十国春秋卷五十二 後蜀五 列傳 李昊

要約

李昊、字穹佐は自ら唐の宰相李紳の後裔と称した。祖父乾祐は建州刺史、父羔は容管従事。関中に生まれ幼くして唐末の乱に遭い、父に従って奉天に難を避けたが、岐の軍が奉天を攻め破った際に父と弟妹はみな殺され、十三歳の李昊だけが独り免れて新平に十余年流寓した。劉知俊が岐の軍を率いて州城を包囲した際、城を越えて出たところを捕らえられたが、知俊に才を見出されてその娘婿となり、知俊が前蜀に帰して武信軍節度使となると従事に任じられ留守の任も任された。知俊誅殺に連座して一時職を罷めたが、前蜀後主の代には彭州導江令、中書舎人、翰林学士を歴任した。この間、岐の乱で生き別れた母を十九年ぶりに使者を遣わして迎え、境上で対面した際、母が李昊の頭を撫でて号泣した哀話も伝わる。

後唐が前蜀を滅ぼすと洛陽に赴いたが久しく官を得られず、高祖に招かれて観察推官となり、ちょうど完成した羊馬城を記念する『羊馬城記』を撰した。この記は蜀の歴史的由来から高祖入蜀の経緯、康延孝の乱平定、羊馬城築造の労役と完成までを美文で綴った長篇で、高祖の武功と善政を称える内容であった。以後、高祖の表・奏・書・檄はすべて李昊の手になり掌書記に昇進、高祖即位後は礼部侍郎・翰林学士となった。

後主の代には門下侍郎兼戸部尚書・同平章事・監修国史を歴任し、史官を置いて『後主実録』『前蜀書』の編纂を主導、その功で趙国公に封じられた。高祖に代わって書いた奏疏を『経緯略』百巻にまとめて献上し、司空・武信軍節度使を兼ね判度支使にも任じられるなど枢機に長く出入りした。国政の要諦に通じ、董璋討伐の際には知祥に独断専行を戒め、東川との関係を保つよう進言し、宋との関係でも降伏やむなしと説くなど識見を示した。子への官位授与を辞退し旧知の子弟に譲るよう願い出た逸話や、実録を後主が見ようとした際「帝王は史書を閲覧すべきでない」と諫めて奉じなかった逸話も伝わる。

国が滅びると後主に従って宋に降り、工部尚書を拝命し邸宅を賜ったが、峡江を下る途上で妻を亡くし、悲しみのあまり病を得て七十五歳で没した。右僕射を追贈された。長子孝逢は宋で膳部郎に改められ、次子孝連は鳳儀公主を娶って将作少監となり、孫の徳鏻は国子博士に至り徳錞は進士に及第するなど、一族は宋代にも栄えた。

昊は蜀に仕えること五十年、将相を兼ねる栄達を得たが奢侈も甚だしく、後堂の妓妾数百人を抱え、名花に牛酥を添えて贈る「花がしおれるのを待って牛の酥で煎って食べよ」という「花酥」の風流や、江南との通好で得た李紳の制書を彩楼に飾り成都中の声妓を集めて盛大な宴を催した逸話が伝わる。前蜀・後蜀いずれの降表も李昊の起草によるもので、蜀人はその邸の門に「代々降表を修める李家」と署して貼り、見る者はこれを嘲笑したという。文集『枢機応用集』二十巻のほか高祖実録三十巻、後主実録八十巻を著したが、多くは散逸して不完全である。

現代語訳全文

出自と若年期

  • 李昊、字は穹佐。自ら唐の宰相李紳の後裔であると言った。祖父の乾祐は建州刺史、父の羔は容管従事であった。
  • 昊は関中に生まれ、幼くして唐末の乱に遭い、父に従って奉天に難を避けた。昭宗が洛陽に遷るに及び、岐の軍が奉天を攻め破り、父と弟妹はみな害を被った。昊はこのとき十三歳で、独り免れることができ、そのまま新平に十余年流寓した。
  • たまたま劉知俊が岐の軍を率いて州城を包囲したとき、昊は城を越えて出たところを斥候騎兵に捕らえられ、知俊は召してこれと語り、大いに彼を器量ある者と認め、門下に置いて娘を娶らせた。知俊が前蜀に帰し武信軍節度使となるに及び、昊を従事に任じた。まもなく知俊が鳳翔へ出師する際、昊に留守の任を主らせた。知俊が誅殺されると、昊もこれに連座して職を罷めた。
  • 前蜀の後主の時、彭州導江令を授けられ、中書舎人・翰林学士を歴任した。

母との再会

  • 岐の軍による難のとき、昊の母だけは無事であった。この時から十九年、昊はすでに仕官して顕達していたので、使者の張金・王彦を間道から遣わして母を迎えさせ、自らも境上に告暇を請うて出迎えた。前蜀の後主は金の轡と名馬を賜り、昊は青泥嶺で母に会うと、母は昊の頭を撫でて号泣し、その哀しみは道行く人をも感動させた。

高祖への出仕と羊馬城記の起草

  • 王氏(前蜀)が滅びると、昊は洛陽に入り、唐の明宗は検校兵部郎中を授けた。詔により高祖と趙季良に、榷塩・度支・戸部のいずれかの職を昊に授けるよう命じたが、昊は成都に至って久しく授けられるところがなかった。たまたま高祖が季良を西川節度副使に奏請したので、昊は表向き辞退して洛陽に帰るふりをしたところ、高祖は初めて彼を観察推官に招いた。
  • このとき羊馬城の築造が完成を告げ、昊は筆を執って記を作った。その概略は次のとおりである。
  • 思うに、蠶叢が国を開いたときには魚鳧が湔山で仙化し、望帝が基を開いたときには鼈霊が岷水で生まれ変わった。その後(蜀は)梁漢の地を併合し、巴賨をにらみ見下ろし、狩猟の騎兵が奔り馳せて襃谷で秦王と会盟し、石牛が往来して剣門に蜀への道を開いた。むなしく玉に化けたという微かな伝説に驚くばかりで、どうして石牛が糞から金を出すという偽りの利益を得られたであろうか。
  • そもそも秦の暦を分かち受けて以来、その名声は中華の風化に接し、代々英雄豪傑が現れ、代わる代わる諸侯の長となった。運が非常なるにあたっては公孫述(子陽)が虎踞の機に乗じ、時が尋常でないのに遭っては劉備(玄徳)が龍蟠の勢いを負った。張儀が城壁を築いた経営は、賦役が九年に及び、(隋の)楊秀が壮大な高い城壁を築いた功業は、最後の一簣(もっこ)にまで及んだ。
  • わが唐が天下に君臨するに及んでは、聖徳は明らかに輝き、武威は雷のように百王を驚かせ、文徳は日のように四海を照らした。ただこの益州の地は、あの卭関を押さえる要衝であり、南詔の王はほしいままに事を起こそうとする心を抱き、坦綽(南詔の官名)は狡猾な野心を包み隠し持ち、時にわが軍が鼓を伏せて休む隙をうかがい、わが軍備を偵察し、弓を彎いて射を学ぶ山に構え、犀を沈める木で馬に水を飲ませ、玉帛や子女は鑿歯(南方異民族)の郷へ漂い流れ、珠翠や綺羅は雕題(南方異民族)の地に散り失われた。歴代の朝廷はこれを忘れ、安楽にふけることを深く憂い、殷の高宗のように憂え夢に良臣を求めても、良臣はむなしく弾劾されるばかりであった。
  • (この地の)大きな守りである南康王は、儒学の道をもってこの地を懐柔し、詩書を教え習わせた。燕国公は、将としての謀略と威徳をもって斧鉞を研ぎ澄まし、錦水に波瀾を鎮め、羅城に制度を創始し、通常の百雉(城壁の規模)の規則を超え、一隅の欠けたる事を補ったが、それも過去のこととなり、天が変異を告げるに至った。
  • 天の禄(唐の国運)が中途で衰え、王建はまさにその機運を転じ、王氏(前蜀)はついにその鼎足(天下三分の勢力)を分かち取った。やがて荘宗(後唐荘宗李存勗)が断絶した唐の統を継ぎ、皇統は中興し、霊旗は西の巴・庸を指して進み、蜀主(前蜀王衍)は東の伊水・洛水のもと(洛陽)へ入朝した。
  • 先帝(後唐明宗)は蜀の地を新たに回復したばかりであったので、遠方の人心を懐柔しようとし、権謀に頼る必要から、勲戚を顧みて用いることとし、そこで詔をもって丹鳳(詔書)を飛ばして并州の門から何晏を召し、蒼龍の節を立てて井絡(蜀の地)に杜悰を封じ、すなわちわが太尉侍中平原公(高祖)は、茅土を分かたれ金闕にて封ぜられ、彤廷(宮廷)にて瑞(印綬)を受け、幕舎は竹馬の邦(蜀の異名)に移り、車輪は木牛の道(蜀への桟道)を轢いて進み、星のごとく十乗の車を馳せ、霧を払って三川の地を平定した。公がこの地に鎮臨した最初の年は、中興(後唐明宗の中興)の四年目にあたる。
  • 年は丙戌にあたり、春正月十一日、公は鉞を杖として(この地に)到着した。まもなく一年もたたぬうちに、逆賊の頭目康延孝が普安から兵を盗んで叛乱を起こし、詔を偽って蜀の地を窺い狙い、わが鹿頭営を□(底本欠字)県において犯した。人々の心は憂え慌てたが、公の心は落ち着いており、羽檄を飛ばして兵を集め、林木を伐って柵を立てた。そこで精鋭の将領を選び、勇猛な兵を分けて配置し、電光のごとく妖しい巣窟を撃ち、火をもって狡猾な穴を燻り出し、一度太鼓を打つだけで元凶の気勢は喪われ、攻めを重ねるうちに同悪の徒は疲れ果て、鄧艾を檻の中に捕らえるように、龐涓を樹の下で斬るように、これを討ち平らげた。
  • まもなく先皇(明宗)が世を厭い崩御し、今上が皇統を継承し、聖なる政治は維新され、深い思慮をもって旧臣を求め、山河(蜀の地の統治)の委任を改めることなく、永く社稷の臣とした。一年にして貂の冠飾りを加えられ、また一年にして掌武(軍を掌る要職)に昇り、将軍の幕下では虎豹のような爪牙(勇猛な部下)を並べ、丞相府の中では重要な補佐役というわけではなかったが、それでも力を尽くして国家に奉じ、勤めて職貢を修め、宝物や貢物は剣桟(剣門の桟道)に連なり、包茅(貢物)は玉京(都)にひっきりなしに送られ、その事跡は史書に絶えることなく記され、官府には貢納の途絶える月はなかった。
  • 公はある日、将吏たちに言った、「そもそも華陽の旧国(蜀)は、天下の奥深い地域であり、その土地は陸海の珍(豊かな産物)と称され、民は沃野の利益を持っている。城郭には楼台が幾重にも映え、珠玉が鮮やかに輝き、山河は帯のように連なり、風物は秀麗である。もし城壁の防備を戒めなければ、これは武備を軽んずることになり、豺狼(外敵)の野心を挫くためには、羊馬城(外郭の防御施設)を営む必要がある」と。
  • 上奏文を封じて奏上し、日を計り工程を量り、境界を分けて縄で基礎を定め、方角を弁えて敷地を画した。百城の人夫たちの力は勢い盛んで、呼べば響きのごとく応え、雲のように十万の勇士が集まり来て、命令すれば風のように行われ、霧のように杵の音が集まり、雷のように版築の音が震え、雲のように人夫が並び立って、王猛のように城の片隅でもっこを担ぎ、傅説のように岩の下で鍬を振るった。公は日を隔てて巡視し慰撫したので、労役に従う者たちは疲れを忘れ、あまねく米や塩を給し、等しく酒や食物を頒ち与え、五丁の力に匹敵するかのごとく、恩徳のもとに三十日余りで完成した。
  • 公は、外郭の城(羅城)はすでに設けられているものの、なお備えに不足があると考え、さらに大きな敵塁(望楼)を四隅に築いて鎮めとした。険しくそびえる山のように月を掛け、独立して聳える峰のように鴉を棲ませ、遥かな虚空に楼閣・望楼を厳めしく構え、天のかなたに刁斗(夜警の道具)を懸けた。
  • その東南方は、まっすぐに象耳山を分かち、遥かに峨眉山を望み、雲霞は呉楚の空に収まり、靄立つ水は黔・䕫(黔中・夔州)への船棹を送る。その西南方は、傍らに玉塁山に連なり、平らかに金堤を望み、夜には火井(天然ガス井)の光を仰ぎ見、暁には雪峰の彩りを望む。その東北方は、遥か雲頂山を望み、気は金堂に欝と満ち、雨が晴れれば幾重の山々が新たな屏風のようになり、靄が薄くかかれば重なる峰々が絵のように暗く沈む。その西北方は、広漢を襟や袖のごとく近く抱え、天彭を肘や腋のごとく近くに置き、魚龍は万歳の池に躍り、鸞鶴は陽平の苑に舞う。
  • あるいは碧鶏山で鶏が暁を告げて鳴き、金馬山で馬が風にいななくとき、公は旄や戟の儀仗を擁して登臨し、山川の勝景を眺めた。ここに公の心が軒轅の鏡のごとく万物を照らし、鬼神をも恐れ竄れさせるほど明察であり、手には漢の権柄(鈞)を執り、天地の造化をも錙銖(きわめて細かく)計り得ることが見て取れる。よくこの明らかな御代において、この豊かな功業を打ち立て、従来堅固とされた金甌(金の甕、堅固な国土のたとえ)を漏れる盃と見なし、小さな鉄甕をありふれた器と見なすほどに、この城の堅固さは優れている。
  • 帝の意向は感嘆され、王の詔(綸)は奨め記録され、詔書には次のように勅せられた、「詳しく奏上のことを省みるに、当府の城池を重ねて修築するという事業の趣旨はつぶさに了解した。卿は王の節を分かち賜り、栄えある錦城(成都)の鎮めとなり、富貴を守って窮まりなく、功名を慕って朽ちぬものとし、特に金湯(堅固な城)の守りを高くして、遠く僻遠の邦を威圧せしめよ。ましてや年は豊作にあたり、また農閑期でもあり、暫時の労苦によって永遠の安逸を得るとともに、不慮の事態にもあらかじめ備えることができる。ますます廟堂の謀りごとが正しく、朝廷の委任にかなっていることがわかる」と。
  • 士農工商の四民は役所の門に喧しく群れ集い、万人の声は階段の前に沸き立ち、古老たちは言った、「公侯の政治は神明にかない、慈しみは父母のごとくである。前年には延孝の乱を平定し、今年は蛮蜑(蛮族)の憂いを防ぎ、城池のために力を尽くし、郷里の安寧に努めておられる。その功徳は民に在り、憂え勤めて国に報いておられる。どうしてその立派な功業を叙述し、真珠のごとき玉石に彫り記さずにいられようか」と。
  • 公は諸々の賓客・佐吏に向かって言った、「修めたこの辺境の備えは、国の威光を輝かせるものである。臣としての節義を今この時に尽くし、帝の徳をはかりごとを万古に彰そうとするが、これは決して自分一人の力によるものではなく、人々の思いを押しとどめることも難しい。誰か子游・子夏のような文才の持ち主に、見聞したことを記してもらえまいか」と。
  • わたくし李昊は宰相の家柄も衰え落ちぶれ、家業も寂しく振るわぬ身でありますが、(前漢の)尹翁帰のような文武の才を、明るい御代にあってお尋ねいただき、(晋の)荀息のような忠貞の志を持ち、暗室にあっても欺くことのない心構えでおります。眠りにあっても白鳳のごとき志は高く昂り、筆を執れば墨龍のごとく天に踊り上がる勢いがあります。
  • ああ、鄧禹が政を執った歳のように家門を継ぐ慶びはあったものの、陸機が洛陽に赴いた年のように国政を観るに堪えないこともあった。むなしく壮んな志節だけを残し、退いて良き知己を頼み、幸いにも車を駆って故郷の園に帰り、筆を執って誤って華麗な館に列することとなった。金台や玉帳のような立派な場に、あえて俊才の肩を並べようとし、緑水紅蓮(美しい蓮池)のほとりで、鵷鸞(立派な人材)の後を継ぐことができた。しかしながら拙い技量を深く恥じ、雄大な計画を賛えるには足りない。杜預(征南将軍)は呉を平定した誇りをもって石碑を漢水に沈め、竇憲(車騎将軍)は出塞の功を明らかにして燕然山に石碑を刻んだが、それでもなお簡書に光り輝く記録を残し、功業を発揚することができた。まして城のこの巨大な工事とともに、永く大地の要(坤維)を固めるこの事業においては、なお黄絹の辞(優れた文章)に乏しく、誰が白圭の玷(わずかな瑕)を拭い去ることができようか。恩を受け命を承って、事を記し年を表すこの記は、巍然として崩れ落ちることなく、どうして丘が谷となるような時の変化による荒廃の憂いがあろうか。

後主への出仕と栄達

  • これより高祖が蜀にあった間、表・奏・書・檄はすべて李昊の手から出て、掌書記に昇進した。高祖が皇帝に即位すると、礼部侍郎・翰林学士に抜擢された。
  • 後主が即位すると、漢州刺史を領し、兵部侍郎に遷り、広政年間に承旨を加えられ、武寧軍を知した。
  • 後主は常に李昊の二人の子に官を授けようとしたが、昊は固く辞退し、さらに「遂州判官の石欽若・蘇涯はかつて蜀のとき同じく劉知俊の幕下におりました。どうかその官を石欽若らに授け直していただきたい」と述べた。後主はこれを嘉して称賛し許可した上で、なお李昊の二子にも官を授けた。
  • まもなく尚書左丞を加えられ、門下侍郎兼戸部尚書・同平章事・監修国史を拝し、そこで史官を置くことを願い出て、給事中の郭廷鈞・職方員外郎の趙元拱を修撰とし、雙流令の崔崇構・成都主簿の王中孚を直館とした。すでに左僕射を加えられた。
  • 後主が高祖の真容院において文武三品以上の像を東西の廊に描かせるよう詔したとき、李昊には参佐の功があるとして特に殿内に描かせた。
  • このとき昊は高祖に代わって書いた奏疏を編集して百巻とし、『経緯略』と名付けて後主に献上したので、珍しい器物や錦の綵を非常に厚く賜った。まもなく判度支・戸部に任じられた。
  • 十四年、後主実録四十巻を修め終えたが、後主がこれを取り寄せて見ようとすると、昊は「帝王は史書を閲覧するものではありません」と言い、あえて詔を奉じなかった。
  • まもなく母の喪に服したが、百日で服喪を切り上げて起用され、また前蜀書を修めるにあたり、昊に趙元拱・王中孚および諫議大夫の喬諷・左給事中の馮侃・知制誥の賈玄珪・幸寅遜・太府少卿の郭微・右司郎中の黄彬とともに撰させ、四十巻を完成させて上呈させた。編纂の事務を取り仕切った功により趙国公に封ぜられた。
  • まもなく司空を加えられ、武信軍節度使を領し、外に出て塩鉄を判し、弘文館大学士を加えられ、太廟の礼儀を修奉する使となった。後主は昊の四人の孫をすべて召して、太子鳳儀郎舎に任じ、みな緋衣を賜った。すでにまた昊を判度支使に改めた。
  • 国が滅びると、後主に従って宋に降った。宋の太祖は彼を厚遇し、工部尚書を拝命させ、邸宅を賜った。親族が舟に乗って峡江を下り彝陵に至ったとき、妻が死に、昊はこれを聞いて悲しみのあまり病を得て卒した。享年七十五。右僕射を贈られた。

晩年の逸話と評価

  • 昊は前後して蜀に仕えること五十年、後主の代には将相を兼ねる地位にあり、利権を握り、財貨の年収は数え切れず、奢侈は特に甚だしかった。後堂の妓妾は羅や綺(絹織物)を曳く者数百人おり、常に名花を僚友に配って与え、それに興平の酥(乳製品)を添えて、「花がしおれるのを待って、牛の酥で煎って食べなさい」と言った。これを「花酥」と呼び、その風流な趣はみなこの類であった。
  • 後主が江南(南唐)と通好した際、使者の趙季札を遣わして聘問させ、李紳が武宗朝に入相したときの制書を購い得て持ち帰らせ、これを昊に贈った。昊は彩り豊かな楼閣を結い、その中にこれを置き、成都中の声妓をすべて召し集め、昊は朝服姿でこれを前に迎え、私邸に持ち帰って賓客を大いに集めて宴を開き、その費用は数え切れなかった。帛二千匹をもって季札に謝礼した。
  • そもそも前蜀が唐に降ったとき、その降表は昊が起草した。後主が(宋に)降ったときも、その降表もまた昊が作ったものであった。蜀の人々はひそかにその門に「代々降表を修める李家」と署して貼りつけ、見る者はこれを嘲笑した。
  • 文集二十巻があり、『枢機応用集』と名づけられた。また高祖実録三十巻、後主実録を続けて撰した八十巻があるが、多くは散逸して不完全である。
  • 長子の孝逢は、広政年間に給事中の官にあり、宋では膳部郎に改められた。次子の孝連は鳳儀公主を娶り、宋に入って将作少監となった。孫の徳鏻は国子博士に至り、徳錞は進士に及第した。