十国春秋卷五十一 後蜀四 列傳 李肇

李肇

李肇は汝陰の人である。初め後唐に仕えて陝虢都指揮使となった。高祖が漢州の役で李紹琛を追獲した際、また肇と侯宏実の二人を得て、その才を奇として心相い得るところがあり、すぐに肇を牙内馬歩都指揮使に署した。まもなく唐師が剣門を破ると、高祖は肇を遣わして兵を率いて剣州に拠らせ、道を倍にして兼行し唐軍は恐れるに足りないと戒めた。肇はすでに剣州に至って河橋に兵を屯していたところ、たまたま唐の騎兵が来て陣を衝いた。肇は強弩数百をもってこれを射たので、唐の騎兵はあえて進まず引き去った。まもなく肇は成都に帰った。昭武留後の趙廷隠は本軍をもって三たび肇に譲り、高祖はそこで肇に利州の守りを代わらせた。董璋が兵を興すや、故らに肇に書を致し自分と連謀するかのように見せかけたが、肇はその使いを獄に繋ぎ、しかも兵を擁して自衛の計をなした。璋が敗れると肇はついに璋の使者を斬って献じた。長興四年、高祖は墨制をもって肇を昭武軍節度使に署した。唐の明宗はことごとくその署するところに依った。まもなく奉鑾粛衛都指揮使を兼ねた。後主が初めて立つと兼侍中を加えられた。肇は先朝の功臣であることを恃み時に入朝せず、漢州に至って親戚と留まって宴飲し高会すること旬日を過ぎた。久しくして杖をついて後主に見え疾を詐って拝しなかった。後主はすでに李仁罕を誅して心は肇を平らかに思わず、左右は肇の傲慢をもって刑を加えるよう請うたので、後主はついにその軍務を罷めて太子少傅に改め邛州に徙し、そこで死んだ。

史論

論じて言う。文粛(趙季良)ら諸人はもと高祖創業の勲臣であり、史がいわゆる五節度使と号する者である。景として覇主に従い豹変雲蒸したのは盛んと言うべきであろう。しかし運籌して敵愾し始終を克保したのは両趙の功績が最も茂んであった。仁罕は罪に伏し、業は良死せず、肇は老いて邛に臨んだ。功高くして志満ち禍を招くに至ったのは、けだしみな自ら作すところがあったのではなかろうか。