主はこれを拘束して北へ連れ去った。匡贊だけは母の公主とともに西洛に残った。
- まもなく晋の高祖は匡贊に母を奉じて薊門へ帰らせ、契丹は金吾将軍に任じた。数年後、契丹が延寿を范陽節度使とすると、匡贊も牙内都校に任じられた。
- 開運年間の末、契丹主が南侵を謀るにあたって政務を延寿に委ねた。平原が陥落すると、匡贊は契丹から河中節度使に任じられた。延寿が契丹に従って北へ帰った後、匡贊は河中に留まって鎮守した。
- まもなく漢の高祖が晋陽で起つと、匡贊は上表して即位を勧め、検校太尉を加えられ河中に鎮したまま、京兆尹・晋昌軍節度使に改まった。
- 匡贊は漢に疑われるのを恐れ、広政十年(947年)冬十月、上表して後主に降り、終南山の道から兵を出して応援するよう請うた。
- 翌年春正月、判官の李恕が匡贊に説いた。漢はいま建国したばかりで完全に治めるのは難しい、まず漢に入朝させてください、あなたのために弁明します、蹄の跡ほどの水たまりに一尺の鯉は入りません、蜀に入るのは万全の策ではなく必ず後悔します、と。
- 匡贊はそこで恕を漢へ遣わした。恕は漢の高祖に「匡贊は家が燕・薊にあり自身も契丹の任命を受けたので恐れを抱き、陛下が容れてくださらぬと思って西軍を招き、身の安全を図ったにすぎません。国家が定まったばかりで臣民を安んじるべきだからこそ、私に哀訴して拝謁を乞わせたのです」と述べた。高祖は「匡贊父子はもともと我が方の人間で、契丹に仕えたのは不幸のためだ。いま延寿が罠に落ちたと聞くのに、匡贊を容れられようか」と答えた。
- 恕が戻らぬうちに匡贊はすでに鎮を離れて漢に入朝しており、漢は左驍衛上将軍に任じた。後周に仕えて左羽林・右羽林・左龍武の三統軍を歴任し、戦功で累進して保信軍節度使となった。
- 恭帝の即位で開府の階を加えられ、宋の初めに検校太師を加えられ三鎮を歴任した。太祖の晋陽討伐では行営前軍馬歩軍都虞候となり、弩の矢が足を貫いた。太祖はたびたび労い良薬を賜った。鄜州に鎮を改め、太宗のとき衛国公に封ぜられ、五十五歳で没し侍中を贈られた。
- 匡贊は詩を好み、立居振舞は落ち着いて優雅で、士大夫に礼をもって接した。後に宋の太祖の偏諱を避け、「匡」の字を除いて単に「贊」と称した。
史論
- 論に曰く。孫漢韶と張虔釗はいずれも後唐の忠実な臣であり、兵が潰えて帰順した点は同じだが、一方は爵位を賜って安楽に終わり、一方は憤懣のうちに命を落とした。成るも成らぬも運命である。何重建は終始節を変えず、石奉頵も長年二心がなく、その人となりはともに取るべきものがある。侯益や張虔釗のように反覆して定まらず、他人の都合で帰順を申し出るのは、危うきに乗ずる類にほかならない。それでも首を全うして死ねたのは幸運というべきである。