出仕と諫言
- 母昭裔、字は□(底本欠字)、河中龍門の人である。博学で才名があった。高祖が西川に鎮するや、招かれて掌書記となった。
- 唐の客省使李厳が来て高祖の軍を監視したとき、昭裔は厳を止めるよう請うたが、高祖の内心はこれを聞き入れなかった。高祖はついに厳を誅したが、それでも昭裔の才思を奇として、大いに用いた。高祖が即位するに及び、御史中丞に抜擢された。
- 後主が即位した翌年、中書侍郎・同平章事を拝した。すでにまた門下侍郎に改められた。広政三年、塩鉄を分判し、しばらくして順次昇進して左僕射となった。
- 当時、漢の趙思綰は永興に拠り、王景崇は鳳翔に拠って反乱を起こし、ひそかに後主に款を送ってきた。後主は安思謙を遣わしてこれに応じさせようとしたが、昭裔は上疏して諫めて言った、「密かに見ますに、荘宗皇帝は西を顧みることを貪る志を持ち、前蜀の主は北へ行こうとする意を抱きましたが、朝廷にある臣は皆諫めの疏を貢いだにもかかわらず、まったく聞き入れられず、何の成果があったでしょうか。ただこの両朝のことこそ鑑戒とすべきです」と。後主はその言葉を用いず、ついに功はなかった。
- 数年後、太子太師として致仕した。
文教の興隆
- 昭裔は生来書物を蔵することを好み、古文をひどく愛し、経学に精通していた。常に雍都の旧本九経に照らして張徳釗に命じてこれを書かせ、成都の学宮に石に刻ませた。
- 蜀の地は唐末以来、学校が廃絶していたが、昭裔は私財を出して学宮を営み、校舎を建て、さらに後主に請うて九経を版に彫らせて印刷させた。これによって文学は再び盛んになった。
- また門人の句中正・孫逢吉に文選・初学記・白氏六帖を書かせ、版に刻んで発行させた。後に子の守素がこれを中朝(宋朝)に持参し、諸書はついに世に大いに広まった。著書に『爾雅音略』三巻がある。